声の蝶

🦋一🦋

　黒板に書かれた「形声文字」という四文字を見て、我が意を得たりと胸は高鳴ったものだ。「花」「金」「船」「坂」と黒板に書いてから、ほかにどんな例がありますか、と教師は発問して、紗良は真っ先に手を挙げた。
「チョウ」
「『チョウ』って、あの、虫の蝶ですか」
　紗良は返事の代わりに何度もうなずいた。教師の顔がにわかにくもる。くるりと黒板を向くと、先刻書いた「坂」のとなりに「蝶」と大書きして、しばらく眺めてから、
「そうですね。たしかに形声文字ですね。左は虫を表す意符で、右側は葉っぱの葉の字にもある『ヨウ』と読ませる声符です。だから意符プラス声符で、たしかに蝶は形声文字です。すごいですね、紗良さん、よくできました」

　ほめられて、キョトンとしたのを覚えている。チョウを蝶と書くとはそれまで知らなかった。そうではなくて、と言いかかって、ほかの子どもたちがこぞって挙手をはじめて、紗良は気勢をそがれてしまった。この教師なら、紗良の疑問に答えてくれたかも知れなかった。しかし大人になった彼女は、あのとき続けて自分の考えを言わなくてよかったと心から思うのである。あれから三十手前になる今日まで、それは紗良ひとりの秘め事である。あのとき紗良は、こう言おうとした。
「そうではなくて、声が形になる、で、わたしの場合、それはチョウなんです。みんなの声が、わたしにはチョウに見えるんです」

＊

　声がチョウに見える、といっても、人声あるところ、四六時中紗良のまわりにチョウが舞うわけではない。音が形を取らない普通の人々と同じように、平生彼女にとっての声は諸々の音と同じく空気の振動に過ぎないのだが、不意に特定の人声ばかりがチョウに姿を変えて鼻面をひらひらと横切ることがあって、そのままどこかへ消えてしまうこともあれば、しばらくうるさく彼女の頭らへんをつきまとうこともある。音楽の時間にシューベルトの『菩提樹』を聴かされたとき、ふと視線を落とすと、教室の床一面に花が咲いているかのように、薄紫の地に浅葱に縁取られたシジミチョウのような小さなチョウたちが椅子に腰かける子どもたちの膝から膝へさかんに移り飛んでいて、思わず、きれい、と漏らすと、となりの女の子が、ほんとね、と受けて、
「こうやって目をつむると、菩提樹が見えるみたい。どんな樹か知らないけど」
　それで紗良は、今を飛び交うこのチョウは、わたしにしか見えないと悟ったのだった。
　今日まで家族の誰にもこのことは知らせていない。ひょっとすると妹の聖良には似たようなことが起こっていたのかも知れないが、妹は紗良以上に内にこもる性格の子で、家でも学校でもまったくしゃべらないので、いっとき緘黙症ではないかと疑われたほどだ。単なる無口な天才児ということにいつか決まって、高校からアメリカに渡り、今やかの地の名門大学の研究員である。なんでも人工光合成の開発に携わっているとか。毎年のクリスマスカードで近況を知らせるばかりで、帰朝する気配もなく、年々聖良は家族と疎遠になっていく。

＊

　声がチョウになるのは、こちらの意思とはいっさい関係がなかった。どんな声がチョウになるかもわからない。声質によるのか、人声の形作ることばの内容によるのか、それもいまだにわからない。おおむね美しい声は美しいチョウになり、耳障りな声はそれなりのチョウになる傾向はあるにせよ、必ずしも法則化できるものでもない。受容する側の心なり身体なりの調子も関係するかと思うのだが、とびきり美しいチョウが舞ったのは、紗良が一世一代の恋に敗れて床に臥せっているときで、それも家の前の往来で遊ぶ近所の子どもたちの誰かが、「そっちじゃねーよ」と叫んだその声が尾を引くようにして部屋に侵入してきて、遮光カーテンにとざされた薄暗がりのなか、それはみごとな虹色のチョウが月のように発光しながら、宇宙を漂う探索機のように、ゆっくりと、音もなく、目の前を横切っていった。
　かと思えば、日々と変わらぬ光景の繰り広げられる休み時間の教室に、青やら赤やら黄やら緑やらの小さなチョウたちがあふれんばかりに舞い飛んで、金色の鱗粉が子どもたちの頭上に降り注ぐこともあった。
　頭らへんをいつまでも舞い飛ぶチョウを持て余し、あるとき手を伸ばしてみて、ホンモノのチョウと同じようにそれを捕まえられることを、紗良は偶然発見した。そのまま手のひらで潰してしまうのも忍びなく、それで、物置から虫籠を引っ張り出してきて、それに入れると、チョウはおとなしく蓋の裏にとまって翅を休めた。
「なにを企んでるの」
　とチョウの安らう虫籠を覗き込んで母親は怪訝な顔をしたから、やはりこの人にもチョウは見えないのだと知る。鈴虫でも飼おうかと思って、と誤魔化すと、
「そんな酔狂なこと、どうせ続かないわよ」
　と母親は呆れた。
　チョウは籠のなかにいて、飲まず食わずで永遠に生きるようだった。あるとき、部屋のなかに放してみて、指の先にまとわりつかせて飽かず眺めて、こんな遊びもいいものだな、と思っていたら、翌朝、なにかに食われたように翅やら肢やら触覚やらを籠の底に散らして、チョウの最期は無惨だった。無闇と戯れてはならぬらしい。
　異なるチョウを二匹以上同じ籠に入れても、翌朝すべてのチョウに同じことが起きることをじき発見することとなる。まず虫籠を増やすことを考えたが、たださえ母親にあやしまれているのに、得策とは言えなかった。かくして紗良は、成人するまでに、数え切れないほどのチョウを死に追いやることになった。

＊

　大学を卒業し、職を得ると同時に紗良は家を出た。これ以上チョウを死なせることが忍びなかった。父親も母親も反対した。まさか五十そこそこで娘ふたりに家を去られるとは思わなかったようだ。父親の寂しさを思うと後ろ髪を引かれなくもなかったが、それよりもチョウたちへの不義理に耐えられなかったのだ。
　新居の場所を聞いて二親とも目を丸くした。職場へは実家からよりなお遠い郊外に引き移ったのだから。安い家賃で広い部屋を求めたら、自ずとそうなります、と紗良は言って悪びれなかった。広い部屋を求めたのはほんとうのことだった。
　そうして今、紗良の部屋の三方の壁面には天井まである棚が作り付けられて、そこにプラスチック製の虫籠が整然と並べられ、五百余りのチョウが、ひとつの籠に一匹ずつしまわれてあった。
　寝つきの悪い夜に取り出して、指先にからめて飽きるまで弄び、翌朝には死なせてしまう惨い遊びばかりはおのれに許して。

🦋ニ🦋

　惹かれた人の声のチョウや望んだ人の声のチョウも皆無とは言わないが、数えるほどしかいない。人声みなチョウになるとは限らないのだから。
　恋仲にあった人の声となると、これは皆無だった。声のチョウを捕れないからこそ、身をゆだねたとさえ言えるかもしれない。気になる人の声をチョウとして捕れたなら、それだけで紗良は満たされたかも知れなかった。男と付き合うということの現実が、どれほど紗良を傷つけ、苦しめたか知れない。そして現在も、紗良は世間的には男のいる状態にあり、精神はかえって不安定だった。

