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南京虫 1/7

現在の勤め先に少なからず不満を抱いていた鹿野は、大学時代のサークル仲間である赤崎の誘いに応じる形で一念発起し、会社を辞め共に起業をすることに。かくして鹿野と赤崎、そして同じくサークル仲間だった清野の三人でノベルティグッズを販売する会社を立ち上げるべく準備を進めるが、かねてより特異な性格である赤崎になにかと振り回されて、鹿野は早くも前途多難の予感がし始める。それでもどうにか三人そろっての四月開業に漕ぎ着けるが、会社が軌道に乗るまでオフィスで寝泊まりすることに決めた赤崎に異変が出来する。異変の正体とは昨今世間を賑わす南京虫もといトコジラミで、これを撃退すべく奮闘することになる三人だったが……。

あらすじ[298字]


 赤崎から五年ぶりに連絡があって、今度のゴールデンウイーク中に日本に帰るからみんなで会おうじゃないかという。大事な話があるんだと。ついてはセッティングよろしくと頼まれて、鹿野が連絡した仲間は四人だった。赤崎の召集と聞いて清田以外の三人が保留し、前日までに三人全員の都合がつかなくなった。そのことを赤崎にLINEで知らせたが、既読はついても当日になっても返信はなかった。

 当日は、月島のもんじゃ焼き屋を予約してあった。
 集合時間になっても赤崎は現れなかった。ケータイにかけても応じない。LINEをしても既読すらつかない。店は満席で外には待ち客もあり、なにも頼まずに座っているわけにもいかず、鹿野と清田は先に生ビールで乾杯することにした。
「どうよ、最近」鹿野が水を向ける。
「ぼちぼちだね」
「そうか。まだ塾講師やってるの」
「やってるよ。ほかに働き口なんかないもの。僕にかぎって、なに一つ変わりはないね」
 清田を相手にこれ以上話の膨らませようもなかった。清田から話を振ってもらうなど、金輪際期待できない。どんな飲み会も誘われれば断らず、最初から最後まで必ず座にいる。付き合いがよく、金払いも悪くないから、重宝されてしかるべきだが、パチンコ以外に趣味のないような男で、たださえ退屈な上に口が重いときて、たいていの人間には気ぶっせいに感じられた。しかし鹿野は清田にかぎらず、人と対座して見舞う沈黙というやつがまず苦手でなかった。旧い友とこうしてなん年かぶりに酒を酌み交わすだけでもう楽しいのだった。それに、聞かれもしないことをベラベラしゃべり、人のことをズケズケ訊いてくる人間なんかより、よほどマシだった。

