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ワタコウジ

1

「あの、うちの子、大丈夫でしょうか」
「逆にお尋ねしますがね、お子さん、これで何か困ることあります?」
 言いながら、医者はコウジの頭をあらためて矯めつ眇めつして、手のひらを軽く押し当てて毛の弾力を確かめるようにした。
「これ、抜いたら痛いんだよね」
 コウジはうなずいた。
「ひとつ抜いてみてもいいかな?」
 それは、毛髪を一本抜いてみてもいいかと乞われたのと変わらなかった。痛さにおいて同じなのだから。たんに医者の好奇心を満たすためだけとはわかっても、コウジは断れなかった。医者は額の生え際の一本を抜いた。髪の毛は長いものより短いものを抜くほうが痛く感じるのだから不思議だ。医者はしげしげと観察して、
「これ、ほんとうによくできてる。たんぽぽの種とまったく同じだもの」
 すると診察室の開け放たれた窓から秋風が吹き込んで、ひとつ抜くにもそれなりに難儀する頭の綿毛が、どういう仕掛けによるものか、いっせいに解き放たれた。

 日中、風に綿毛をさらわれてすっかり禿頭になる頭は、一夜明けると元に戻った。医者にかかった翌日、コウジは決死隊のつもりで学校に臨んだ。
「何それ〜」
「マジ、かっけぇ」
「デニス・ロッドマンみたい」
 束の間、自分がいじめられっ子であることを忘れさせる歓待ぶりだった。しかしここで気を許したが最後、調子に乗んなの鉄拳がどこから飛ぶともわからない。終始涙目で困惑するくらいがちょうどいいと己を戒めていた。幸いいじめっ子も、自分らの想像を超えるものについては得てして寛大で、コウジの頭をしきりと撫ぜたがった。担任のゴリアテにしても、その頭を一瞥するなり猛然と掴みかかったが、むしり取った髪がたしかにたんぽぽの綿毛で、それが手にまつわりついて離れないので、ふう、ふう、と息を吹きかけて飛ばそうとするうち幼心をくすぐられたものだろう、「綿毛が耳に入って鼓膜を破るなんてのはデタラメ!」と高らかに宣言してコウジを許した。
 すっかり気をよくしたゴリアテは、窓外を見て「こういうのを日本晴れと云うんじゃないかなぁ!」と言って教室の窓を大きく開け放ち、すると一陣の風が走って、コウジの綿毛は早くも朝学活の時間にはすべて舞い散ってしまった。