　虫籠のチョウのほとんどは、紗良の審美眼にかなった美しいそれだったが、なかにはイチモンジセセリのような、たださえ地味な上に申しわけ程度の小さな翅しか持たないチョウもいる。
　高校のときのクラスの花形の男子の声がそれで、女子の誰彼が陰に陽にアプローチを期するなか、彼女は衆人環視のもと、彼の声をチョウとして捕えて得意だった。すうっと彼女の鼻先に流れるようにして飛んできたイチモンジセセリを右手の中指と人差し指をハサミにして宮本武蔵もかくやの手さばきで捕え、「え、いまの、なに？」とそれまで話し込んでいた級友たちを戸惑わせたものだ。その男子の口にした内容がまた振るっていて、「オレって無敵だからさ」と言った声のチョウなのである。
　かと思えば、勉強でもスポーツでも目立つことがなく、小柄で容姿も十人並みときて、趣味はアマチュア無線というおとなしい男子が中学のクラスにいて、「わたしの趣味」というお題のスピーチを国語の授業で課された際に、彼の訥々として語ったアマチュア無線の魅力ー不特定多数の声を拾ってつながるーが、声のチョウが見えてときに捕らえもする自分の秘事と無縁でないように思え、以来、マキタくんだったかミキタくんだったかに淡い親近感を抱くようになったのだが、そのマキタくんだったかミキタくんだったかに廊下で呼びとめられたことが一度だけあって、その吃りどもり口にされた紗良の名字が、ヨナグニサンのようなエキゾチックな紋様の、それはそれは大きなチョウとなって翅を広げて躍り出て、それにすっかり気を取られた紗良は、目の前に男の子がいるのもはばからず、スカートの前をたくしあげて、そのなかへヨナグニサンを収めた。後年、マキタくんないしはミキタくんの、自分は思い人だったと知らされるにいたって、遅ればせながらの赤面をする紗良であった。

「そろそろキミの家にお呼ばれしてもいい頃だと思うんだけど」
　そんなふうにあえてキザな言い方をして、笑いを誘うところもまたこれまでの恋人とは一線を画した。現在紗良が付き合っているカニハラのことである。フロアこそ違え、同じ会社の後輩社員で、そのノリの良さと甘え上手とで一方的に押し切られる形で現在にいたる感じだ。社内恋愛は公然とするのはやはりはばかられるもので、カニハラも紗良もそこは細心の注意を払った。仕事帰りにいっしょに外食するなどもってのほか、ふたりで会うとなれば、紗良は一旦は自宅に向かう路線の電車に乗り、ターミナル駅で滅多に乗らない私鉄に乗り換えて、かなりの遠回りをしてカニハラのうちに向かった。しかしそれも毎日というわけにはいかず、からだの関係を結んで三月もすると、ありふれたウィークエンドラバーズに過ぎなかった。だから最近とみにカニハラが紗良のうちに来たがるのは、このマンネリズムを打破したいと思うからであることは明らかだった。

　五百余りのカラ（と見える）の虫籠を見て、男はなにを思うだろう。男はおろか、女友達さえ誰も呼べずに今日まで来てしまっていた。けして見目麗しいとは言えない年下の男が、おのれの機知をたのんで押してくると思えばこそ、いじらしくもなってくる。カニハラという男を自分は果たして愛しているのだろうかというそもそもの問題は、いつだって棚上げされたまま。愛について言えば、カニハラとて怪しいものだった。結婚などもってのほか。結婚にあせる年齢をとうに越えて紗良は今やなりゆき任せの構えだったし、結婚を我がごととしてとらえるにはカニハラはまだ若かった。
　この人ならひょっとして理解があるかも知れない。というか、理解されたいと、どこかで思い続けていること自体が、彼女の弱みの最たるもので。理解があるかも知れない、という目で相手を見てしまうから、あれやこれや言われて散々笑かされた挙句、紗良は長年のルールのひとつを自ら解いてしまった。

　さすがに虫籠の数に面食らったようだった。残念ながら彼には虫籠のなかのチョウたちは見えなかった。「これは、なに」と問われてほんとうのことを言いかかって、すんでのところで嘘をついた。田舎の甥っ子がカブトムシだかクワガタムシだかのブリーダー気取りで、その子に頼まれて買い置きしたものなの云々。「ふーん」とカニハラは気のない返事をして、部屋の壁三方を整然と埋め尽くす棚の虫籠を物珍しげに見回した。
　先にシャワーを浴びた紗良が髪をドライヤーで乾かしながら居間を覗くと、カニハラがフタの開いた虫籠を膝に置いて、指先にチョウをとまらせているのが見えた。
「なにを、してるのよ」
　声が震えるのを隠しようもなかった。月のように発光する虹色の美しいチョウが、カニハラの指先にとまって、静かに息づくように、翅を開閉していた。こんな形でとっておきのチョウを失うことになる動揺もさることながら、カニハラにチョウが見えているものと思ってそちらの驚きのほうが勝った。
「あなた、もしかして、見えてるの」
　カニハラは深々とうなずいた。しかし紗良は慎重だった。
「なにが、見えるの」
「キミの大切にしている虫さ」
　そう言うと、指を鼻先に立て、そこへ焦点を当てるべく少し寄り目になって、あろうことか口づけをするように唇を尖らせた。虹色のチョウは、それに応えて、二本の触覚でその唇を軽く叩いた。
　固唾を飲んで見守っていると、
「なにが、見えてる」
　と逆に聞かれて、ここに、みごとな翅を広げて、安らいで……言い終わらぬうちに、カニハラは突然紗良の眼前で柏手を打った。押しつぶされたチョウが、紙のようになってカニハラの手の隙間から滑り落ちた。
「冗談のクセがすごいや」
　と言って、カニハラはカラカラと笑った。

　その夜、男を迎え入れながら、紗良は心ここにあらずだった。こんな粗野な男だったとは思いも寄らなかった。一度部屋に入れたなら最後、男は毎日のように通いたがるだろう。ケチな男ならなおさらそうだ。自分の脇の甘さが招来した事態のツケの大きさを思って、紗良は気が遠くなった。

　眠りが不意に破れる。時計は三時を回っていた。やけに静か、といぶかって、この静寂にこそ急き立てられたのだと思い当たって、やがて男の寝息すら聞こえないのに気がつく。見れば、呼吸に合わせて男の胸がかすかに上下している。さらに枕を見やると、闇をそのまま切り抜いたような、黒よりも黒い大きなチョウが、男の顔を覆い隠してとまっているのだった。

＊

「お部屋には、たくさんの虫籠があるんですってね」
　プレゼンに備えて化粧室で口紅を引き直していると、となりに立った事務の女の子が出し抜けに言ってきた。鏡越しに睨みつけるが、相手は動じる気配もない。
「これからは、虫愛づる姫君、とでもお呼びしましょうか」
　せせら笑うと、これ聞こえよがしにヒールを床に蹴立てて化粧室を出ていった。
　フロアに戻ると、赤や青や黄や緑の無数のチョウが飛び交って、紗良のデスクの上やらパソコンのディスプレイにまで、びっしりとチョウがとまっていた。咽ぶほどに鱗粉が舞い飛び、とても仕事どころではなかった。
　とはいえ、紗良のほかフロアの誰にもチョウは見えていないらしかった。彼らは平気でチョウたちを踏みしだき、尻の下敷きにし、肘やら手のひらやら書類の束やらで押しやり、そして押しつぶした。紗良は嘔気に耐えられず、プレゼンを上司に任せて、会社を早退した。
　翌る日は、駅から会社へ向かう道すがら、オフィスのあるビルを取り巻くように、色とりどりのチョウがひらひらと飛んでいるのを認めて、案の定、オフィスはチョウであふれかえっており、人々の全身さえチョウに埋め尽くされていた。そして、そのように見えているのは、紗良ひとりだけ。
　その日も気分がすぐれないと言って早々に帰宅した。そして紗良は、以来二度とあの職場に戻ることはなかった。

