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あいのさんか #7/10

逆上がりを練習していたわたし(マリエ)は、アツコちゃんからX脚をバカにされた。そのお詫びをしたいからと招待されたアツコちゃんのお家は、威容を誇るタワーマンションの24階で、どうやら大変なお金持ちらしかった。
前回までのあらすじ


7

 三方の壁際にびっしりと服の吊り下げられた部屋に案内されて、わたしはそれがアツコちゃんの部屋だと疑わなかった。妹と部屋を共有しているわたしとしてはなんともうらやましい話で、こんな広い部屋だったら、あそこに本棚を置いて、あそこに机を置いて、ここにベッドを置いて……と想像が膨らむのだった。

 それにしても、ここも家具や調度の類が見当たらない。布団を敷いて寝るにしても、布団はどこにあるのだろうと不思議に思って、つい「どこに寝てるの」と聞くと、「自分の部屋だけど」と、アツコちゃんは不思議そうに答えて、それから、「マリエちゃん、まさか、ここがわたしの部屋だと思ってない? ちがうちがう、ここはワードローブ……って、衣装部屋。服しか置いてないよ」

 クローゼットでさえ高級という頭があって、うちは衣替えの季節にママとパパが大きいビニール袋に種類わけして畳んだ服を入れ、それを段ボールに詰め、最後に防虫剤をのせて梱包したのを押入れにしまう、だったから、こうまで人によって「当たり前」がちがうものかとまたまたわたしは目をしばたたかせるほかなかった。
「こっちの、好きなの選んでいいよ。あげる。わたし、からだがすぐ大きくなるから、二、三度着たきり、着られなくなったのがたくさんあるんだ」
 ママのいうところのギャル服ばかりがずらりと並んでいて、どれも一目で高そうとわかるものばかりだったが、どう考えてもわたしには似合いそうになかった。わたしは遠慮した。それでもアツコちゃんはしつこく譲ろうとしたけれど、わたしはわたしで固辞した。顔が真っ赤になっているのが、自分でもわかった。

「それより、アツコちゃんの部屋が見てみたい」
 わたしはいっていた。ところが、思いのほか強い拒絶にあった。拒絶どころか、人のプライバシーを覗こうなんてサイテーだ、何様のつもりだなどと豹変してまくし立て、激昂する勢いだった。わたしはただちに謝った。
「ごめんなさい。どんなに素敵なお部屋なのかと、そう思ったものだから」

 衣装部屋を出ると、わたしは来た方向とは反対側へ歩きだしたもので、ちょっと、と鋭く呼び止められた。ごめんなさい、とまた謝って、アツコちゃんのあとにうなだれてついていく。ついていきながら、わたしは激しく動揺していた。動揺を抑えるために、わたしは固く目をつむり、ママとパパと妹の顔を順繰りに思い浮かべ、いつかみんなでいった海辺のコテージのことを思い出し、そこで見た満天の星空と潮騒とを思い描こうとした。辛いときとか、悲しいときとか、動揺したときとか、落ち着きを取り戻すためにする、それがわたしのルーチンだった。

 廊下の反対方向に行きかかったとき、左手にある部屋のドアが半開きになっていて、点けっぱなしの灯りが薄暗い廊下に漏れていて、その隙間から、わたしは赤いランドセルが床に転がっているのを見たのだった。さらには、その周囲に脱ぎ捨てられて丸まった衣類、乱雑に散らばる本や紙類、そしてスナック菓子の空き袋も見た。さらにさらには、縦に裂かれた壁紙が、幾筋と垂れ下がっているのを、見た。

「お詫びというのは、コレ」
 そういってアツコちゃんはどこからか古めかしい機械を取り出してきた。トートバッグくらいの大きさで、両サイドにスピーカーらしきものがついていることから、オーディオ機器であるとはわかるが、それがカセットデッキと呼ばれるものであるとは、わたしに知りようもなかった。カセットテープと呼ばれるものをケース入りで一つ差し出してきて、
「コレ、わたしの宝物。その一つを、わたしはマリエちゃんに、お詫びの印に差し上げます」

