見出し画像

彼女の机、あるいは机の彼女

 夏休みが終わって新学期を迎えた初日の朝学活、席替えが行われ、衣皮丈瑠の引いた札は、窓際のうしろから二番目、夏休み直前まで紀見舞音が座っていた席だった。さっそく席の移動がはじまり、いまのいままで座っていた舞音の温もりを丈瑠は尻の下に感じるようだった。

 当の紀見舞音は、中央の最前列になり、彼の位置からだと彼女のポニーテールの揺れと縁のやけに赤い耳の左が見える。それからうなじのおくれ毛のもわもわ。前を向けば、いやでも彼女が視界に入る。一学期は彼女がうしろで彼が前で、そうはいかなかった。

 昼休みになって机上に弁当を広げようとすると、いつもの連中が丈瑠の傍を通りしな、口早に注文を言って小銭を弁当の横に投げるようにして置いていった。誰かが死角で笑っていた。夏休み前のあの日常は、まだまだ彼を手放さないつもりらしい。席を立つと、数えもしないで小銭を浚ってズボンのポケットに入れる。足りなかったときに備えてリュックから財布を取り出すと、丈瑠は購買部へ足早に向かった。

 六限目ともなると、丈瑠は集中力が続かない。なにとはなしに机の表面に目をやり、手前の縁近くに鉛筆で小さく書かれた化学反応式をいくつか見つけた。女子特有の丸っこい文字で書かたそれを、丈瑠は自身の悪事の名残でも見つけたように慌てて親指の腹で消した。
 化学反応式のあったあたりに、蝋引きされた表面を削ってさらに地のベニヤの深くまでえぐった小指の爪ほどの三角の傷があって、傷のなかが七色に塗られていた。傷をこさえたのが舞音なら、それを深く掘ったのも彼女だろうか。いや、前から穴は開いていたもので、彼女はそのなかを色ペンで綺麗に仕上げただけなのかもしれない。そんな手持ち無沙汰の折々に、彼女は何を考えるのだろう。シャープペンシルの先で恐るおそる穴の内側に触れようとして、教師の険のある声が彼をとらえた。
「さっきから、なにしてる。小中学生じゃあるまいし」
 どこかでまた、耳に障る笑い声が立った。

 放課後帰ろうとする丈瑠を呼び止めて、連中は彼を体育館の裏へ連れて行った。
「今日の罪状は」
 誰かが高らかに言った。続く忍び笑い。丈瑠はうなだれてしおらしくするふうを装いながら、さりげなく眼鏡を外してリュックにしまった。
「ひとつ、澤田は焼そばパンを注文したのに、なぜかスパゲティパンだったこと。ひとつ、机に落書きをして授業を中断させたこと。そして……この世にオマエが図々しくもまだ存在し続けてること!」
 いっせいに哄笑が立って、丈瑠はさながらバスケットボールのように連中の手から手へ投げ出される。丈瑠は目を閉じる。心の鉄扉もぴっちり鎖して。

 新学期初日の「おにぎり」は十五分足らずでしまった。連中にしてみれば、丈瑠に分をわきまえさせるためのちょっとした挨拶だったにちがいない。広げたハンカチで顔を拭い、首を拭い、血の出ていないことを確認する。全身についた土やら葉やらを丹念に払い落とすと、何事もなかったかのように丈瑠は家路についた。

 変わり映えしない学校生活がこうして再開したわけだが、紀見舞音のかつて所有した机と椅子を、いま自分が独占していると思うことは、俄然彼の毎日に張りを与えた。
 数週ののちには、彼は全裸でその席につくという妄想から逃れ難くなった。気を吐く衝動に駆られては、何度となくトイレでする誘惑と戦った。しかし学校でそれをすることは、何か神聖なものを穢すようで、すんでのところで思いとどまった。
「あんた、最近ガールフレンドでもできたの」
 母親が言った。ちょうど同じ頃、連中が罪状のひとつに、「好きな女ができたこと」と叫んだ。猛烈に否定したせいで連中の関心をかえって引く結果となり、その推理がまた敵ながら鮮やかだった。以前なら連中の目を避けて教室から消えることが多かった丈瑠だが、最近は席から離れるところをまず見ない、と。さては、紀見舞音で夜毎マスかいてんな。

 この頃では、教師の目を盗んで机の表面に彫り物するのに丈瑠は密かに没頭していた。コンパスを机のなかに常備しておき、隙あらばその針の先で、例の三角形のかぎ裂きを広げていく。あるとき三角の穴は湖で、自分が彫るのはそこから溢れる川だった。またあるときそれはとある惑星の開拓村で、道を引き、未知の獣を引き入れる。あるいは宇宙から飛来した敵性生物が、いまや触手を伸ばして侵略を開始する。……そうして削られた部分を、色ペンで着色していった。