　それからしばらくもしないで、紗良のもとに、妹の聖良から長い手紙が届いた。

🦋三🦋

　お元気ですか。
　わたしは元気です。

　突然の手紙で驚かせてしまったかもしれませんが、ほかに連絡手段もないし、どうしても紗良には知らせておきたくって。

　差出人の住所を見ればおわかりのとおり、わたしはもうアメリカにはいません。なんの因果か、今いるのはスリランカ。NGOのスタッフとして現地に来て、もうかれこれ三年になります。スリランカは独立以降、シンハラ人とタミル人の間で内戦が勃発し、終結したのはついこないだのこと。スマトラ沖地震では東岸の漁村を津波が襲い、甚大な被害をもたらしもした。主に漁村の復興支援をしながら、東岸を南下し、現在は島東南の内陸部にある貧村に落ち着いています。高床式の粗末な小屋が当面のわたしの住まい。夜は満点の星空の下、虫や獣の音に揺籃されて眠りにつく。夜更けに目が覚めて、森のしじまに耳を澄ませながら、今が人生の至福の時なのかも知れないと、ふと思うことがある。

　知っての通り、アメリカの大学でわたしは人工光合成の研究をしていました。そう遠くない将来、実用化に向けたプロジェクトが大々的に喧伝されて、地球温暖化抑止の救世主として巨額の資本を集めることでしょう。別に虚栄心から言うのでなく、事実として、わたしはそのプロジェクトの最大の功労者なのですが、わたしの名前が末席を汚すことは金輪際ないでしょう。未練なんか、もちろんありません。どう書いても負け惜しみに取られかねないのをいかんともしがたいのだけれど、ほんとうに、わたしは巨大資本との提携をゴールに見据えたプロジェクトなんかに関わりたくないし、わたしの性格からしてそれを是としないのは、沙良ならわかってくれるでしょう。

　スリランカに来たのはほんとうに偶然です。それこそアフガニスタンでもブルキナ・ファソでもどこでもよかった。応募者のわたしが割り当てられたのがたまたまスリランカだったんです。今となっては、どこでもよかった、などというお気楽な構えをしていた自分が許せません。そうかといって、この場所をこういうアプローチで支援したい、と具体的に示し得る自分をもまた許せたかどうか。結局は許せなかったでしょうね。「支援」とか「援助」とか、そもそもの語彙の定義からして、それをする側が特定の何かを選択的にしに行くという行為自体が矛盾している。される側の本心もはっきりとはわからないのに。結局はシステムの絡むところ、合理化が優先されて、簡略化が進んでいく。システムが巨大化すれば、それだけわたしたちは「考える」という行為を放棄していく。あたかも嵩張る伝統衣装を脱ぎ捨てていくように。つまるところ、わたしたちは考えてしまうから、物事は複雑化するわけで。でもわたしは、ここへ来てたくさんのことを考えた。考えざるを得なかった。

　コロンボに到着して間もなく東へ向かう内陸鉄道の車中、村を通過するたびにどこからともなく子どもたちがわらわらと現れて、のろのろ運転の列車と並走しながら、窓のなかの乗客に向かってなにかを叫んでいるのに遭遇した。子どもたちは手に手になにかを持っている。首からなにかを提げている。あるいは背中になにかを背負っている。見たところ食べ物のようだけれど、あんな不衛生なものを買う者があるだろうかと見ていると、子どもたちの視線がわたしを通り過ぎて、やや前方に集中して、突然皆が全速力で駆け出した。座席の背越しに覗くと、数席先に座るコーカサス系の若い男のバックパッカーが、窓をいっぱいに開いてなにかを外に向かって叫んでいる。窓枠の下端に子どもたちの黒い腕がたくさんに伸びてきて、その手からさまざまなものを受け取り、その手におそらくは硬貨を握らせて、ついに窓外に半身を乗り出して、英語ではない言語でなにかをまた叫びながら、次第に列車に遅れる子どもらの群れに向かって手を振り続けた。それはそれで心温まる光景のようであるけれど、列車が再び快走し始めると、とびきりの笑顔を振りまいた同じ窓を開けて、先刻の若い男がさっき仕入れたあれこれをまとめて放り捨てるのを目の当たりにしたとき、わたしはわたしが置かれている状況を一瞬にして悟った。津波で陸に打ち上げられたタンカーやコンテナ船はいまだに至るところそのままだし、内戦後の都市部がみるみる復興を遂げるいっぽうで、農村や漁村は荒廃したまま取り残されている。そんなに簡単なことじゃないんだと、内なる声は日々大きくなっていく。

　前置きが長くなりました。本題に入ります。先述の人工光合成の話ですが、人工光合成のプラント建設とは別に、わたしはウミウシなどの盗葉緑体現象（kleptoplasty）の研究を通じて、人間の表皮細胞への葉緑体の取り込みと一次利用の実現に邁進した。ヒトの光合成が可能になれば、将来起こるとされる人口爆発とそれに伴う食糧危機の解決につながると、わたしは本気で考えていた。もちろん、そこに物事の単純化の陥穽が待ち構えているわけで。しかし当時のわたしにそれは見えなかった。結論から言えば、人工光合成のプラントの実現の目処は立っても、ヒトの光合成は頓挫した。詳しい話は省きますが、メラニン細胞に着目したわたしは、メラニンの代わりに光合成能力を保持した葉緑素の表皮細胞内での複製と新生細胞への受け継ぎまでは成功したものの、ここで進化における自然淘汰の壁にまんまとぶち当たったというわけです。そう、わたしは神を甘く見ていたのでした。

　つまり脊椎動物は太陽を敵として進化し、植物は太陽を味方として進化したという、ちょっと考えればすぐにわかりそうな理屈を、わたしは見逃していたのです。メラニンによってわたしたちは太陽光の含む有害な紫外線から身を守っている。しかし植物はむしろ紫外線によって発育を促進されたり抑制されたりしている。メラニンを葉緑体で代替することは、人体を有害な紫外線に晒すことになる。そうなれば、知っての通り皮膚癌などの深刻な副作用は免れない。それから、光合成によって合成される糖の分量を調整する機能をそもそも人体は持たないから、血中糖度を最適に保つことができなければ、わたしたちは恒常的に糖尿病のリスクを負うことになる。要するに動物と植物とは構造的に相容れぬ関係にあって、相容れないからこそ、相互補完的に生きていくことを運命づけられている。なんのことはない、人工光合成を実現するくらいなら、方々の荒地に植樹すればいいという結論に、今更ながらわたしは行き着いていた。

　わたしの両腕の内側にはメラニン色素がありません。人為的に漂白して、わたしはそこにわたしの開発した人工葉緑素を移植した。危険を承知で、ときどきわたしは腕まくりをして腕の内側を日光に晒します。しばらくすると、あの、太陽光がジリジリと表皮を焼く感覚とはまったく異なる感覚を得る。全身を柔らかくて温かなものに包まれるような。この大地がじつは地球と呼ばれる天体の表面で、その球体が茫漠たる宇宙に浮かんでいるという事実が、言葉にしようのない身体感覚として身体の隅々まで充足していく。陸も空気も海もみなひとつであり、そのなかに自分の存在もまた溶け込んでいく感じ、とでも言いましょうか。あの感覚を誰と分かち合いたいかといって、それはほかならぬあなた、紗良です。光合成するわたしが得る感覚とは、仏教のいうところの諸法無我の境地なのか。ひとつ言えることは、それがほかならぬ植物の得ている感覚だということ。こうしてわたしは、植物の世界観に圧倒されるにいたった。

