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川霊

 終電を逃すと家まで歩くことになる。家まで歩いてどのくらい、と酔っ払いたちに毎度尋ねられ、その度に三時間、と答える。正確に二時間四十五分が平均だが、そこはサバを読む。目を剥かれる。タクシー代を寄越そうとする人もあるが、断る。歩くことは、南雲にとって、楽しみのひとつなのである。

 自らの健脚に恃むところもあった。そして革靴が悲鳴を上げる。ひと月に一度は午前様になるような酒宴に巻き込まれ(会社もその頃は景気が良かった)、ある時突然靴底が剥がれて鰐のようになった靴が一足あった。二足目も、はや怪しい感じだ。終電までに席を立てばいいのだが、南雲の家だけ沿線の上り方面にあって終電が一時間ばかり早いのと、独身で一人暮らしの彼を上司が何かと重宝したのが災いした。求められて満更でもない自分がいる。弱みにつけ込まれているとも知らず、それが自分の強みであると錯覚した。なにぶん若かったわけだ。

 下り方面の連中がそろそろと席を立ち始める頃、今更のように上り方面の電車が終わっていることに気がつく輩がいて、いつものように問われていつものように南雲は答え、いつものように目を剥かれた。同じ席に、いつもは見かけない若い娘があって、聞けば、最近こちらに配属になった中途採用の新人だという。
 その娘が言った。
「でも、ここからだと、何本か川を渡りますよね」
 渡るけど、それがなにか、という口吻で南雲は答えていた。
「いえ、だって、夜の川には霊が集まるというから」
 その場では一笑に付しておきながら、いざひとりになってみると、こだわる自分がいた。大きな川を二つ渡ることになる道行で、漆黒の闇にかかる長い橋の上を、ナトリウムランプの光を全身に浴びながら渡ることは、怖いどころかその都度心躍るなにかだったはずだ。ところが、渡る手前で南雲は、川は霊の寄り場と言った娘の話を思い出していた。橋の上はいつだって強い風が吹く。その風の底に、知らず耳を澄ましていた。無数の彷徨える霊魂の咆哮を、聞き分けようとするかのように。

 以来、夜の川を渡ることにちょっとした抵抗を覚えるようになった。橋の上で風にさらされると、無数の霊が自分の身体を通り抜けていくイメージに囚われた。それは、きっと障りのあることに違いない。南雲は霊を信じたりするような柄ではなかったが、一笑に付しておけるほどに無邪気でもなかった。それは性格の問題というより、若いは若いなりの、身体の内奥に老いの兆しを感じる証左かも知れなかった。

 そして川の上を吹き荒れる風にどうにも耐えられない寒さの凝る時節となって、とうとう南雲は霊的なものを感じ取るようになっていた。橋の上を渡るときにかぎって、背後をつけられているような気配に苛まれるのである。振り返っても、午前二時を回る時刻に人影のあろうはずも、ない。自ずと足速になって、しまいにはほとんど駆け足のようになるが、いよいよ風は強く、背後の気配は間近に迫るように感じられた。大の大人が怯えて振り返り振り返り橋を渡る。見てはいけないものを見るような気がして、そんなものがあるとして、それはどんなだろうと想像する。そんな想像がかえって魔を寄せるんじゃないかと戒める心の声をよそに、そんな想像こそ魔を先取りして封じることになる、と信じられたのかも知れない。
 たとえばそれは子どもだろうか。たださえ深い時間に場違いなところで子どもの燥ぐ声を耳にするというのは、不快この上ない。夜の十一時を回ってなお居酒屋の座敷に家族連れが居座っているのを見ると、南雲は必ず顔を曇らせた。
 あるいは女か。男の速足に負けずついてくる女はいかにも尋常ではない。小柄な女がついてくるのであれば、ちょっと色っぽい話にもなりそうだが、大柄の、それもトレンチコートの女ならどうだろう。座敷女という漫画があったのを思い出す。あるいは長い髪に隠された顔に、目鼻のない、口だけの女。耳まで裂けた口。
 男であれば、いっそ霊であってほしいと願うかも知れない。相手が暴漢ならこれはたまらない。殴られるか刺されるかして、金目のものを盗られて、挙句は眼下の漆黒に投げ込まれる。なにに怯え急かされていたといって、巡り巡ってこの橋で殺められた自分の怨念でした、では笑い話にもならない。

 その日の酒席に、夜の川には霊が集まると教えた例の娘がいるのを南雲は見つけた。部署交流のような飲み会で、二十人からの大きな酒席だったが、折よく自然に対座する形となっていた。冗談めかしながら、余計なことを言うから困ったことに、と南雲は苦笑してみせた。しかし娘は笑わなかった。
「つけられている感じがあるのですか」
「あるよ。大いにあるよ。君が変なことを言ったから、つけられるようになったんじゃないかな」
「ずっとつけられている感じですか。それとも、川の上でだけ」
 その神妙な問いの仕方に酔いも醒めるようで、冗談じゃない、責任取りなさいよ、と南雲はおどけた。
 娘は誰かに呼ばれて席を立った。座敷のテーブルの隅にひとり取り残される形となって、時計を見ると、はや終電を逃していた。近くにいた誰彼に退散する旨伝えて、南雲は店を出た。

