映画になった〜『箱男』安部公房〜

映画版を観ての感想

ここに来て映画化された箱男。箱を被った人間が映画に収まった時に、絵が地味になるのではとも思ったが、そのようなことは全くない。スクリーンの枠の中で、箱男は縦横無尽の動きを見せ、良い意味でアクション性の高さに驚かされた。
小説の難解な展開も丁寧にまとめられ、観ていて話に置いていかれることも無い。ある種、賛否が分かれるとするのであれば、良く整理されたが故にメッセージが明示的になった部分であろうか。もちろん、解釈の良幅もあるが、映画の一つの解釈の解を主人公の私自らが語る部分がある。私は不意打ちを喰らったような気持ちとなったが、講評はどうなのだろうか。
だが、総じて映画作品としてのまとまりの良さは、好意的に受け止められるべきと考えている。あの小説をまんま映画にしてしまうと、おそらく映像作品としては良いものとなるが、シネコンでも上映されるものとしては、不必要な批評に晒されていたと思う。
とにかく一番は、あの箱の構造と、箱男の生態が映像となって映し出されたことが嬉しかった。安部公房が冒頭で詳細に詳細を重ねるように描写した、箱男の構造。なるほど実際にはっこういう感じになるのであろうという納得感が凄かった。箱男が一方的に見る奇妙さがリアルだ。街中にポツンと存在するダンボール。それが人が住んでいるが故に妙に浮いていて、それでも箱男は群衆を一方的に見ている。変に目立つ擬態生物のようだ。だが、この浮いた感覚が、現代箱男を映画化する意味でもあったと思う。
最後にジェンダー的な観点で、葉子の描き方が改められたことにも、注目されるべきであろう。映画の中で、唯一箱に執着しないキャラクター性には、小説版に無い自立した性格が認められた。ツッコミどころもあるが、こうしたステレオタイプを切り崩して行く試みは、きっと安部公房も嬉しいはずだ。

現代の箱男

安部公房は、よく時代を先取りすると評されることがあるが、小説の方も、映画版も実社会との相対に置いて捉えることが重要となる。安部公房の時代はSNSも無かった訳だが、カメラの普及に始まり、一方的に見ることのできる技術的条件が整い始めていた。写真を見る、動画を見る、映画を見る。そこでは、見るー見られるのインタラクションは基本的には生まれないと認識されている。
箱男たちが、一方的に見ることに変態的な野心を燃やすのは、やはりそこに一種の享楽があるからなのであろう。自分が一方的に見られていると想像するとゾッとするが、実はそのような機会は多分に存在する。教室で後ろの席の人から凝視され、あるいは観察されていても、そのことに見られる側が気づくことは難しい。そして、現代では監視カメラなるものが、防犯という名目で一方的な視点を許されている。犯罪的なストーカー行為も、SNSの発達に伴い高度化してしまっている。
仮装の箱に入り込み、一方的に見ているつもりになる。このことはそういう訳でIPhoneの普及でより象徴的な事象となった。レンズと液晶の世界に閉じこもり、狭隘な箱の中で世界の隅まで知っているような気持ちで居る。無数にレンズを飛ばし、共有し、箱男は箱男のネットワークの中で自閉的な気質を高めていくのだろう。最終的にはやはり箱を被るのかもしれない。私も引きこもりを極め、観察するだけの存在になりたいと、そうした方が安全で心地良いと思ったことは多々ある。

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