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眠れる女 #2/6

翌朝も女は隣室でスヤスヤ寝ていてオレはどういうわけかしみじみしてしまった。かつてない明るい気持ちで出社したのは女のおかげもあるがその日が金曜日だったのも大きいというのはオレは金曜の夜には駅前のスナック「純ちゃん」に行くのがここ最近の習いで、何が楽しみといって週の締めくくりにここで飲んで食って歌ってクダ巻いて一時二時にフラフラ歩いて家に帰ってくるのが生きる意味であり至福なのだ。最近チーママとして店の手伝いに入ってるバツイチのマチコさんはオレよりだいぶ年上の色っぽい子持ちの可愛らしいアラフィフ女で金曜は必ずシフト入れてて口下手なオレの話をふんふん真剣に聞いてくれるしどうもオレに気があるみたい。しかしそんな浮かれ気分も午前の会議でぶち壊し、「決められたことはきちんと現場にそんしゅさせろよ、そんしゅをさー!」と上司はファイルで机をバンバン叩きながら吠えまくり、そんしゅってなんのことだよとオレらシモジモの者は焦って顔を見合わせるばかり、するとオレより歴は十五も長く人当たりも柔らかいし頭も良くて人望もあるのにどういうわけか出世競争に取り残されている役職オレと同じの先輩が「あの、次長、そんしゅではなくて、遵守(じゅんしゅ)ではないでしょうか」と冷静に熱弁の腰を折ったものだから大変次長大爆発でオレら全員役立たず呼ばわりされた挙句またまた本日を期限に資料の作り直しを命じられてエクセルの世界記録を更新中に今度は電話がじゃんじゃん鳴り始めて受話器を取るとプツリとこれが切れる。向こうは非通知設定で誰からの電話かわからない。おいおいこんなときにイタズラ電話かよとフロアは騒然となって同じ島の先輩がワンコール目で受話器取り上げて、テメェ、いい加減にしろよ! とドス利かせたら相手は間の悪いことにうちのコールセンターで平謝りの上電話を引き継がされて顧客のクレーム対応させられる始末、そんな先輩を笑う暇なんてなく電話はあいかわらずジャンジャン鳴り止まず、ついに非通知氏が「〇〇を出せや」とだけ言うようになり明らかにその物の言い方がその筋の人の感じで〇〇とはフロアは同じでオレとは別の島にいるつまり部署の違う同期のことで、皆の視線がそいつに集まるなか事態のなんたるかを察したそいつの課長がそいつを連れて会議室に赴くのが遠くに見え十五分ほどして出てきてから今度はバカ次長のデスクに同期を従えた課長が来て屈んでなにやら耳打ちしたが机上のれいの巨大な飛車駒が邪魔をして次長の表情をうかがい知れないのは口惜し。課長の後ろにうなだれて従う同期は顔面蒼白でオレのすぐ真横を通ってフロアを出ていったが声をかけられる雰囲気ではむろんなく見て見ぬフリして送り出したがそれから十分もしないで非通知電話はぴたり鳴り止んだ。

残業時間に突入する頃にはれいの同期が嫁さん以外の女に貢ぎまくってヤバいとこで金借りてクビが回らなくなってたと職場の居残り組全員がその事情を知るところとなり、その日以来同期の姿を見ることはなかったというのは後日の話。十一時過ぎに新しい会議資料を次長のデスクに代わる代わる叩きつけてから、フロアの冷蔵庫にストックしてある缶ビールを銘々取って回して乾杯して「だんこんの次はそんしゅだぜ。バカもここに極まれりだぜ」とかなんとか悪口合戦、しかし気勢はいまいち上がらず誰彼となく切なくなるような淋しくなるようななんだかしんみりするばかりでこの会社ほんと大丈夫かな久しぶりに夜通し飲むかなんて話にもなったんだが、すると次長の、シモジモのそれとはダンチの革張り肘掛けふかふかクッション付きオフィス用無段階式リクライニングチェアに陣取ってこいつはスゲーなこいつはスゲーなと興奮してふんぞり返ってた入社三年目の通称スタミナくんが足元に錠剤かなにかのプリスターパックの殻が落ちてるのを見つけて拾ってなんだろうとアルミに印字された英字をスマホでググればこれが日本では流通してないはずのかなりヤバいクスリと判明して一同ショックのあまり黙り込んだわけだが、「純ちゃん」のマチコさんのことしか念頭にないオレはちょっと悪寒がするんでとウソついてひとりその場を後にした。

