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ちょっとした言い争いの記憶と謝罪

 かつて、ある音楽仲間とちょっとした言い争い(?)をしたことがある。僕が人前で演奏することに関してだ。
 僕が「自分程度の演奏レベルで人前でお金をとって演奏するのは、やってはいけないことだ」と言ったら、その人は強く反論した。そんなことはない、レベルを問わず、人前で演奏することは自由であるべきだ。それが相手の主張だった。

 結論から言えば、これは全面的に相手が正しく、その時の僕は間違っている。
 本人に会えないので、ここで謝罪と訂正をしたい。あの時は僕が間違っていました。ほんとうにすみません。いや、ここで謝っても伝わるかわからないけれど。



 エクスキューズをさせてもらえば、その時の僕には、twitterなどでよく見かける差別的言動だの、あるいはニセ科学などを流布して市民を混乱させる輩だの、そういうのが念頭にあった。彼/彼女たちは、これまでの学術的あるいは思想的な蓄積、そして現実の様々な出来事を無視しており、誤った根拠や事実確認に基づいておかしな主張をすることがある。それはやはり、きちんとした知識や経験に基づいた主張により駆逐されるべきだと思うし、いい加減な主張や知識を広めるなと言いたいことが多い。それで実際に迷惑がかかったり、人権が侵されたりするケースがあるからだ。
 しかし、科学や思想や権利などの問題と、芸術表現の技術レベルを同列に扱っていいわけではない。質的に劣った芸術だとしても、それを表現することに何らかの規制(公的であれ私的であれ)が働くのは望ましいことではない。

 篠原資明は、芸術は普段見過ごされがちな差異に気づかせることだとして、次のように述べている。

芸術がわかるとは、違いがわかることではないか、という問いかけから始めて、違っていることの、すなわち差異の、積極的な肯定に、芸術の基本的なありようを見だすにいたりました。
                       篠原資明『差異の王国』p.69

 僕も同じように考えていたし、だとしたら技術的に劣っていたところで何も問題ないではないか。もちろん、表現することは批評の対象になるわけで、聞き手からはひどいことを言われるかもしれないが、そのことが「表現してはいけない」ことを意味するわけではない。
 科学や政治の話だって、多少知識に乏しくたって、思いを表現していけないなんてことは、実はない。表現することで、間違っていたことを訂正する機会が得られる場合だってあるのだから。
 どう考えても、僕の言っていることは的を射ていない。どうしてそんな主張をしてしまったんだろう。まじすまんかった。


 ひとつ言えることは、そのときの僕は演奏活動をすることに悩んでいて、メンタル的にちょっとおかしな方向にいっていたということだ。メンタル的におかしいのはわりといつものことだし、そうなった理由はそれだけではないのかもしれないけれど、やはり自分自身のことで悩んでいたことが一番大きかったんじゃないだろうか。
 だから、その仲間による僕に対する反論は、僕の音楽活動に対する叱咤激励の意味合いもあったのかもしれないと、ちょっとだけ思っている。そのこと自体はそのときにも多分気づいていたはずだ。
 でも、僕はどこかで意固地になってしまっていたんだと思う。なんとか、自分なりのあり方を求めようとするあまり、他人の言うことを聞きたくない心境になってしまっていたんだろうと思う。自分のバカすぎに呆れ果ててしまう。当時の自分に説教してやりたい。その仲間から聞ける言葉は、僕にとってそんなに軽いものじゃないはずじゃなかったのか。


 そういういろんなことも含め、僕はその人に心から謝りたい。
 僕は間違っていました。というか、間違っていることを薄々理解しつつ、意固地になってしまっていました。ほんとうにごめんなさい。
 冷静さを欠いたことを言ってしまってごめんなさい。言葉の裏にあっただろう意図を汲み取りきれず、ロクでもないことを言ってしまってごめんなさい。

 僕はほんとうに小さい人間だ。何やってたんだろう全く。



 実は、これを書いている段階での昨日、「ああ、音楽っていいなあ」と改めて思った。憑き物が落ちるような感覚だった。もちろん、奏者が優れているからこそなんだろうと思うけれど、それでもやっぱり音楽はいいよ。
 やっぱり、僕もそういう音楽の世界の一員でありたい。音楽という世界の片隅の端っこに位置していたい。

 その感情を素直に出せる仲間は、もう側にはいない。そういう感情をリアルタイムで共有できる仲間がいたことが、どれだけ恵まれたことであったか。
 もしこれを見ていてくれたら、僕の言いたいことはわかってくれると思う。


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