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文体練習 vol.2「アチャコとマチコ」より

……お隣の菊川の旦那さまはたしか中学校の英語教師だったはずで、先年ご退職されたようで、以来庭仕事に精を出す姿が朝な夕なに見受けられ、わたしも時折塀越しに挨拶を交わすようにもなっていて、じつに感じのいい人だと好もしく思っておりましたところが、暮れ頃からお姿が見えなくなり、夜もかなり更けてから奥さまの金切り声の上がること一度や二度でなく、なにやら不穏な気配を感じ取っていたものですが、とうとう今年の元日、鼻筋に白い星模様のある赤毛のポニーにまたがった旧帝国陸軍の軍服姿の旦那さまが門前にお目見えしまして、これが腰に巻いたラジカセから軍歌を流しつつ町内を練り歩きましてね、正月の風変わりな出し物とみな思って苦笑しながら見守っていたものでしたが、三が日を過ぎても練り歩きは止むことがなく、以来朝な夕なの習いとなったものですからこれにはわたしも近所の誰彼も眉を顰めたもので、苦情を言おうにも当人は近寄る者あらば腰に下げたサーベルをチラつかせて威嚇するようであるし、奥さまは奥さまで家うちに引っ込んでおしまいになって姿をまったく見せず、ついにはポニーを遠巻きに囲んで近所の悪ガキどもが礫を浴びせて喜ぶ始末。礫が命中するたび、抜いたサーベルを闇雲に振りながら、奇襲とは卑怯なり! 卑怯なり! と声高に叫んで襲歩させるべくブーツの踵の拍車を何度となくポニーの腹にめり込ませ、ポニーはポニーで腹からだらだらと血を流して見るに痛ましいかぎりでしたが、ある日とうとう怒りのサーベルが悪ガキどものひとりの首をとらえて、きれいに刎ね落としたのでありました。

 この恐るべき事件が出来したあと、菊川の旦那さまはポニーと行方知れずとなりまして、今朝も制服の警官が情報収集のため我が家に立ち寄りましたが、わたしにしたところで、なにかお役に立てるわけでもなく。最近では、夜も明けやらぬ薄闇に、痩せた日本兵が小さな馬の轡をたずさえて庭の隅に茫とたたずんでいたなんて怪談みたような話があちらこちらで囁かれるようになって、我が家の庭にもいずれ現れるのではと戦々恐々している折も折なのでございます。
 どこか遠いところで戦争が起こっていると小耳に挟みましたが、そちらは大丈夫でしょうか。こちらは、色々あるとは申しましても、ものの数ではございません。ひとまずは無事平穏と申せましょう。近いうちに遊びにきてください。首を洗って待っております。

かしこ

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