 ここに来合わすはずだった仲間とは、鹿野が学生時代に所属した文芸サークルの同期の連中で、なかでも卒業後も断続的に関係の続くいわば腐れ縁だった。その文芸サークルでは、春の一回生のサークル勧誘期間と秋の文化祭の年に二度、互いの創作を持ち寄って冊子を作り、学内にテントを張って販売した。冊子が発行されれば合評会と称して互いの創作を褒めたり腐したり、また月に一度の読書会では文豪の作品をめぐってパッとしない頭脳がああでもないこうでもないと議論し合ったりと、しかしいずれも大酒を飲む口実に過ぎなくて、のちに鹿野は振り返ってなんと無為に光陰を過ごしたことかと慙愧に耐えないこと度々だったのだが、あれから長の歳月を経て、当時の自分らは少なくとも真摯だったといまとなっては目を細めるくらいのもので、なんらかの形で青春に報いたいとすら思うようになっていた。
 その手はじめが、赤崎の再就職口の斡旋だったとはいえるだろう。文芸サークル時代の赤崎は、評論をもっぱらにし、わけてもホロコーストについては一家言あって、ホロコースト以降いかなる物語も不可能であるというのが自論だった。もちろん、誰かの受け売りに違いなかった。冊子発行のあとの合評会では、日々の雑事を綴ったエッセイ風の創作や、片恋の情を臆面もなく晒した詩のようなものに対してまで、ガス室を前にしてこんなものは……とやるので、当然赤崎は誰彼から嫌われた。しかし酒が一滴でも入ると「俺はダンゼン太宰治を擁護する!」などといって安っぽいロマンティシズムを披露してはばからず、ひねた酒飲みにはこの落差がたまらなかった。とまれ、大学を卒業し、人並みに就職してからこちら、赤崎はホロコーストも太宰治も一言もいわなくなった。水を向けても、在りし日の恥に触れられでもしたような気まずそうな顔をして濁した。むしろその頃の彼は、荒々しい自然との肌身を通じての直接対話、すなわちロッククライミングにこそ夢中で、就職して五年くらいは口を開けば谷川岳の話ばかりだった。どころか、おのれの鍛え上げられた肉体を誇り、贅肉のつきはじめた仲間の誰彼の不摂生を無遠慮に揶揄した。
 なんだかんだで年に一度は寄り合ってきた古い仲間も、五年十年と経つごとに疎遠になっていく。鹿野はといえば、けして大きくはない会社で若手の主力と目されるようになり、三十を越えて伴侶を得、子どもも二人得た。あれはそろそろ四十の声も聞こえようという年の冬のさなかだった、寝しなを起こされる形で鹿野は赤崎から電話を受けた。電話の向こうで、「もう、辛くて、辛くて……」とやがて嗚咽しはじめた。話は支離滅裂で、相当酒が入っているらしかった。鹿野は辛抱強く耳を傾けた。どんな繰り言でも途中でさえぎらず最後まで聞けてしまうのは、おのれに器量の備わった証しか、それとも単なる職業上の順応に過ぎないのか。後者のような気がしきりとして、真摯に振る舞えば振る舞うほどバツが悪かった。俺たちは成熟とは無縁なんだ、と藪から棒にいってやりたい衝動を抑えながら、できるだけ親身に聞こえるような声音して、「なにをして生きたいかだよね」とうながしていた。ここで虚をつかれていい淀むのが大半のはずが、赤崎は違った。即答だった。
「バイクで世界じゅうを旅したい」
 なるほど、と拍子抜けして、だったらまずは日本を出るがいい、と鹿野はいっていた。そんなツテはない、と急に酔いの覚めたような口ぶりで赤崎はいい、それならいくつか心当たりがなくもないと請け合って鹿野はその夜は電話を切った。翌日さっそく取引先を二、三あたった鹿野は、ちょうど香港支部の人手が足りないから確かな人なら会って話をうかがいたいとのリアクションを後日に得て、その旨赤崎にLINEで伝えた。
 営業マンとして自分は優秀であると会うたびに自画自賛するだけのことはあり、赤崎は首尾よく先方に自身を売りこんだもので、即採用となった。広東語で取引先が扱う商品の説明までやってのけたらしく、向こうの人事担当者は、わずかひと月で広東語をあそこまで操れるようになるとは「すさまじい」と鹿野に賞賛を伝えた。学生の時分の赤崎は、ホロコースト関連の翻訳書を読むさいには、英語はもとより、ドイツ語やフランス語の原典にも当然あたると吹聴したもので、見栄っ張りにもほどがあると誰彼が鼻白んだものだが、案外ほんとうだったのかも知れないと鹿野はこのとき思い直しもしたのだった。
 赤崎のほかにも転職の助言をしてやった者もあったし、結婚への後押しをしてやった者もあったし、それなりの金を都合してやった者もあった。清野については、兄が病を得て孤独死みたいなことになり、鬱気味になった彼の世話をしばらく焼いたのはほかならぬ鹿野だった。
 赤崎が香港に渡ってかれこれ八年が過ぎた。仲間はみな不惑を越えた。赤崎が毎年帰朝するものか、それはわからない。こちらからまめに連絡するのは、差し出がましいようで気が引けた。だから向こうから連絡がなければ、鹿野からはあえてしない。いまから五年前に日本に帰るから会おうと一度連絡があって、正月の三が日過ぎに上野の指定の居酒屋へ会いにいくと、古い仲間が一堂に会していて、鹿野にしてみればちょっとしたサプライズだった。彼の披露宴以来の集まりだった。長生きしてくださいよ、とこちらの肩を揉みながら赤崎がいったのを鹿野はよく覚えている。白目が赤らむほどに赤崎は酔っていた。近々深圳に乗りこむのだと意気ごんでいた。なるほど、うまくやってるんだと、鹿野は安心したものだった。