　紗良。あなたは人の声がなにかに見えていますね。あなたがカラの虫籠を部屋に置くようになってから、わたしにはピンと来た。なぜと言って、わたしはわたしで、人の声が形を成すことがあったから。

　それをお互い黙っていた。それだけ疎遠だったということかも知れない。でもわたしはそのようには解釈していない。いつかわたしには、それを姉さんと分かち合う時が来る。でもそれは、今ではない。そう思って今日まで来た。そして、今、機は熟したのだと、わたしは確信している。

　国語の時間に先生が黒板に「形声文字」と大書きして、それは意符と声符とで成り立つ漢字で、たとえば「花」「空」「絵」などがありますとその例を並べて書いていったとき、わたしは自分でも抑えきれずに珍しく挙手をして、「葉」と答えていた。「『は』って、あの葉っぱの『葉』ですか」と先生が言うので、わたしは激しくうなずいて見せると、先生はちょっと怪訝な顔をしてから、「草冠が意符で、その下は『ヨウ』と読ませる声符だから、たしかに形声文字ですね。聖良さん、よくできました」わたしは腑に落ちなくて、声がときどき葉っぱになるんです、とそう言おうとして、それより先に先生はこう続けた。「でも不思議ね。あなたのお姉さんは、たしか、『蝶』と答えていましたよ。同じヨウを含む漢字。いっしょに漢字のお勉強をしたのかな」

「葉」という漢字は小学三年生で習う漢字で、あのときわたしは小学二年生で、先取り学習なんてしてなかったから、知るはずもなかった。そうか、姉さんは声が蝶になるのか。そう思って、わたしがそのときに感じたのは、心強さだった。この人が耐えているのなら、わたしも耐えようと、そのとき思ったんですね。

　そうです。わたしには人声が葉に見えることがある。降りしきる落葉になることもあれば、風に舞う一枚の葉であることもある。あるいはわたしの背後からサワサワと気配がして、あれよという間に新緑の若葉に囲まれることもある。網状脈の葉もあれば、平行脈の葉もある。新緑も、深い緑も、赤く染まったもの、黄色く染まったもの、はたまた枯れて丸まったもの……と色も形もさまざま。必ずしも人声みな葉の形をとるわけではないし、美しい声が美しい葉に姿を変えるわけでもなく、内容についても同様で、どうでもいいような声の切れ端が、みごとな大樹の葉むらとなって、わたしを覆う束の間の屋根になることだって少なくない。そういえば蝶の字の右側、葉の字の下側のこのヨウの声符は、もともと「薄っぺらい」という意味だって、知ってましたか。喋る、は、だから、薄っぺらいことばかり口にする、ということ。チョウを「薄っぺらな虫」と見るあたり、morpho なんて呼んだりする西洋人と違って、中国人って直截的でなんかいいですよね。

　わたしは、紗良にだけ手紙を書いている。日本のあなたひとりにだけ、わたしはわたしの近況を伝えている。他言は無用です。父さんも母さんも、要らない心配をする人たちだから。わたしはこれからある決断をする。それを、紗良に見届けてもらいたいのです。誰かに知ってもらう必要などないのかも知れないけれど、そこは、人として生まれたわたしの弱さなのかも知れません。その弱さが最後にすがるのが、あなた、紗良です。姉さんです。

　まずはここまで会いに来てほしい。あなたに見せたいものがある。あなたに託したいものがある。出来るだけ早く、ここにわたしを迎えに来てほしい。そしたらわかります。わたしのすべてが。わたしたちのすべてが。

　旅費は、ごめんなさい。わたしは今とても貧乏だから、姉さんがなんとか工面して（笑）。連絡先を最後に記します。ケータイもパソコンも使えません。だからこんな、旧式の紙の手紙なんかを書きました。でもたまには手紙もいいものですね。この薄っぺらな紙の感じ。わたしたち姉妹には、なんだかふさわしいじゃありませんか。

🦋四🦋

　飛行機を出るなり鼻っ面を襲ったのは、その国の通奏低音としての匂い。バンダラナイケ国際空港に充満するのは、おそらくはあまたの香辛料の綯い交ぜになったそれ。つまりはこの土地に住まう人々の身体の匂いにほかならず、自国民にはそれと意識されることのない匂いでもある。ちなみに日本人は、誠か嘘か、醤油の匂いがそこはかとなくするのらしい。

　入国手続きも荷物（といっても登山用のリュックひとつだけ）の受け渡しもスムーズだった。両替を済ませ、SIMカードも購入していざ出陣と足早に歩き出すと、空港の出口でサリーを着た女性スタッフに鋭く制止される。気がつくと日本人の若いカップルばかりが五、六組、紗良の周囲に固まっていて、ことの成り行きがわからず、ヒソヒソと小声で話し込んでいる。なんとなく紗良に視線が注がれるようなのは、気のせいとも言えず、南アジアに彼らより年嵩の女がひとりでいるとなれば、いかにも旅慣れた感じを醸してしまうのも道理だったろう。こうした周りからの圧を平然と受け流せるほど、紗良は肝の据わった人間ではなかった。このたびも釣り出されずにはおれなくて、気がつけばサリーの女性スタッフと口論のようになっていた。向こうの英語がまずよく聞き取れない。こちらの英語もつたないときている。どうやら宿泊先がわかればここを通す、ということらしく、ホテルの名を告げると、この人らは、と紗良の背後で事態を見守る日本人たちのほうを見やるのだった。見ず知らずのカップルたちにその旨知らせると、みな口をそろえて空港の外にツアーコンダクターが自分たちをピックアップすることになっていて宿泊先はそこで初めて教えられるのだと言い、なんとかそのことをサリーの女に知らせるも、なにかをさかんに口走りながら手を振り首を振りして、取りつく島もなかった。内戦が明けて間もないお国の事情を鑑みればさもありなんではあるけれど、宿泊先を知らないツアー客ときては進退谷まっている。あたりを見渡すと、遠くから制服の大柄な男が二人、こちらをうかがうふうなのを見つけ、そちらへ走り寄ると、サリーの女に訴えたことを繰り返した。男たちは状況を理解したものか、ゆっくりと頷きながら Okay, okay と繰り返し、ゲートまでついてきて、サリーの女を説得するようだった。英語ではない言語でほとんど喚くような物言いをする女。それをなだめる男たち。紗良とその他の日本人たちはようやく放免されるにいたったが、ゲートを抜けるさい、例のサリーの女から、《Your English is very very bad.》と背後に投げつけられるのを紗良ははっきりと聞いた。

＊

　夕刻の戸外に風がそよぐ。香辛料と排ガスと、大地の匂い、そして海の匂い。この地の十二月は乾季の始まりというが、いかにも暑気は柔らかく、風も乾いている。日本を発つ折の寒さが嘘のよう。頬の赤い黄緑色の鳥の群れが、それ自体が大きな生き物であるかのように、膨らみ縮みしながらかしましく頭上を過ぎていった。

