誤解の持つ生産性、あるいは言葉を尽くすことについて


 僕は昔から、コミュニケーションにおいてダメ出しされることが多かったのだが、とくに言われたのは次のようなことだ。

「あなたはいつも、相手が望むことをするのではなく、自分が思うことをしているだけ。それでは相手に伝わらない。」
「ある相手に意図を伝えたいなら、日々の中でその相手が何を言ったらどう思うのかについて、情報を収集する必要がある。それをしないならば、それはコミュニケーションというより自分の感情の押し付け。あるいは無関心なだけだ。」
「言われなければわからないというのは甘えだ。」
「一生懸命にやってるから、誠実だから、なんてのを言い訳にしていいのは子どもだけ。大人は結果として相手に伝わったかどうかで判断される。」

 要するに、コミュニケーションの主導権は、送り手ではなく常に受け手にあるということだろう。自分の意図がどうかではなく、相手がどう受け取るかが全てである、と。
 僕も可能な限りそうしようと思ってきた。なかなかうまくはいかないけれども。


 だが、あるときから、意図を汲み取ってくれないことを受け手の責任にされることが何度か出てきた。そのような受け取りかたは、受け手の送り手に対する信頼の欠如だ、と。あなたはわたしに対する信頼がかけてるからそういう理解になるのだ、と。

 こうなってくると、何が正しいのか、もうよくわからない。



 これまでの芸術体験を想起するならば、受け手が送り手の意図通りに受け取らないことは、必ずしも悪いことではない。実際、僕が作ったものに対する反応としてうれしいのは、意図を理解されたときだけではない。むしろ、こちらが意図しない意味を読み取ってくれて、それがうれしいことも多い。
 これは一緒に演奏する場合でも同じで、こちらの意図や予想を超えるものが出てきた時こそ、他人と演奏する醍醐味を味わえるというものだ。
 逆に、こちらの意図を100%汲み取る形での受容は、ある意味では自分と対話をしているのに等しいと言える。そこに新しい発見をするのは難しい。むしろ、意図を超える契機があってはじめて喜びが体験できるのではないか。

 意図を超えるということは、もちろん意図に反することとは違う。だが、100パーセント意図通りではないという意味では、意図からずれることでもある。
 つまり、芸術の受容や共同の創作における生産性とは、作り手の意図からのずれによってもたらされるのではないだろうか。
 これは言い換えると、誤読や誤解の可能性を担保するということでもある。相手はこちらの思い通りにならないという部分を許容することで、より豊かな芸術体験を得られるのではないかと思う。
(ただし、これは例えば演奏よりも奏者の容姿ばかり頓着することを積極的に認めるものではない。そもそも、演奏内容ではなく奏者の容姿をあれこれ言うことは、芸術の受容ですらなく、また別の問題として扱われるべきだ。)

 これは芸術受容だけでなく、コミュニケーション一般に言えることだろう。意図通りに理解されず、発信者と受容者の間に一定のずれがあるからこそ、そこに生産的な要素が生まれ、会話が発展していくのだろうと思う。だから、意図どおりに理解されないことで不平を言うのは、コミュニケーションの生産的な側面に蓋をしてしまう行為というべきだ。
 もちろん、学術論文のように、安易に多義性を有してはならない言葉もある。そういった領域では当然、どのように書くべきがという訓練が欠かせない。
 作法の存在は、芸術でも同様かもしれない。それでも、そもそも芸術は解釈の多様性があるから面白いのだ。論文の作法とはまた別のルールなり作法なりがあるというべきだろう。


 思うに、「意図が理解されない」という不平の大半は、伝えられる意味の問題なのではなく、自分が好意的に捉えられているか否かの問題なのではないか。
 なら、はっきりそう言えばよい。「あなたはどうして私を否定的に捉えるのか。そのような捉えられ方は不満だ」と。
 もちろん、時と場合によっては、「私には否定的にしか受け取れない。そう受け取られるのが嫌ならば、伝達の仕方や態度や発想をそちらが改めるべきだ」と返すだろうけれど。
 だって、僕は、本当に理解してほしいと思った相手に対しては、言葉を尽くす努力を怠ったことはないもの。そこだけは、自信を持って言える。


 僕としては、一般的なコミュニケーションをとる上では、誤解があるかもしれないことを前提とした上で、それがないようにきちんと話し合うことを好む。
 どんなに相手の頭や心を読もうとしても、そこには限界がある。誤解の可能性を避けることはできない。だからこそ、誤解してほしくないときは、最大限の努力で言葉を尽くす。受け手に誤解があるようなら何度でも説明する。そうやって、相互理解を図る。誤解なんていくらでもありうることだし、それは受け手の責任にはできないから、誤解を避けなくてはならない場合は最大限の努力をする。
 けれども、そのようなコミュニケーションは、とても神経を使うものだ。

 だから、そこまでしてコミュニケーションをとりたい人は、そこまで多くない。


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