 その日、それが生徒のほうをいっさい振り返らずひたすら板書するスタイルの現代文の老教師であるのをいいことに、例の彫り物を無心に進めていると、突然教卓のほうから物音が立って、驚いて目を上げると、仰反るようにして倒れる紀見舞音の姿が目に飛び込んだ。あらわになった額の白さに、思わず丈瑠は目を逸らした。教室は騒然となり、責任感の強い男子生徒が何人か廊下へ駆け出し、女子生徒らがたちまち円陣を囲んで舞音を支え、介抱した。

「脳内セックスでもしてんじゃねぇの」
 口さがない人間はどこにでもいる。
「あいつ、マジでイッてるんだって。オマエらも聞いたろ? アイツ、倒れるときさ、すげぇ色っぽい声出してたから」
「ちょっと、アンタたち、サイテー」
「いやいやおかしいでしょ。オマエも絶対聞いてたから。あれ、間違いなくイクときの声でしょ」
「でも、たしかにあれはヤバかったかも。てか、マイネ最近、たしかにおかしかったよ。なんか、急に授業中とかでも深いため息ついて、からだ震わしたりして……」
「ほら、でしょ? だからさ、アイツ、イクイク病とかなんじゃね」

 一般的な法則からすれば、ずば抜けて美人でもなければ勉強もスポーツも十人並みの紀見舞音がイクイク病なんかを疑われるような失態を演じれば、その後はクラスのヒエラルキー下層に甘んじる運命が待ち構えているはずが、何事もなく復帰できたのも、ほかでもない、衣皮丈瑠がクラスに存在するからで。そして丈瑠はこの一件を通して、まるで褒賞のように、大いなる啓示を受けていた。その机が、紀見舞音の肉体と繋がっているという発見。それも、性感帯において。

 それからの丈瑠は、彼女の肉体をほしいままにした。針の先を滑らせる。力を入れて傷をつける。さらに力を込めて突き立てる。引っ掻く。削る。さらに深く彫る。そのたびに反応のあるのがうしろから、手に取るようにわかる。一見すると変わらず凛と背筋を張るようでも、あらゆる先端が、例えばポニーテールの先が、指先が、上履きの踵が、赤い耳の縁が、時折痙攣的に震えるのを丈瑠は見逃さなかった。いつか机の彫り物は、最初のかぎ裂きの三角を髪留めにした、ポニーテールの少女のプロフィールを浮き上がらせていた。

「こいつ、マジ、キッショいんですけど」
 首を後ろから羽交締めされ、丈瑠の両腕は宙を掻いた。連中が机の彫り物を指差してクラスの衆目に晒す。そのいびつな少女の未完成のプロフィールを見て、それでもそれが誰かを想像しない人間はひとりもいなかった。クラスにポニーテールはひとりだけだったのだから。
 ようやくいましめを解かれて、これでようやく放免されると思ったらさにあらず、後頭部をパンとはたかれて、耳元でささやかれる、「それ、舐めろや」。
 悲しくもない、悔しくもない、惨めでもなんでもない、父さんは苦労は買ってでもしろとよく言った、艱難汝を玉にすという言葉が座右の銘だとよく言っていた、でもそんな父さんが自殺するなんて、ちゃんちゃらオカシイよね、遺影の父さんはいつでも素敵に笑っている、楽になったんだね、いっぽうで母さん、もうちっとも笑わないよ、あんなに明るい人だったのにね、僕のこと、父さんに似てるから嫌いだって、こないだはっきり言われたよ。

 心を鎖すより先に後頭部を今度は上から叩きつけられて、鼻先と前歯を机の表にしたたか打って、じき鼻と口から血が垂れた。心を鎖していないから、痛みを感じてしまう。そして痛みは恐怖を倍加する。間に合わない、どうしよう、と恐慌するうち、垂れた血は彫り物の穴や溝や傷を伝って流れ、地の材に染み込んだ。

 丈瑠はそれを舐めた。何度も何度も舐め上げて、顔を上げるたび、紀見舞音のほうをうかがった。クラスの全員が自分を注視している。こちらに背中を向けるのは、紀見舞音ひとりと見える。凛として、じっと何かを耐え忍ぶような背つき。ごめんなさい、ほんとうに、ごめんなさい……と心に叫びながら舌を使い続けるうち、おそらくは丈瑠が彼女の異変を認めた最初の人間だった。その背が、その肩が、激しく震え、わななくかに見えたその刹那、うしろざまにもんどり打つような格好になり、喉元を天に向け、白目を剥きながら、誰の耳にもはっきりと、「……イクぅぅ……」と呻いて全身痙攣させた。同時に椅子から水ようのものが大量に滴って、紀見舞音は失禁→失神した。

