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月盗人

私がまだ小さかった時分、空想好きの姉がする作り話にだいぶん悩まされたものだった。

姉の口ぶりでは天狗も河童も当たり前のように身近にいることになっていて、何か不審なことが起これば、それはすべて化け物の仕業であると説明した。あるとき物を失くしたり忘れ物をしたりが絶えない私を親が激しく叱責したあとで、追い討ちをかけるようにして姉は耳打ちした、あんたは隠し神に好かれているんだよ。隠し神というのは子取りとも油取りともいい、人の子を盗んでは油を搾ってそれを売り歩くという。油を搾られた子どもはどうなるのと私は聞いて、姉は薄ら笑いを浮かべるばかりでなにも答えなかった。

当時の家は丘の中腹にあって、丘の頂に社があった。なにを祀っていたかはいまとなっては定かでないが、そこに年明け早々浮浪者が居着くようになって、ボサボサ頭の悪臭放つ男の姿を見かけては大人たちは眉を顰め、子どもらにはけしてあれに近づくなと厳命した。しかしこの世に徒党を組んだ悪童ほど残酷なものはなく、さっそく子どもらは浮浪者を追い回して口汚く罵り、礫を投げ、とうとう境内の男のねぐらに火がつけられたとも聞かれたが、火つけの真相は定かでない。ボヤ騒ぎに真夜中けたたましく半鐘が鳴らされて叩き起こされたなどついぞなかったはずだから。ただ浮浪者は方々で梅の花がほころんでも社に居座って、姉の話に怖がらされて寝つけなくなった夜に、ふと寒空の下の男を思いやって私は泣きたいような気持ちになるのだった。男はなにを食べて生きているのだろうとまずは思った。

「男は月を食べている」と教えたのも姉だった。姉がいうにはあの浮浪者は夜な夜な月を食らうらしく、それで空腹を満たしているのだと。働かぬものでもこの世で食べて生きていけるよう神様が夜空に浮かしたのがほかならぬ月という計らいで、あれが欠けてゆくのは化け物どもが食らうからだが、ひょっとするとあの男もモノノケかもな、と姉はいった。そして、折しも今夜は十五夜だから、あれの月を食らうところをとっちめてやろうよと幼い私を誘うのだった。

それで私は生まれて初めて親の目を盗んで家出をした。それも真夜中に。姉に手を引かれて社へ通ずる長い長い石段を登ったのだった。丘の中腹にフジツボのように取りついた家々はすっかり灯を落として寝静まり、鈍重な獣らのうずくまるように私には思われた。怖かった。怖かったがわくわくもしていた。なぜといって、月を食らう浮浪者とは、幼い私にもいかにも詩のようだったから。丘の真上にまんまるの月がかかり、クスノキの大木が作る影のなかで石の鳥居がぼーっと白く浮いて見えていた。振り向いてはいけないと姉は再三いったが、いわれなくとも私が金輪際それをしないと決めていたのはおそらくそれをすれば急坂の石段の目眩むような高さからだと向こうに夜の海が薄い盆のように覗いて、漁火に星明かり、波間には月の明かりが散りぢりに浮いて、見惚れる間に海に魂を抜き取られると、これまたとうから聞かされていた姉の作り話を信じていたからである。

鳥居の真下に来ると、姉は私を前に立たせた。そうして恐るおそる進ませた。境内の隅に遊具が置かれてあって、遊動円木もあれば滑り台もある、ブランコもあればジャングルジムもあるが、地元の子らはまずここでは遊ばなかったので私には馴染みの光景とはいえなかった。これは姉の作り話ではなく、この遊具で遊ぶのは丘の森の異形のものらか子どもの幽霊と決まっているとこれは地元の子らには当たり前のような話で、誰もいないはずなのに笑い声がしたとか遊具が勝手に揺れていたとか、そんな話は五万とあった。月明かりに照らされた遊具は、青く濡れているようにしてそこにあった。私はすぐに異変に気づいて逆手に姉の着物の合わせ目を手繰った。あるいはもう後ろのこれも姉ではなく異形のものかもしれないとふと思って振り返るに振り返れないのだったがそれは杞憂だった。姉が耳元で囁いた。
「見てみ。ジャングルジムの上に、あの男がいるよ」
しかし私の気づいた異変は男がジャングルジムの上にいることではなくて目の前の絵のバランスがどうもおかしいのだ、なぜおかしいかはすぐにわかって、月がやけに大きくて近くにあるように見えるからだった。
「あんなに月って大きいの」
「大きいも大きいよ。食べ頃なんだから」
と姉。浮浪者の口元から煙が立って、どうせシケモクだろう煙草を男はうまそうに燻らせるのだった。月見しながら煙草を飲むとは風流なようでこの寒空である。かわいそうにと私は思わず呟いたのだったがその刹那、男は頭上の月に向かってふーっと煙を吹きかけると、それはたちまち黒雲になって棚引いて、月明かりをすっかり隠してあたりはたちまち暗闇に覆われた。すると男は雲の向こうへ手を伸ばし、私も姉も見逃さなかった、満月をつかんで素早く引き寄せるとぺろりと下の端を舐め取ったのである! やがて黒雲の棚引きは風に押し流されて何事もなかったかのように月はまた夜の世に君臨して、男もまた何食わぬ顔して煙草を燻らせた。姉も私も月がわずかに欠けているのを認めた。やった! そう心に快哉を叫んだのも束の間、背中に押しつけられた姉の太腿はにわかに震え出し、行こう、もう行こう、はよ、はよ、と私をせっついた。出来得ることなら私もまた満月を舐め取ってみたかったのだが、そう誘惑されていること自体、半ば私が魔に絡め取られていた証左だったのかもしれない。

翌朝、姉は高熱を出した。そうしてその熱が元で狂人となり、以来脳病院に収容された。両親の亡き後は、姉のたった一人の身寄りとして私は月に一度、満月の夜を選んで病室の姉を訪った。姉は不思議と満月の夜にだけ正気を取り戻したからである。

あるとき、姉は自分は近々子を産むだろうと予言した。そうしてなんの兆候もないまま突然子を産んで、まもなく姉は他界した。いうまでもなく、それは満月の夜だった。その子は月子と命名された。

月子はいま、我が家の次女として育てられている。月子はとてもおとなしい赤子で、泣いたりむずがったりなどしない。乳も欲さない。私は月の晩に月子をマンションの屋上へ連れていく。夜空の下で高い高いをすると、月子はことのほか喜ぶのである。そうしてぷっくりと膨れて蓮根のような節を作る両腕を天に伸ばすと、中天にかかる月をつかんで、それを引き寄せてはぺろぺろとやった。

月はどんな味がするのかあるとき月子に聞いてみたことがある。いわく、かすかに甘いそうである。

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