　高速バスを使ってコロンボ市内にいたる。中途からハイウェイは渋滞して、ゆるやかに蛇行するひと筋の光の川のようだった。年の瀬に、時ならぬ量の人やら物やらが都会に流入するものだろう。暮れなずむ異国の赤い空を、紗良は飽かず眺めていた。
　けたたましく鳴らされたクラクションにまどろみから引き剥がされる。自分の乗るバスか、それともこのバスの前後左右に接する車か。聞き慣れぬ乾いたエンジン音を立ててバスを追い越していくのは、トゥクトゥクと呼ばれる三輪オート。気がつけば前方に光の海が広がり、バスは今しもターミナルの停車場に入ろうと盛んにクラクションを鳴らし、前方をふさぐ車両を追い払おうとしていた。光の海は、所狭しと並んだ屋台の水銀灯で、どうやら停車場は大きな市場と接しているらしかった。

　バスを降りると、光の海をやり過ごして通りに出る。型落ちの日本車やらバイクやらトゥクトゥクやらが盛んに行き交い、人がすれ違うのがやっとのような狭い歩道に面して店舗が並び、これまた水銀灯の連なりが店先に吊り下げられた赤やら青やら黄やらの原色の品々を煌々と照らしていて、店の男や女が異国の旅行者を認めて声をかけてくるが、それもおざなりな感じで、それもそのはず、こちらはこちらで立ち止まろうにも有無を言わさぬ人の流れに飲まれてままならないのだ。とりあえずより明るいほうへ流されてみようという心だった。不安より、異郷に身ひとつ晒して覚えるあの独特の高揚感がまさった。
　やがて左手にフォート駅のファサードが見えてくる。明日、そこから鉄道で島の東へ向かう。駅前に巨大な円錐のクリスマスツリーが青い光を散らしてそびえ、その下に人はなお一層あふれかえり、トゥクトゥクの客引きも攻勢を極めた。それを振り払うようにして人いきれの奥へ奥へと分け入っていく。

　店舗ばかりでない、路上に板が並べられて、箱のなかに原色の物が詰め込まれている。内戦と支援という二つのことばからはとても結びつきようのない眼前の光景。人と物があふれているから豊かだ、と短絡するつもりはない。ただ、明らかに街は躁に突き動かされており、うねるようなエネルギーの波のただなかにいて、これは他者の同情を寄せ付けないしたたかななにかだと紗良は思うばかりだった。気がつけば、紗良は非常な空腹を感じているのでもあった。

　タクシーを拾って宿泊先までいく。英国による旧統治時代を彷彿とさせる白亜の建物で、ホテルばかりでなく周囲の洋館も、クリスマスのイリュミネーションで飾られていた。ホテルの一階のレストランでカリーとタンドリーチキンを平らげると、これはオランダ統治時代に建設された施療院を改造してモールのようになった観光スポットを食後の散歩がてら回って、文具や本を売る店で、現地の言葉で書かれた薄い絵本と、A3判の白地図を求めた。シンハラ文字の丸まった感じが可愛らしくて魅せられたのと、スリランカを中心にした世界地図をふと見たくなったという、酔狂だった。

　宿で白地図の筒を広げてみると、世界の中心にあるのはスリランカではなく、イギリスだった。日本列島は右の端にあり、東北の一部と北海道が枠の外にあって描かれていなかった。

＊

　フォート駅は朝から人でごった返した。前売り券の販売所には西洋人や中国人が詰めかけ、列の最後尾もわからない状態で、おまけにエアコンがついておらず、戸外よりよほど蒸すように暑い。これには耐えられず、通常の販売窓口で二等席を求めると、駅員の男はなにかを早口でまくし立てて首を振る。一等は、と英語で聞くと、これに対しても同じ応答をして、三だけだ、と指で示すよう。わかった、と日本語で応じて紗良は三等席の切符を購入して駅舎に入った。

　自分の乗る列車が何番線に来るのか、紗良は何度も電光掲示板で確認した。来るはずの時刻を五分十分と過ぎても列車は来る気配がない。旅慣れているわけでもない紗良だが、日本のpunctuality が世界的にはむしろ珍しいとは半ば常識として知っているから、遅延で動揺することはなかったが、向かい側のホームに列車が入ってきたとき、紗良と同じホームに立つ老若男女の少なからずが線路に降り立って走り出し、止まりかかった列車によじ登って始終開きっぱなしと思しき出入り口に身をねじ込んだものだから、あるいは目的の列車が予定を変更して異なるホームに入ってきたのかも知れないと一抹不安になって、かたわらにいた女性に、自分の切符と目の前の列車を交互に指差すと、列車を指差して首を振って笑ったから、紗良は間違いはないのだと理解するほかなかった。
　それから三十分して、列車は到着した。車両内は、日本の都会の通勤列車に慣れている身からすると全然耐えられる混雑ぶりだが、旅行者と思しきは紗良ばかりで、なんとなく奇異の目に晒されるようにも感じられたが、じきに慣れていった。すべての窓が明け放たれていて、ドアに扉もない。ドアの近くに立って支柱につかまり、ドア枠に切り取られた異国の街並みを眺めている。コロンボ市内は至るところ開発が手付けの状態にあって、地区の完成予想図を示す絵のかたわらには、必ず中国語が併記されている。すでに出来上がった高層ビル群も見える。市を抜ける頃には、鞭のように細い身体の、側頭部を綺麗に刈り上げた若い男が二人、床に直接座りついてドアの向こうに脚を投げ出していた。

　列車は勾配をゆるゆると登り始めて、片側は岩壁、片側は棕櫚を前哨としてガジュマルなどの高木が次第に鬱蒼とし始め、やがて木々の間に、起伏に富んだ土地一面を覆う茶畑が見え隠れした。時ならぬ驟雨に見舞われたかと見上げると、岩肌を伝う瀑布の飛沫が、列車の屋根に降り注ぐ音だった。「雲の列車」の異名を取るこの列車は、聞きしに及んだ通り、南中するに近い太陽を鶉の卵黄のように天空に張りつかせて、霧のなか、つまりは雲のなかへとやがて突入していった。
　こちらに背を向けてドアの向こうに脚を投げ出していた若い男たちのうちのひとりが、ドア枠に並行して取り付けられた手すりを片手でつかんで立ち上がり、半身を外へ躍らせて、腕を伸ばして行き過ぎる木々の枝先に触れんと今や遊び始めていた。
　弧を描くように外に躍り出ては戻って来、その度に何かを言って二人して笑う。座る者たちは老いも若きも男も女も気がつかないのか知らぬふりなのか黙念とする姿勢を崩さず、立つ者もまた意に介する様子はない。日本の都会なら、誰かしら釣り出されて叱言のひとつも言いそうな場面である。半身を外へ投げ出して戻ってくる一連の所作が、なんとなく自分を意識してなされるようで、紗良は気が気でなかった。

　案の定、しばらくすると二人の男に両脇に立たれていた。どこから来たのか、どこへ行くのか、ひとりで来たのか、よければすばらしい場所へ案内する等、耳元でボソボソと話しかけてくる。無視を決め込んでいると、リュックを思い切り後ろに引かれ、よろけたところで二人の爆笑が炸裂した。さらにぐいぐいと引かれて、ついに腕をつかまれた。おりしも列車は減速していて、次の停車駅が近いのだ。両腕で抱くようにしてポールにしがみついて、難の過ぎるのを祈る。祈るほかなかった。インドでカップルがハイウェイを走るバスのなかで集団に襲撃され、女はレイプされた挙句、ゴミのように投げ捨てられたというニュースを思い出していた。