「純ちゃん」の扉をカランコロン開くなりママとマチコさんの黄色い声が炸裂するのを期待したオレはまんまと肩透かしを喰らったというのは、客は見知らぬ男が一人止まり木にいるばかりでコイツがカウンター越しにマチコさんの手を両手に包むようにしていたからで瞬時にオレが顔を引き攣らせたのを察して挨拶もそこそこに「いやね、この方、手相見れるって言うから今見てもらってたのよ。そしたらねえ、いい人がすぐ近くにいるんですってよ」くすぐったそうにチーママはくるくる笑うが見知らぬ男はオレの登場などまったく気にかけずこちらに背を向けたまま深夜ラジオのいけすけかない気取り屋みたいな囁くような低声響かせて「で、この運命線が秀吉は中指の先からずっと手首を越えて肘まで伸びていたというんだね」とマチコさんの手を左手でしっかりつかんで引き寄せて右手の人差し指でマチコさんの中指の先からゆっくりと手のひら手首そして肘の窪までなぞってさすがにやあねえと手を引っ込めたがあんなにはにかんで赤面するチーママをオレはこれまで見たことがなくそれにしても金曜の夜になんで客一人にチーママ一人なんだ、ママは、ウパニは、クロちゃんは、マーヤンは……と聞くとママは十一時近くまでカウンターのなかにいたんだけど悪寒がするからってんで早退けしてそれでみんなもちょっと白けちゃって明日は寒波到来らしいよとかなんとか言って十二時前には帰っちゃって今日はシケた日だなって店じまいしようとしてたらいらしたのよこちらのお客さん。「これも運命だよ。ほら、ここに僕と出会うって書いてあるじゃない」「もう離してくださいな、本当に、困るわ、オホホホホ」「さっさと店じまいしてさ、これから寿司屋に行こうよ。朝までやってる店が駅の反対側にあるんだ。そこね、客はみんな裸になんないといけないの」「なにその店。ヘンタイじゃない」「ヘンタイなもんか。板前は銀座の有名店で働いてた一流も一流。墨東であんなうまい寿司食えるとこなんてまずないから。高いんだ、びっくりするくらい。会員制だからおいそれと入れるもんじゃないが」「あら、お客さん、そこの会員なの」「ケンさんって呼んでほしいな」「ケンさんって、なんかミステリアスなのね」「よく言われる。僕の私生活は誰も想像できないらしいよ」「でもアタシ、帰らないと」「どうして」「どうしても」「いいじゃないか」「でも……」ちょっと待ちなさいよマチコさん嫌がってるじゃないのと割って入ったものかマチコさん注文いいかなとあえて無粋を演じたものかいずれにせよ気に入らねえわけだが見知らぬ男の背つきはオレなんかと違って鍛え抜かれている感じでケンカしたらものの五秒で負けるとは直感的にわかるしヘンに相手の機嫌損ねてもアレだしなとカウンターの一番端に座りついて初めて来た店のように壁の額縁やらメニュー表やら天井のシャンデリアやらに視線をさまよわせてまごまごしていると、いいかな、とオレが言うべきセリフをほかならぬマチコさんがオレに言ってきて、えっと聞き返すとマチコさん見知らぬ男とこれから出かけることに決めたらしい。オレは聞き分けのいい客を見事に演じきってみせたのだがもうあの店に行くことはあるまいと思うと寒空のもと家路を辿る道すがらひょっとするとオレ泣いちゃうかもと警戒したが杞憂も杞憂腕時計見るとなんと一時までまだ三十分あまりあるこれはビデオ屋に行かない手はないとたちまち気分は回復して踵を返すと駅のほうへ小走りした。