 そんなことを思い出しながら清野と差し向かいに黙々とビールを傾けていると、
「労働者諸君! そんなしけたツラして、葬式帰りか?」
 振り向けば赤崎だった。すっかり出来上がっている。見知らぬ女性の肩を抱いて、というか、肩に寄りかかるようにしていて、当の女性はというと、ノースリーブの純白のワンピースの感じからはおよそ印象のかけ離れた厚化粧の年増で、困惑するとも物色するともつかない薄笑いを浮かべ、目はやけに爛々として、鹿野はギョッとしないではいられなかった。赤崎は上座にいる清野の横にどっかと座りこみ、女性はしばしためらったのちに鹿野の隣りの席に浅く腰かけた。あまりに場違いな香水の匂いが鼻面を打って、なにやら異世界へ釣りこまれそうになる。女性と鹿野は互いに小さく会釈をした。
「いや、もう、なにもいうな。色々とあったのだ。一々説明するなんざ、しゃらくさい。とりあえず、こうしてまた、会えたのだ。命あっての、物種じゃないか。さあさ、ぼーっとしてないで、酒を、頼みなさいよ、酒を」
 鹿野が店員を呼び、生ビールを四つ注文する。ついでにもんじゃを適当に二つ注文する。子どもは大きくなったか、なに? 三人目が腹のなか? そいつは大草原の小さな家じゃないか……等々、鹿野にばかり赤崎は話しかけ、清野も女もその場にいないかのように振る舞った。
「いや、アカちゃん、違うでしょ。まずこちら、どなたなの?」
 鹿野がさえぎると、赤崎はおもむろに卓の上へ身を乗りだして、目を細め、正面の御仁をしばし観察してから、「存じません」と首を振った。
 ジョッキに口をつけていた清野が吹きだした。赤崎はここでようやく清野の存在に気がついたかのように彼の首へ腕をまわすと、してやったりとばかりに顔をくしゃくしゃにして笑った。
「どうも、とんだ失礼をして、ほんとにすみません。こいつすっかり酔っ払ってしまって」鹿野が詫びると、
「いいんです。わたしも酔っ払ってるし。それに、わたしも、この人誰か、知らない」
「え?」
 聞けば、門前仲町のもつ焼き屋で昼からしっぽり一人で飲んでいたところ、ちらちらと視線を感じて顔を上げれば、反対側の端の卓にこの人(赤崎)がやはり一人で飲んでいるのが目についた。ほかの客の頭越しにふと目が合って反射的に笑いかけると、相手はとんだ早合点で猪口と徳利を手にいそいそとこちらへ回りこんできたのだと。
 人と会う前に一杯引っかけてくるのは赤崎の常だった。しかし飲み処で見ず知らずの異性に話しかける気安さは、鹿野の知る赤崎には似つかわしくなかった。
「歴史的瞬間に立ち会ってもらいたいと懇願されて。だからちょっと寄ってみたんだけど」
「歴史的瞬間、ですか?」
「そう」
 ちょっとトイレ、といって赤崎は中座した。その機をとらまえて、鹿野は女に、今度はきちんと対座して頭を下げた。ぼくら、学生時代からの仲間なんです。海外で仕事しているアイツが今度久しぶりに日本に帰るというんで集まった、だからこれは、同窓会的な。
「あら、そうなの。いまをときめく若手起業家がずらーっと集まるってのは、じゃあ、嘘なのね」
「とんでもない」
「そうなんだ。そんじゃ、わたし、帰る」
 そういって女は膝の上のハンドバッグのなかをしばらく探って札を卓上に置くと(一万円のピン札の上に並んだ塗りたてのマニキュアの赤がどぎつかった)、さっと立ち上がり、戸口のほうへすたすたと向かった。鹿野が卓の札を取って慌てて追いかける。店を出てすぐに追いつくも、相手の軀に触れるわけにもいかず、あの、あの、あの、と馬鹿みたいにうしろ姿へ声をかけると、はいはいといって振り返ったその顔には、気分を害された気配は微塵も見えず、むしろ晴れやかですらあった。
「あの、お金なんて、受け取れないです。むしろ、タクシー代をお渡しします」
 すると女は、心なしか全身揺れながら、もんじゃ焼き屋の連なる通りの先を指差した。
「あそこ、うちだから。歩ける」
「え? あそこって、あのタワマンですか?」
「あの人もいってたけどね、相当悪いことしないと、あんなとこ住めないのよ」
 鹿野は、行手に聳えるウォーターフロントの光の柱を見据えながら、言葉が出なかった。俺はかつがれている。そう思った。
「なーんてね。お金はさ、なんていうの、餞別じゃないし、お祝儀? いや、違うか、友情に乾杯ってやつ? そういうのってさ、ありがたく受け取ってくれないと、こっちが恥ずかしいんだって。てか、気持ちだから。なんか、変な一日だったな。でも、おもしろかった。あの人にそう伝えて」

 店内に戻ると、赤崎はとうにトイレから戻っていて、鹿野を認めるなり、「いやいや、ご苦労、ご苦労」といった。あたかもこのなりゆきは計算のうちだとでもいいたげな感じを醸した。
「オツムのネジが外れてんのよ。エルメスのバーキン抱えて昼からもつ焼き屋で一人飲みって、明らかにおかしいでしょうよ。しかもシャネルの香水プンプンさして。ちょっと好奇心くすぐられて探りを入れてみりゃ、なんのことはない、不倫の出涸らしとでもいうんかな、当人捨てられたとも知らず、いつもの店で忠犬ハチ公よろしく今日も待ってると。もつ焼き屋が日頃の落合場所とは、男のお里が知れるというか、女も女でずいぶんと自分を安く売ったもんだよな。いやしかし、向こうはさ、その気だったのかもしれんけど、こっちは困る。だからうまいこと追い払ってくれて、ほんと助かりました」
 赤崎はいった。
「歴史的瞬間に立ち会うっていうのは……」鹿野がいい淀むと、
「ああ、それね。改めまして、今日はお忙しいところお集まりいただきありがとうだよ、ほんと。飲み直しましょうよ(清田くん、店員さん呼んで)。君らこそほんとうの親友。三人か。結構じゃないの。奇数は吉数、幸先良いと来たもんだ。あのね、君たちね。来年の春、この三人で起業しますから。よろしく」
 そういって赤崎は、清田の肩を抱きながら高笑いをした。

♯1[5406字]








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