本がないと生きていけない〜内田樹『図書館には人がいないほうがいい』〜

本の敬虔さ

内田さんが図書館に人がいない方が良いと言われるのは、図書館の中の敬虔な空気を守るという趣旨からだ。
図書館の敬虔さは身に覚えがある。大学に通っていたころ、たまたま関心を持った哲学者、思想家に古い人が多く、図書館に入ると入り組んだ通路から、奥深くの書庫に導かれることが多かった。初めて書庫に入った時は、侵入して良いのかという躊躇さえ感じられたものだった。ほぼ人はいないというより、そこで人と出くわすことは少なかった。電気も自分でつけなければならず、さらには開架スペースより間取りが遥かに広いので、人がいても足音が響いているのが聞こえるだけで、やはりそこで人はすれ違うのみだ。つまり基本的には静謐で、ただ積まれた圧倒的な本を前に圧倒される場所が、書庫であり私が本の敬虔さに気付けた場所であった。
人が多いと、本の声も聞こえない、少なくとも散漫となった注意力では十分ではない。開架スペースの書棚にある本と、書庫の奥深くに佇む本は、やはり纏う威厳のようなものが異なってくる気がする。ただ多分この気がするというのが実は正しくて、感覚的な理解でしか得られぬものがあるのだろう。

本と読書を守る

図書館司書が置かれている窮状というのも、まさしく内田さんが抵抗しなくてはならないと表現するくらいには切迫感がある。貸出率や利用率、昨今の世の中はなんでも測れるのであれば、その方が都合が良いと思ってしまうらしく、たとえばKPIの如くある定められた数値を基にする善悪の判断が正しいと信じられている。とすれば、本も読書も当然、非効率で忌避されるものとなってしまう。
通勤電車でも朝読書でもそうなのだが、やはりハウツー本のようなものが人気で、ともすればページを捲るのも煩わしくて、本当はスマホで片付けてしまいたい、何であれば10秒で要点をとか、そういう潮流の中にいることを直感する。
幸い数字で片付けてしまえという人ほど本の敬虔さに疎いのが、却って読書の文化資本を守るチャンスだと内田さんは指摘する。
私は幸い街にいくつかの読書の守りである古本屋や個人書店があることを知っている。確かに、そこの空気も敬虔さが保たれているのだ。図書館ももちろんのことだが、本当に本自体への愛を持つ人が作っている場所とその空気を、これ以上狭苦しくしないように守らなくてはいけない。
しかし、どうしてこうも断絶があるのか。私は本に関心のない、それでいるのに本を攻撃する人のメンタリティを知らなくては、読書の文化は守り切れない気がしている。ある大型書店を徘徊していた時、露悪的なヘイト本が何冊も売れて行くのを見て、痛切な危機感を覚えた。

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