　女の金切り声が立った。背後にひとつまたひとつとそれは増えていき、薄目を開けると、黙念として座る乗客の頭上をチョウが舞っていた。モンシロチョウよりやや小さいようなチョウが、声の膨らむにつれて数を増していく。そして、座る乗客の頭や肩に休んでは、静かに息づくように翅を開閉した。翅の裏はベロアのような質感のオレンジで、表には臙脂の下地にカタカナのハの字の文様が白く刻まれて、翅の縁は濃い紫に染まっていた。それら小さなチョウたちは、紗良の二の腕や指先にもとまって、彼女を取り囲むようにして舞っているのだった。
　どこから現れたものか、サリーの女たちが身を挺して彼女を庇っているのだった。恰幅のいい年配の女性が、両手で腰をつかんで肩をいからせて男たちの前に仁王立ちになり、なにやらまくし立てた。列車のブレーキ音が長々と尾を引く。列車のスピードが急激に落ちて、列車は前へ傾いでいく。男たちが一歩を踏み出すような仕草をして威嚇するが、女たちはひるむどころかかえって詰め寄り、轟声は淀むどころではなかった。ついに男たちはドアのほうへ駆け寄り、例の半身の回転を披露すると、地面にうまく着地できずに斜面の向こうを転がり落ちた。窓やドアの外へ顔を半ば突き出すようにした女たちの怒声は、しばらく止まなかった。

　泣いていた。
　両手で顔を覆って泣いていた。
　誰かに背中を優しくさすられていた。
　なぜこうも自分はしゃくり上げるようにして泣いているのだろう。
　これでは積年の悲しみが堰を切ってあふれ出たようなもの。
　そんなことがあるだろうか。
　わたしはずっと悲しかったのか。
　わたしはずっと泣きたかったのか。

　眠ってはいけない、と心が叫んでいる。
　いっぽうで、背中をさする手が、眠ってもよいと彼女をうながしている。

　自分は眠ってしまったのだろうか。沙良には判じ分けがつかなかった。背中をさする手は、とうにないようだった。とんだ不義理をしてしまったと顔を上げると、車両のどこにも先刻の女たちの姿は見えなかった。あるのは、すでに閑散とした箱のなかで相変わらず黙念として座る年寄りたちの姿ばかり。向かいのシートの上に蝶が一匹、翅を畳んで裏地のオレンジをこちらに見せてとまっていたが、それも次に顔を上げたときには、いなくなっていた。

　乗り継ぎはことのほかうまくいった。手紙の指示通り、乗り継ぎの駅で電話をかけると、聖良ではなく男が応答した。流暢な日本語ではあるけれど、微妙なアクセントの違いで相手が外国人であるとは知れた。
「わたしは聖良さんをお世話している者です。聖良さんからあなたのことを頼まれました。この先わたしがあなたをガイドします。わたしはクマラといいます。聖良さんはわたしをクマさんと呼びます。ですから紗良さんも、わたしをどうかクマさんとお呼びください」
　物静かな、理知的な声。いつまでも聴いていたくなるような、深い森の眠りの声。チョウの気配がスマートフォンの内から膨らむような気がしてしばらく待ったが、ついに声のチョウは現れなかった。
　指示された駅に着くまでまたそこから一時間ほど要した。霧は晴れたが、あたりはすっかり暮れて、聞いたこともない鳥の鳴き音や獣の咆哮がたったひとりの降客を脅かした。
　ガジュマルの大樹を背にして、白のワイシャツに白のサロンを腰に巻いた男が二人、薄暮の闇に茫と浮かび上がった。男たちから少し離れたところに、スズキの白のジムニーが停まっていた。背の高いほうがクマラ、背の低いほうがアハメドを名乗る。クマラは紗良と同じ世代の青年と見え、アハメドは十代半ばの少年と見えた。クマラは、スマホを通して聞いた声に違わぬ聡明な顔つきの好男子で、アハメドはこれぞアルカイックスマイルの典型というような微笑みを絶えずたたえている。

　ここからさらに数時間、道なき道を車で行きます、と紗良は告げ知らされる。

🦋五🦋

　車を運転するクマラの肩に、白いチョウが安らいでいる。それが声のチョウなのか、本物のチョウなのか、紗良には見分けがつかなかった。白いチョウの白さは初雪より白い白さで、すっかり陽の落ちた闇のなかでかすかに発光するかに見えた。
　コロンボ市内でチョウを見なかったことを、紗良は今更のようにいぶかった。それを不思議とは思わなかった自分をこそいぶかった。異国のことばをのせた声はチョウにならない、と無意識のうちに合点していたのかも知れない。しかしそうではなかった。列車の女たちのことを、紗良は思い返していた。

「聖良は」
　という問いかけに、
「もうじきお会いになれますよ」
　とクマラ。
「今夜はわたしたちのところでゆっくりお休みになっていただいて、明日の朝、わたしがあなたを聖良さんのところへお連れいたします。聖良さんも、紗良さんにお会いすることを、たいへん楽しみにしていらっしゃいます」
　助手席のアハメドが振り向いて、例の微笑をたたえてしばし紗良を凝視するようだった。不思議と気後れさせられることはなく、紗良も自然と微笑みを返していた。アハメドは向き直り、足元をしばらく探るようにして、再び振り返ると、丸めた両の手のひらを互い違いに重ねて入れ物様にしたのをおもむろにこちらに差し出した。紗良の鼻先でそれを開くと、白いチョウがふわりと舞った。
「わたしたちにもチョウが見えます」
　とクマラは前方を注視したまま言った。
「聖良さんは声が葉になる。あなたの場合、声が蝶になるのですね」
　言ってから、
「このアハメドも、声が見えます。アハメドが見る声は、あなたのような美しい蝶ではなく、蠅ですが」
「ハエ？」
「そうです。蝿です。fly」
　すると相変わらずまたたきひとつしないでこちらを凝視するアハメドは、重々しくうなずいて、自分の鼻先を片手で払う仕草をした。
「おやおやアハメド。勘違いしないでください。わたしはあなたを褒めたわけではありませんよ」
　そう言って、クマラはホッホッホッ……と笑った。

＊

　トタンで屋根を葺いた石組の家の玄関の軒先にランプがひとつ灯り、紗良一行を出迎えたのは赤のサリーの女性と青のサリーの女性のふたりで、クマラの母親と妹であると紹介された。
　家のなかは六畳ほどの土間になっており、中央の梁からは玄関先にあったのと同じランプが吊るされて、部屋の隅々を仄暗く照らしていた。漆喰の壁は真新しいような白さで、なにも掛けられていない。部屋奥から中央にかけて、床の三分の二を覆う広さで、藁を編んだような目の荒い茣蓙が敷かれている。部屋の中央にはでっぷりした陶器の鉢が据えられて、胴に金魚が二、三匹あしらわれてあるのからして、日本の古道具屋などでよく見かける火鉢であると知れた。奥の壁に寄せられてあるのも日本の文机のようであり、なんとなく懐かしいような思いにとらわれてたたずんでいると、
「ここは長い間、紗良さんの事務所でした。今はわたしたちの集会所であり、お客さまがあればゲストハウスになります」
　とクマラが説明した。
「今夜は少し寒くなりそうなので、火鉢を出しました」
　見ると、火鉢のなかで大ぶりの炭が組まれ、底のほうに赤い火がちらついた。文机のある壁に開けられた窓にガラスは嵌められておらず、網戸を閉てて鎧戸の片側が向こうへ開かれてあるのは、換気のためだったろう。文机に向かってなにやらせっせと書き物にいそしむ聖良の丸い背中が、ぼんやりと幻視された。
「奥には風呂もトイレもあります。お湯も焚いてありますから、あとで旅の疲れを癒すといいです」

