うつくしい=つよい=いきるは繋がっている?
なるべくしてなるもんだ、自然界の調和からみいでる美
最近生命と自然界の「そうなるべくしてなる」という成れの果ての調和に驚きと畏怖の念と美しさを感時ております。
人間は他者の存在あって人間になるのであって、理性と社会は一人しか存在し得ない世界線では意味をなさない。
一方、動物の一個の種として俯瞰して人間のことも見てみると、外界との断続的エネルギーの取引を行なっているんだとも捉えられる。
「デザインは課題解決」という自分にとってかすみのようだった言葉が、果てしない環境適応の過程の賜物と一本の線ができ、エウレカ!と思わず膝を打ったのでした。
つよさ=美しさ=種として優生?
その前提で最近直感的に”つよさ=うつくしさ=生存本能” という結びつき。
動物はわかりやすい。体がでかい奴が群れのボス。
肉体が屈強なものは生物として種の保存に優れている。
動物的本能は、このオス/メスとの生殖により遺伝子バトンを残すことが最善と選ぶのだろう。
屈強だからボスになる。ボスだから屈強になる、というものは成立しない(と思う)
さて人間は?
社会と階級が複雑に絡みあっているので、一概には言えない。
そして時代の数だけ脚色された美があるため、より読み解くのが複雑である。
ただ、モナリザに、ミロのビーナスに、サモトラケのニケに、ダビデ像に多くの人が時代を超えて惹かれるというのは、ユニバーサルな美が潜んでいそう。これはまた別の機会に。
先ほどのクオテーションマークには実は続きがあって力=引力でもある。
力あるものには多くを惹きつける能力がある。種であれば多くの同種を、絵画ひとつとってもマスターピースと呼ばれるものは多くのものことに影響を与え、「模倣子」が作り出される。
つよさはうつくしさ。そしてそれらが宿す引力は、とある事物の保存に有利に働くと一旦は結論づける。
よわさ=みにくさ=淘汰?
力無きものは選ばれぬ。やがて劣性遺伝子同様に淘汰される。
子供の頃、クラスでのボス的な立ち位置に立っていたのは、ジャイアンみたいなガキ大将だった傾向があるんじゃないか。(今やステレオタイプではあるが)
まだ人間になる過程の動物的面を備える子供は、どこまでも素直だ。
人気者がいれば、不人気ものも生まれるのが世の常だ。
ヒョロくて弱々しい子や、(表現に困って一旦こう置かせてもらう)醜いと揶揄される存在もまたいたはずだ。
その成れの果てで、「いじめ」があるんじゃないか。
群れの中で限りある資源で生存をするために、集団における異質(と見做される)な存在を切り捨てねば、という動物的本能が働いている。
もちろん僕はいじめを許されざる「犯罪」で理性と社会性をもって克服するべきだとは思う。そしてそれを学ぶ場が学校という面もある。
しかし理性や社会性が動物的本能に屈服される世界線到来した時、どのような集団においても仮想敵が作り出されてしまうのではないかと思う。
”つよさ=うつくしさ=種の保存に有利”
よわさ=みにくさ=種の保存に不利”
追記:それについて言及された動画を発見しました。
だから正しい、と主張するわけでもないですが、ヒトは群れとして生きる動物なので、本能としていじめが備わっていることは結構濃厚ですね。
タブーにこそ切り込む余地があるね
ちょっと意見の分かれるセンシティブな領域について踏み込んで書いてみたけど、どうにも引っかかってしまったからには知りたいと思ってしまう。
知らないことを恐怖として近づかないでおいているのが動物としては適切かもしれないが、「知らない」を恐怖から好奇心に昇華させてきたことで、人間はここまで社会を発展させたのかもしれませんね。
(だからこそ自ら破滅の道に向かいつつあるかも)
もちろんこれは自分の妄想でしかないのだが、だからこそ一つ一つ事実を持って検証して行こうと思う。
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