レジにはれいの貧血くん、AVコーナーまっしぐらでその目の前を右折したところで「いい加減にしとけ」とボソリ背中につぶやかれまさか自分が言われたとは思わず紛らわしい独り言すなよと瞬時に苛立って行きかかると「みっともない、近所じゅう噂だぜ」と今度は明らかにそれがオレに向けられた非難とわかりふだんなら因縁つけられればすごすご引き下がるオレがケンカで勝てる相手と直感するからだろう珍しく足を止め振り返り睨みつけると貧血野郎はこちらには目もくれずレジカウンターの向こうに立ったままなにやら手作業続けて平然を装うふうで「なんだと、ごらっ、もっぺん言ってみろ」と自分でもびっくりするような脅し文句が口をついて出た。「ああ何度でも言ってやるよ。オヤジがわざわざ息子のバイト先でエロビデオ借りにくるとはどういう了見なんだ」言われてよくよく見てみると貧血くんはオレの息子なのだったがはてオレに息子なんていたっけかと正面の中古のゲームソフトを格納するガラスケースにおりよく半身うっすら映っていてまじまじ見れば相応に薄い毛量の白髪老人が背を丸めて立っていて「おまえこそいつまでこんなところで」「こんなところでとか言うなよ」「母さん寝込んじまったぞ」息子は相変わらず顔を上げず手作業もやめない。「俺がどこでなにをしようと勝手だろ」「勝手じゃない。高い学費払って大学まで出してやって、それなのになんだ、このザマは。夢を追いかけるとか、いつまでも青臭いこと言ってんじゃねえ」「この期に及んでまた説教かよ」「そうだ、説教だ」「うるせえよ、黙ってろよ。この落伍者が!」「なにが落伍者だ。オレは定年まで勤め上げたぞ!」「三流ブラック企業でな。三流大出の落伍者は落伍者の吹き溜まりでせいぜい頑張るしかないからな。親ガチャに外れた子どもは惨めだよ」「ふん、こちとらいつから子ガチャに外れたと知って失望してると思ってんだ、失望歴何年と心得る、舐めたこと抜かすな!」すると背後から、ヨシムラさん早くしてくれませんかねと嗄れた声がして振り向くとAVコーナーの暖簾から禿頭老人が顔を覗かせて催促するもんで親子対決をやむなく中断したオレは暖簾をくぐると禿頭老人の背後に空いたスペースに収まると待ちあぐねた年寄りらはようやく安堵のため息ついてよちよちと歩き出し、鍵の手に配置された小部屋の五つのポジションを代わるがわる入れ替わる奇妙な輪舞を開始して、銘々の位置で背伸びしたり屈んだりして熱心にパッケージを物色する。そうだった、彼らが貸出中の札の付いたパッケージでも手籠に放り込むのはそれをレジに出してプラケの表裏にコラージュされたエロ姿態のスチールのカラーコピーを撮ってもらうためでそれがいわば息子の発案した副業みたいなものでコピーは一枚千円、老人らは古本市で見つけた稀少な春画に対するように大事そうに懐紙に畳むと胸に抱えて家に持ち帰り枕の下にそれを敷いて不眠の夜の慰めとするのらしい。いやオレはまだまだ中身が見たいのよと取り合わず食指が動くのは女優でも監督でも絡みのシチュエーションでもない、なんというか、棚に置かれてある状態そのものが醸すオーラのようなものだよね、それって色彩の配分とか店内の照明の具合とかにも多分に左右されると思うんだけど女郎屋で女買うなんてのもこんな運任せだったんじゃなかろうかそれで運の向き不向きを占うような男はケチな生き物と自嘲するうち、ふと家の眠る女のことが思われて、もっと早くに帰宅しておきゃよかったとたちまち後悔するオレ。

ちょうどそのころ、オレが後にした職場では酒盛りもたけなわで、五、六人の同僚らが下半身丸出しにして代わる代わる天童の大駒の上にナマちんこ乗っけて回るという悪ふざけに興じていたところが、高級クラブでの役員接待から解放されたバカ次長と鉢合わせになってバツが悪いどころではないそれにしてもなんでまた次長がこんな時間に職場に現れたかといえばタクシーで帰宅途中社屋の前を通りがかって見上げるとフロアにまだ明かりがついている、これは部下らが俺の尻拭いのために奮闘してるに違いないからここはひとつ激励してやろうなどと妙な気を起こしたからで、下半身丸出しにしてずらり並んでうなだれる男たちはなんだかもう悔しいんだか悲しいんだかでただただ泣けてくるばかりでそのなかで一番年嵩の、次長にそんしゅを遵守と指摘した男が「大変申し訳ありませんでしたっ」と深々と頭を下げ一同それに続くと、いいのいいのと次長は笑ってスタミナくんの椅子にどっかと座り机上にコンビニワインを二本ドンと据え「コップはあるのかな」と誰にともなく言ったなんて話オレは知る由もなく。

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