　クマラにうながされて履物を脱ぐと、茣蓙にじかに座りついた。クマラ、アハメドと順に座り、奥へ引っ込んだ女たちが、盆を捧げて戻ってきて、各々の前に置いた。銀の盆の上には、粉を吹いた葉にくるまれたものが置かれ、薄い煎餅のようなものが添えられていた。それから水をたたえた銀の小鉢。女たちも加わって、火鉢をまんなかにして一同車座になったところで、クマラが手を合わせて祈りのようなものを呟き、アハメドも女たちもそれに唱和したもので、紗良も形ばかり手を合わせて目を閉じるのだった。
「ささやかではありますが、歓迎の意を表します。紗良さん、遠いところをよく来てくれました」
　女たちが破顔して紗良に向かって現地の言葉でなにかを言った。アハメドは相変わらず、微笑をたたえて凝視するばかり。バナナの皮にくるまれているというそれをうながされて開くと、予想だにしない赤や黄や緑やピンクの豊かな彩りが目の前に現れた。すでにして嗅ぎ慣れたカリーの香りが立ち込める。男も女も銀の小鉢の水で指先を洗うと、右手で躊躇なくその美しい彩りを崩しにかかり、煎餅様のものを時折割って上からふりかけもしながら、こねて丸めてそのまま口に運んだ。呆気に取られていると、クマラはニヤニヤしながらこちらを観察するようである。見よう見まねで最初のひと塊を口に入れる。クマラは大きくうなずいて、
「お口に合いますか」
　と折り目正しい日本語で聞いた。紗良もうなずきで返して、黙々と手を口に運ぶ。茶色い塊がなにかの肉とはわかるのだが、奥歯でゆっくりと噛みしだくと、これまた想像だにしない絹のようにも上品な甘味が口腔いっぱいに広がって、思わず日本語で、甘い、と呟いていた。
「それは鹿肉の蜂蜜漬けです。スリランカの先住民の伝統料理です」
　とクマラ。甘味に誘われるようにして、相当に自分は疲労していることを、今更のように思い知らされるのでもあった。熱い湯に浸かることを、今ほど焦がれたこともないかもしれない。紗良は腕時計をしないので、正確な時間もわからない。夜の九時はとうに回っているだろう。自分のためにこうして遅い晩餐でもてなしてくれている人たちになんの感謝もしていない自分が急に恥ずかしくなり、食事の手を止めると、誰彼に深々と頭を下げて、日本語で礼を述べた。それから、Thank you, thank you…と口をついて出たのは、我ながら間抜けなことだったと紗良はあとあと思い返すことになる。クマラが現地の言葉で女たちになにかを言い、すると女たちは目を合わせるや、声を立てて笑った。ひとしきり笑い終えてから、紗良のとなりに座る母親がこちらを向いて真顔になり、首を振りながら、励ますようにその手で紗良の手の甲を包んだ。

　トイレ兼バスルームの三畳にも満たない室内にドラム缶の浴槽が据え置かれ、木蓋を開くと、濛々と湯気が立つ。湯は熱いくらいのもので、それが紗良の希望にかなっていた。
　湯を手に掬い、床に置かれたランプの灯りに照らされた自分の顔が、水鏡のなかで次第に像を結んでいく。取り立てて艱難に彫琢されてきたわけでもない、世界基準で見ればずいぶんと生ぬるい空気にさらされ続けた顔がそこにある。この土地の住人の、あのなんともしたたかな感じ、たくましい感じが、この顔にはまるでないのだ、と紗良は思う。戦争の渦中にあった日本人の顔はどうだったろう。多少なりとも精悍だったろうか。あるいは欧化の夢に突き動かされた日本人の顔は。
　顔を洗って、新たな湯をまた掬い取る。水面の揺れが次第に収まって、水鏡にふたたび自分の顔が映る。それでも、と紗良の思考は飴のように伸びていく。わたしの顔に、母の顔があり、祖母の顔があり、曽祖母の顔があり、高祖母の顔があり、そのまた上の世代の女たちの顔があり、気の遠くなるような数の顔が、これまた気の遠くなるような時間をかけてわたしの顔にこうして重なることの不思議に感じ入る。こんな、のっぺりとした変哲もない顔にも、歴史は自ずと現れる。それをどこまで、人は刹那的に感知し得るものだろうか。いや、こんな機会でもなければ、人は自分の顔の由来について考えたりはしない。湯で何度も顔を洗いながら、自分はまた泣いている、と気がついて、自分の流した涙に浸かっているような錯覚すら覚えていた。そうして我知らず呟いていた。
「女を、産もう」

＊

　半分開いた鎧戸の窓から冷気が忍び込んで、それで眠りが破られた。何日かぶり、いや何ヶ月かぶり、何年かぶりに得た深い眠りだった。眠りの深海からゆっくりゆっくりと浮き上がり、頭上に日の光がちらちらと見え始めたとき、にわかに寒流が流れ込んだ感じで、ようよう物憂げに腕をひと掻き、足をひと掻きして水面に顔が出たところで、目がはちりと開いた。
　戸外はまだ明けやらず、うすぼらけに霧が立ち込めていた。
「おはようございます」
　霧のなかから昨夜と変わらぬ白い衣装が茫と現れて、クマラが挨拶する。
「おはようございます」
「太陽がすっかり出ましたら、わたしたちは出発します」
「聖良のところへ」
「そうです。その前に、聖良さんに、あなたにぜひ見せてほしいと頼まれている場所があります。そこへ行ってから、聖良さんのところへ行きます」
　出かける前にひと仕事終えなければいけない、とクマラは言い、ご覧になりますか、と言うので紗良はクマラのあとをついていった。
　霧のなかに、クマラと同じ装束のアハメドが見え出した。そこは建物の裏手の敷地で、不意に耳元を虫の羽音におびやかされて、紗良は顔の周辺を手で払った。蝿、と思った。アハメドの周辺で声の蝿が飛び交うものと思ったのだ。
　敷地に白い箱が等間隔に並んで、霧の向こうまで続いている。手前のひとつにアハメドが取り付いて、蓋を開けてなかを覗き込んでいる。虫の羽音が次第にはっきり耳について、本物の虫のそれであることがわかる。
「これは養蜂箱です。蜂蜜はわたしたちの伝統であるアーユルヴェーダに欠かせません。それから仏教の僧たちは夕食に蜂蜜と黒砂糖を食します。ですから蜂蜜はわたしたちにとっての現金収入の主たる源なのです。森の野生の蜂の巣を取るばかりだったわたしたちに、養蜂の技術を教えたのは、ほかならぬ聖良さんです」
　養蜂家が被るような虫除け帽などなにも装着しないアハメドは、クマラのことばを受けて、箱の中から一枚のみごとな蜂の巣を取り出して見せた。一部をむしり取ってから蓋を閉じると、紗良に手のひらを広げるよう目で語りかけ、語りかけた通りにすると、そこへ蜂の巣の破片を素手のまま絞って、金色の滑らかな液体を滴らせた。鼻を近づけるまでもなく、その馥郁たる香りに陶然となった。日本ではついぞ嗅いだことのない、濃密な花の香り。
「さあ、アハメド。もたもたしないで。もうすぐ出発の時間ですよ」
　アハメドは静かに笑っている。
「おやおやアハメド。勘違いしないでください。わたしはあなたを褒めたわけではありませんよ」
　そう言って、クマラは声を立てて笑った。