 ありがとう、とはいってみるものの、まるで合点がいかない。宝物なら、取っておいて、わたしは気持ちだけで十分だから。もっというと、お詫びしてもらう理由なんてない、アツコちゃんが自分でいったことでわたしにザイアクカンを感じて苦しんでるなら、わたしは気にしてないし、わたしはカンヨウの心だからなんともないんだよ、と一気にいってしまうと、
「おかしなこというね。罪悪感とか、考えたこともない」
 とアツコちゃんはいってにっこり微笑んだ。
「まぁ、聴いてみてよ」
 そういってアツコちゃんはケースからカセットテープを取り出すと、その年季の入ったデッキにかけてスイッチを入れた。

 プツ、プツ……いう音がしばらく続いたあとで、女の人のせつなげな声が、スピーカーからか細く聞こえてきた。それは高まるようで小康し、小康したかと思うと高まって、泣いているとも喜んでいるとも聞かれ、果てもない波のように続いた。これ、家族で映画を見ているときに、ママやパパが「はい、みんな目を閉じて! 耳を塞いで!」と呼びかけるときにテレビから聞こえてくるあの声と同じだ。女の人と男の人がいやらしいことをしているときに聞こえてくるあの声と同じだ。わたしは恐るおそるアツコちゃんの顔をうかがった。
「なに、これ?」
「愛の讃歌だよ」
 あいのさんか? あれを人は「あいのさんか」と呼ぶのだろうか。ママならどう書くのか、漢字も教えてくれただろうか。
「もう、やめて。聞きたくない」
 すると、アツコちゃんは、席を立とうとするこちらの気配を察してか、テーブルの上のわたしの手をすかさずつかんだ。ものすごい力だった。
「マリエちゃんも、歌って」
「なに?」
「マリエちゃんも、愛の讃歌を歌うんだよ」
 わたしは必死になってアツコちゃんの手を振りほどこうとした。そうこうするうち、あいのさんかはいよいよ昂って、間合いを詰めていき、いまにも破裂しそうなくらいに膨らんだ。すると、アツコちゃん自ら、その声に合わせて、愛の讃歌を歌い始めた。
「いやだ! 離して! わたし、帰る!」

 紫のカーテンを開け、窓ガラスを突き破って、ママと妹のいる公園の鉄棒のところまで真っ逆さまに落下する自分が想像された。わたしはようやくアツコちゃんの手を振り払うと、玄関まで一目散に駆けた。アツコちゃんが追ってきているかどうかもわからず、わたしは靴を履き、玄関の扉を開けた。エレベーターのほうまで走って、下向きの矢印のボタンを押すと、エレベーターの扉はすぐに開いた。わたしはエレベーターに飛び乗ると、すぐさま「1」のボタンを押した。エレベーターの扉がすみやかに閉じる。ウィーンと電気音を立てながら、エレベーターは滑らかに降りていく。滑らかに落ちていく。耳がキーンとなる。そのとき、わたしはママがミシンで縫ってくれた手製のパッチワークのリュックをアツコちゃんのうちに忘れてきたのを思い出した。あのリュックには、ママがたくさんのお菓子を詰めてくれたのだった。あのリュックには、そのほかにも数えきれないほど大事なものが詰めてあるのだ。あのリュックを取り戻さなければ。あのリュックを取り返さなければ。

 エレベーターの扉が開いた。金ボタンの赤い制服に黒のスラックスのおじいさんが出迎えて、わたしを見るなり、
「どうされました?」
 と優しく声をかけてくれた。わたしは気がついたら、おじいさんの腰に抱きついていた。抱きついて、声をあげて泣いていた。リュックを忘れた、リュックを忘れた……とわたしは泣きながら訴えていた。おじいさんはしばらくなにもいわず、黙ってされるがままになって、やがて頭を撫でてくれた。

 おじいさんの匂いがして、なぜかわたしはとても懐かしい気持ちになった。だんだんと、ママやパパや妹の顔を思い出し、海沿いのコテージの星空と潮騒とを、ようやく思い浮かべられるようになっていった。

つづく

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