 歩いて一時間もすると隣駅界隈の明かりが見えてくる。そこへ至る手前の街道左側に、黒々と塗られたような闇の一角があって、特段気にも留めずに通り過ぎていたのが、その夜はふと立ち止まる気になっていて、見ると闇の中に茫と石の鳥居が見え、その奥に祠のようなものが見える。十間四方の決して広いとは言えない一角に電柱より高い孟宗竹が鬱蒼と生い茂り、街灯を隠してそこばかりが真っ暗なのである。よせばいいのに、鳥居の横にある案内を読んで、そこが八幡の藪知らずと知る。江戸時代からの禁足地で、足を踏み入れたら最後、出られなくなるという伝承があるのらしい。それこそ知らずに徒歩の道行の折には毎度これの前を通っていたわけだ。するといつかの酒席で、この界隈で女子高校生が失踪した事件のことを誰かが話していて、藪知らずに足を踏み入れたらしい、とその誰かは確かに言ったのだった。その記憶が、今目の前にある土地とようやく結びついた。
 しかしとても迷い込んで出られなくなるような土地ではない。十間といえば十八メートルそこそこである。孟宗竹に覆われているとはいい条、見通しが利かないなどということはまずあり得ない。
 ふと辺りを見回して、誰もいないことを確認している。薮を囲う石塀は胸の高さで、登ろうと思えば登れなくはない。塀の上に手をかけたまま、藪の中を睨むようにして目を凝らす。いや、引き込まれている。
 塀の上に足をかけようとしていて、それこそ酔狂な、と諌める心の声がして、はらりと落ちた。それこそ魔がつきかねない、剣呑な行動は慎まなければならない。なんとも霊的な土地柄ではないかと憮然として、南雲はその場を離れた。

 橋の上では相変わらず風が逆巻いていた。
 水冷え、とでも呼びたいようなどこか柔らかな冷気を含む風で、しかし当たっているとたちまち生気を吸われそうな不安に駆られる。車の通りが絶えないのが救いといえば救いだ。中央の支柱から橋桁を支える腕の太さより太いワイヤーが、風を切って遠く近くにビュンビュンと鳴っている。明確に意味のある音声に集約する気配がみなぎって、これぞ夜の川に集まる霊たちの宴の酣かと怖気を振るう。ほとんど駆け足のような足の運びでどうにか川を渡り切った。

 橋を渡り終えたところで、背後から男に呼び止められた。
 男の胴間声。
 暴漢に待ち伏せされたかと思って、後ろざまに飛び退くと、そのまま脇目も振らず逃げ去ろうとして、今度は若い女の声が、
「この人」
 と叫んだ。
 胴間声とは別の男の声が立って、行手を阻まれる。見れば高校生くらいの若い男で、手に金属バットを持っていた。こうして俺の一生は終わるのだ、とみるみる萎えていくものがある。と、胴間声が近づいてきて、
「どういうつもりで、うちの娘をつけ回すんだ。あんた、誰なんだ」
 と脅しにかかるではないか。
「なんのことです。誰もつけ回してなんか、いませんけど」
 言うハナから弁解じみた調子を口調が帯びるのを、如何ともし難かった。これでは自分がほかでもないストーカーであるのを認めるようなものである。
「ともかく、交番まで来てもらおう」
 言われて咄嗟にこの場合、相手の言いなりになったら圧倒的に不利な立場に立たされることが直感されて、逃げ出そうと構えるものの、いよいよそうなっては自身が後ろ暗い者であることを認めるようだし、おそらくは女の弟であろうスニーカー履きの若造に追われては、とても勝ち目はなかった。弟がこちらに手を伸ばそうとして、その刹那、
「そいつに触るな」
 と父親と思しき男は制した。女は父親の背後に隠れて顔もよく見えない。こんな時に動転して倒れでもしたら放免されるのだろうかなどと、あらぬことを南雲は思っている。

 進退谷まっていよいよ途方に暮れかかったとき、背後から名前を呼ばれた。見ると、例の娘、川に霊が集まると南雲に教えた新人の娘が、自転車を引いて暗がりから現れた。
「どうか、しましたか」
 南雲に敵対する三人の誰にともなく問いかける。あんたこそ誰なんだ、と困惑気味に問い返す父親に向かって、娘は毅然として、
「この人の妻ですが」
 と言ってのけた。父親はいよいよ狼狽えて、あなたの夫がうちの娘のストーカーである疑いがある、と言葉遣いもだいぶ丁寧になって続けると、
「それはあり得ません。終電を逃したと聞いてこうして迎えに来ましたが、こんなこと、夫は初めてなんですから」
 父親は、この男で間違いないんだろう、と背後の女に尋ねている。そんな、わからない、とかぶりを振る女は、もう南雲を直視することはなかった。
「なにか証拠でもあるんですか。こんなことして、あなた方こそ、ただで済むと思っているのですか」
 そう畳みかけられて、ついに男は丁重な謝罪を口にした。弟と思しき若造も、金属バットを背中に隠してこちらに見えないようにしている。そうして三人とも、一刻も早く娘の視界から逃れることを欲するかのように、どこぞの路地へ吸われるようにして行方をくらました。

 あれから十年。
 今や南雲は三人の子の父親である。会社を辞め、明日をも知れぬ独立した身の上となって、それでもどうにか妻や子らにひもじい思いをさせずに済むようになった。
 あの夜、「この人の妻ですが」と庇った人は、のちに本当に彼の妻となった。こうして南雲が幸せな家庭を築くことができたのも、ひとえに妻のお陰である。
 それにしてもあの夜、南雲を待ち伏せた三人の男女は、川に集う霊の悪戯か、はたまた狸か狐の類の仕業か、いずれだったかも知れないと、時を経るごとに妙に確信されるのでもある。
 もちろん妻にその話をすることはない。
 なぜと言って、あの夜、なぜ妻があの場に居合わせたのかさえ、南雲は聞きそびれたまま、今日に至るのだから。

(了)

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