　霧深い森の隘路をしばらく行き、やがておそらくは霧の、つまりは雲の外に出て、ほとんど同時に視界が開けた。森林限界なのかあるいは伐採によるものなのか、視界を隔てる木々は一本たりとてなく、そこにあるのは尾根を貫く未舗装の一本道ばかりで、右手はなだらかな山の斜面となって下り、麓の平地に田畑が山を縁取るようにしてうねる帯をなし、海がすぐそばまで迫った。海上に雲ひとつなく、海から出てしばらくの太陽が南国ならではの強い光を放射している。その光に追い立てられるようにして、海からの風が斜面を駆け上り、車の右から左へ吹きつけた。そうして風は、左手の、おそらくはこれまた斜面を下るのだろうが、夜のうちに窪地に溜まった冷気に触れて海風に含まれる水蒸気が凝結するのであろう、尾根のきわまで来てたちまち濛々たる雲に変化し、早瀬の波頭のようになってなだれ落ちていくのだった。波頭に生起する無数の逆巻き、無数の渦巻き、そして無数の螺旋のありようは、あたかも異形の神々による狂いの舞踏を見る思いがした。
　尾根の道は先を行くにつれ勾配もきつくなるようで、ほどなくしてひと抱えはありそうな白っぽい岩石が連綿として覆う地帯が眼前に現れて、わたしたちはそこで往生するほかなかった。
　そこから先は歩くと言われて、紗良にはとうからその覚悟はできていた。大きな岩が立ちはだかれば、それをまわるべく、ひとつ踏み外せば奈落へ落ちないとも限らない狭い足場を幾たびか通ることにもなったが、不思議と恐れはなかった。太陽がまた一段と高くなったような気がした。太陽が、見ている。そうして海は金砂を撒いたように水面を輝かせ、麓の家屋もまた、黄金色に輝いた。そして左手には、広大なる雲の海。
「あれです」
　見上げた先に裾の広やかな木が立っていた。立ち枯れているようだった。それを目印にそこが峠で、木の枝のかしこに紐が渡され、青や赤やの旗が風にはためいていた。

　木の根元に小さな祠が二つあった。ひとつはなかに極彩色のシバ神を祀り、ひとつは銀に塗られた仏足石を祀った。それぞれに例の鹿肉の蜂蜜漬けと思しきが供えられていて、今朝のうちに供えられた新鮮さであることは疑いようがなかった。柵のひとつあるわけではない。それでも地面はきれいに踏み均されていて、真白く清潔そのものだった。信心深い民の十人が祠に向かってこうべを垂れるに十分な広さがあった。
「もうすぐです」
　クマラは言う。なにがもうすぐなのか。海のほうを見はるかしていると、こちらです、と言って雲海のほうを向かせた。
「ほら、この先が狭い谷となって、平地に通じるのです。窪地に溜まった雲が、あの狭い道を通って漏れ出ていくのがわかりますか」
　言われてみると、たしかに谷があるとクマラの指差すほうへと雲の向かう筋目のようなものが雲海の面（おもて）に幾重にも紡錘状に走るのが認められ、心なしか雲海の深さも徐々に浅くなるようだった。
「これを見て、聖良さんはなにに喩えたかわかりますか」
　見当もつかずかぶりを振ると、
「ラテ・アートです。なかなか秀逸な喩えではありませんか」
　そう言ってクマラは笑った。

　太陽がまた一段と高くなった。太陽が高くなるごとに、雲はみるみるその「水位」を下げていった。谷へ流れ出すというより、谷の外へ吸い出されるようにして。そうしていよいよ太陽の高さが尾根を越え、盆地の底へ届くようになると、しばらくもしないで雲は跡形もなく消え去った。
　雲が消え去り、風が凪ぐ。山々に囲繞されたその窪地に、かしこに雪でも残るような白さがまず目にとまった。それから、青く霞むところ、黄色く霞むところ、淡紅色に霞むところ……と、色彩の抽象画へと解体する一歩手前で踏みとどまったある種の印象派絵画のただなかに迷い込んだとさえ錯覚される文字通りの桃源郷が忽然と眼下に現れるにおよんで、紗良は思わず息を呑んだ。
「お見せしたかったのはこれです。ココヤシ、マンゴー、レンゲ、アカシア、ソバ、ラベンダー、マヌカ、クローバー、そしてタチアワユキセンダングサ。ありとあらゆる花が一年を通じて咲きほこります。聖良さんの発案で、長の間の荒地は、こうして花の楽園となったのです。みんなで少しずつ花の木を植えていきました。そうしてわたしたちの蜂が、あれらの花の蜜を集めてきます。奇跡の土地、と聖良さんは言います」
　知らず涙があふれていた。しかしそれは、旅の道中に流した涙や昨夜の浴槽で流した涙とはまるで異なる性質の涙だった。疑念の余地の微塵もない、確信として流れる涙というものもあるはずだった。できればクマラの胸を借りたかった。もちろんアハメドの胸でもいい。人のぬくもりに触れ、身をゆだねて抱きとめられたかった。しかし彼女は最後の力を振り絞って、抑制した。抑制が勝って、彼女はその場にくずおれた。そして言った。
「聖良に、会いたい」
　クマラが駆け寄って、紗良の手を取った。アハメドも駆け寄って、紗良に肩を貸した。
　ふたりの力を得てなんとか立ち上がる紗良。
　クマラがささやくようにして言う。
「お気づきになりませんか。もうあなたは、聖良さんにお会いになっていらっしゃいます」
　言われて、なんのことかと周囲に視線を巡らせる。
「あれは」
「菩提樹です」
　その瞬間、あたりが往時の小学校の音楽室に変貌して、小学生の紗良はおとなしく席についてシューベルトの『菩提樹』を学友とともに聴いているのだった。ふと視線を落とすと、教室の床一面に花々が咲き乱れるかのように、薄紫色の地に浅葱に縁取られたシジミチョウのような小さなチョウたちが子どもたちの膝から膝へ移り飛んでいて、思わず、きれい、と漏らすと、となりの少女が、ほんとね、と受けてから、
「こうやって目をつむっていると、菩提樹が見えるよう。どんな樹か知らないけれど」
「これが、菩提樹」
「そうです。そしてこの樹が、聖良さんです」
　その木は立ち枯れるどころではなかった。よく見ると枝先に新芽が無数に吹いて、空の青を背景に木全体がエメラルド色に烟っているのだった。
　ふたりの支えをほどくと、沙良は菩提樹のほうへゆっくりと歩を進めた。幹に手を当てる。両の手を押し当てる。それから頬を当てる。あるいはその懐かしい声が聞かれるかもしれないと念じて、耳を当てる。そして紗良は目を閉じた。
　窪地の花の楽園に、どこからともなくひとつ、またひとつとチョウが舞い込んできて、今やあらゆる紋様の、あらゆる色彩のチョウたちが無数に花と戯れるのを、紗良はこの時知る由もなかった。
「これを、春、と人は言うのでしょうね」
　とクマラ。
　アハメドは紗良と菩提樹を見ながら静かに笑っている。時折鼻先を払う仕草をする。
「いやはや今日はまた、どこもかしこも賑やかなことで。アハメド、今度ばかりは上出来ですよ」
　そう言って、クマラは笑った。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

了