 その日のことがトリガーとなって、ぼんやりと固まらないままにしてあった計画を丈瑠は決行するに至る。
 夜、学校に忍び込む。深夜に家を出ること、これは問題にならない。母親は朝からアルコールが入るようになっていて、夜の九時前には酔い潰れ、牛蛙もかくやの鼾をかきながら寝てしまう。学校に忍び込むについては、これも大した問題ではない。人目さえなければ正門だろうと裏門だろうと越えるのは容易だし、物騒なことに非常階段に通じる四階(最上階)の鉄扉の鍵が壊れていて、外側からドアノブ二つに鎖を絡めてダイヤル錠で施錠してあるのだが、その四桁の数字が学校の創業年と同じ1969であるのを知らない生徒はおそらく誰もいない。
 問題は帰路だった。というのも、帰路にある丈瑠は、教室のあの机を両腕に抱えているはずだからである。正門なり裏門なりを越えるときが最初の難所だが、それは登山好きだった父親のザイルを使えば何とかなりそうである。学校と最寄駅のあいだに、どこかそれを隠しておける場所はないかとさんざん検討を重ねて、最善策を見出せぬままきてしまったが、なんのことはない、そのまま駅まで運んで電車に乗り込めばいいだけだと土壇場で思いついた。仮に駅や車内で不審がられても、芝居の小道具に使うとかなんとか、いくらでも言い訳は効きそうである。残る問題は体力だが、いまや彼は死ぬ気でことを運ぶつもりでいるし、学校から駅までの二キロ、家の最寄駅から家までの三キロ、計五キロの道のりなんて、途中休み休み行けば、いつかはクリアできる。艱難汝を玉にす、という父親の座右の銘が反射的に浮かんで、丈瑠は舌打ちする、それにしても、前半の二キロだ、終電に間に合いさえすればいいのだが。

 丈瑠のクラスの教室は二階にあった。建物侵入までは呆気なかった。中階から上に上がる階段の真下が各階ともちょっとしたスペースになっていて、そこに行事等で使用するさいの補充用に椅子と机が積まれてあって、彼はそのうちの一脚を抱え持った。教室から机を運び出しただけでは、目ざとく机の総数が違うと騒ぎ立てる輩がないとも限らなかったから。補填用のそれをいったん廊下に置いて教室の引き戸を開き、件の机を運び出す。廊下の机を運び入れ終わり、前半の行程は滞りなく進んだ。

 彼女の机、あるいは机の彼女を抱えて三階と四階の中階の踊り場にさしかかったとき、頭上に錆びついた金属の軋る音が、校舎全体に反響した。
「誰だ!」
 続けて鋭く威嚇する声。用務員だか警備員だか知らないが、学校内に夜回りのあることを事前に調査しなかった自分はいかにも迂闊だった。踵で高らかに廊下の床を打ち鳴らし、端から一つひとつ教室の引き戸を威勢よく開けては、「八つ裂きにしてやる!」だの「ぶっ殺してやる!」だの、夜回りの剣幕は凄まじく、たださえ非力の丈瑠は怖気づいた。
 やむなく引き返し、そろそろと階段を下りるあいだに両腕に耐え難い痺れがきた。四階の探索をひと通り終えた夜回りは相変わらず大声上げながら内階段をひとつ下まで下って、また端から見えない敵を追い立てていく。踊り場からあと数段で地上階というところで足がもつれ、丈瑠は机もろとも階段を転がり落ちた。

 立ちあがろうとして、膝に激痛が走る。膝が折れたか割れたかしたにちがいないと、これまで経験したことのない激痛から推測する。机はといえば、衝撃で天板が外れ、かなり離れたところに放られて、消火栓の赤い光をほのかに反射していた。

 夜回りの足音が迫りくるなか、彼の頭は目まぐるしく回転した。いまここで捕まれば、退学は免れないだろう。退学だけでは済まないかもしれない。仮に机を置いて逃げおおせたとしても、足がつくのは時間の問題だった。いや、取り繕う方法はいろいろあるはずだ。自分はまだ高校生だ。若いうちはどんな過ちだって許される、とヘタレの父親はよく言ったものだった。ヘタレの父親。人に戦えとけしかけながら、自分は最後まで戦わなかったヘタレの見本。忘れ物を取りにきただけだととぼければ万事済むことではないか。十六、七の考えなしの青二才のすることに、くだくだしい弁解など不要だろう。机のことなんか、わかりませんの一点張りで突破できないはずはない。連中の放課後の「おにぎり」の頻度と激しさは増すだろうが、退学になるよりはマシだ。
 いや、そうだろうか。
 ほんとうにマシだろうか。

 自分でも知らず、天板のほうへ這っていた。
 舞音。
 紀見舞音。
 果たして無事だろうか。
 それにすがりたい、素肌に抱きしめたいという衝動にどうにも抗えなかった。這っていく中途に鉛筆か何かが落ちているのに気がついて拾い上げると、いかにもそれはコンパスだった。机の表面を熱心に掘るのにその針を使ったコンパス。彼は躊躇なくその脚を百八十度開くと、針を前にして構えた。

 夜回りの足音がもうすぐそこまで迫っている。自分はただ、人を好きになっただけなのに。心のなかで叫びながら、丈瑠は目を閉じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?