2

 こうして長調で滑り出したコウジの「綿毛狂想曲」だったが、早くも三日目にして短調へ、すなわち明から暗へ転調する。
 その日は朝から雲行きがあやしかった。誰ひとり頭を触りに来ないし、口を利こうともしない。子どもは飽きっぽいものだし、いつもの日常が戻ったにすぎないといえばその通りだが、呑気坊主のコウジでも、こちらを非難するような刺々しい空気を察しないわけにはいかなかった。
「今日の見出された問題はなんだ!」
 帰りの会でゴリアテの問うのへ、いつもならこぞって挙手する子どもたちがみんなお行儀よく前を向き、民声ひとり真っ直ぐ手を挙げた。
「民声よ、どんな問題を見出したんだ!」
「和田浩司くんの綿毛頭問題です」
 するとコウジを除く全員が割れんばかりの拍手をした。
「和田が綿毛頭だと、何が問題なんだ!」
「三日前の九月××日、二日間学校を休んだ和田くんは、綿毛頭になって戻ってきました」
「いかにも!」
「最初はみんな珍しがって歓迎したのですが、まずあの綿毛がアレルゲンであることが判明しました。金子さんは和田くんの頭に触れたあと、全身に蕁麻疹を発しました。金子さん」
 すると金子さんが起立して、皆に見えるよう、片腕の袖をまくった。そこにはペンキで記したような赤い点々が一面に浮き出ていた。一同どよめく。すると金子さんは、着席するなり両手で顔を覆ってしゃくり上げた。
「それだけではありません。一昨日と昨日と二回、和田くんの綿毛は教室内で飛散したわけですが、そのせいで私たち全員がなんらかの形で種を家に持ち帰ることになりました」
「その通り! 先生のジャージにも綿毛がたくさんついていた!」
「その種が、やがて小さな和田くんに成長して、みんなの家でイタズラするようになったんです」
「たとえばどんな!」
「わたしは耳のなかに住まわれました。希菜子ちゃんはお風呂を覗かれました。清斗くんは鼻毛を抜かれました」
「それで、話の要点は!」
「和田くんに、みんなに謝ってもらいたいです」
「なんで!」
「和田くんは綿毛の親だからです」
「ちょっと待て!」
 ゴリアテはじっくりと時間をかけて生徒一人ひとりの顔を見渡した。
「子のしたことは、すべて親の責任か! どうだ、民声よ!」
「それは、言葉の綾です。言うなれば綿毛は和田くんの分身、ワタコウジです」
「和田浩司!」
 不意を突かれて言葉が出ない。
「和田浩司よ!」
「は、はい」
「総括せよ! ワタコウジは和田浩司か!」
「わ、わかりません」
「ワタコウジは風呂を覗いたという! その夜、貴様にも希菜子の裸は見えたのか!」
「み、みえません」
「希菜子が好きか!」
「好きでも嫌いでもありません」
「よろしい! 和田浩司とワタコウジは別物と決まった! だからワタコウジ問題について、和田浩司は直接の責任はない!」
「ちょっと、よろしいでしょうか」
 民心が挙手をして遮り、指名されないうちから起立した。
「ぼくたちは、本当は和田くんに謝ってもらいたいわけではありません。それで問題が解決するわけではありません。責任の所在なんてどうでもいいんです。ワタコウジが存在すること自体が問題。これを解決するには、和田くんの綿毛頭をなんとかするのが急務です」
「その話の要点は!」
「和田くんの頭は純然たる校則違反です。学校規則第三条に『本校生徒は髪を染めてはならない』とあり、これに明らかに抵触しています」
「あれは染めたのではなく綿毛なんだと、どうして貴様にはわからんのだ!」
「この際綿毛かどうかなんてどうでもいいんです。校則はあくまで色について言及しているわけだから、色だけが問題なのでは?」
「たしかに! 先生が間違っていた!」
「そこで提案なんですが、今この場で和田くんの髪をみんなで染めるというのはどうでしょう。ひとりはみんなのため、みんなはひとりのため」
「いい! 民心よ、貴様は今、じつにいいことを言った!」
 そうしてコウジは誰彼に床に押さえつけられると、誰が用意したのかメンズ美弦白髪染めクリームを頭に塗りたくられてじき意識は遠のいた。


3

 綿毛は染粉の成分に耐えられず、その日のうちにみな枯れてしまった。種もすべて剥がれてしまって、頭皮一面を胡麻粒大の穴がびっしりと覆った。そしてその夜のうちに、すべての穴のなかに極小の蛇がトグロを巻いて蹲るのを、母親が発見した。母親は、冬物の段ボールから黄色に青のボーダーの入ったニット帽を引っ張り出してきて、それを息子に被せて学校に送り出した。

 教科書の武者小路実篤の詩を書き取っていると、机のなかからなにやら声がするようで、おやと腰を引くと、蟻の行列とまずは思ってギョッとしたそれらは無数のワタコウジで、互いの身体にしがみついて鎖のように連なり、それをまた這い登ってくるワタコウジがいて、あっという間に机上はワタコウジで覆われてしまった。ゴリアテに見咎められないよう、机の前に教科書を立てる。幸いゴリアテは、陽だまりのなかでかすかな寝息を立てていた。
 帳面の上に整列した無数のワタコウジは、コウジの目の下で、一糸乱れぬマスゲームを披露した。マスゲームは、一文字一文字を表すようである。それをコウジは声にならない声で読み上げた。

















「どうも陽だまりにいると眠たくなっていけない!」
 そう言うとゴリアテは教卓のそばの窓を開け放ち、その刹那に冷たい風が吹き込んで、ワタコウジたちは風に逆らうようにして、窓の外へ飛んでいった。

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