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124ピアノレッスンとCanonとの旅


こんにちは、CHIKAです。

昨日の満月を過ぎて、春分の日までもうすぐですね。2021年になったとはいえ、やっぱり始まるのは春分の日、という感覚が私の中にはあります。それで、もう一つ、今年の春分の日までに卒業というか、自分の中で区切りをつけられたら、と思っているのが、今習っているピアノの課題曲パッへルベル(Pachelbel)の「Canon」です。

これは、【大人のピアノレッスン】をしてくださる横山仁子先生のご縁で、始まりました。令和になった直後、2019年6月から始めた新たなる挑戦ともいえるものです。と、いうことはかれこれ1年8ヶ月と、続けているではないですか!と今改めてカウントしてみて驚いていますw


始めた当初は、仕事もあるし、月に1、2回できたらというくらいの感覚でした。しかも小学生以来のピアノw もはやできるのか?という不安も抱えながらのスタートでした。音を鳴らす、という事も新鮮。そして改めてピアノの音が好きな私がいました。

「なんでピアノやめたんだっけ?」と回想してみると、一言で言えば「楽しくなかった」からだったと思います。でもそれはなぜ楽しくなかったのか?と改めて考えてみると、音と戯れる時間よりも、「こなしてく」というプロセスが多くて、喜びがわからないまま、やっていたように思います。小学校の合奏では、たまにピアノを担当したこともそういえばありましたが(確か、「大草原の小さな家」)ただのプレッシャーでしかなかったし、得意だから、というよりも他にやりたい楽器がなかったから、といった選択だった記憶があります。(すいません)

そんなわけで小6あたりで私はピアノから逃走するわけですがw 何の悔いもありませんでした。どちらかといえばバレーボールにハマって、真剣に打ち込んでいく時期です。あれから何十年・・・実家にあったピアノも誰も弾かなくなり、数年前に売ってしまった後、、なぜなのでしょうw 私はピアノを始めるわけです。

理由の一つは、ピアノに未練があったから、ではなくて、老後の趣味に良いな、と思った事でした。未来的な感覚。そして老後をやたら意識していた時期でして、年齢をもっと重ねてからやるよりも今から準備しておこう、みたいな気持ち。ピアノやった事あるし。という気軽な思いw 「でももうピアノないけど?」と思いましたが、それも解決できる方法を仁子先生が開いてくださったおかげで、やってみよう、となったわけです。


でも何より一番の理由は、仁子先生だったから。とも言えます。7、8年のお付き合いがあった中で、とても深くディスカッションをさせていただいたり、感覚の共有をさせていただいてきたりした中で、これまでのいわゆる「ピアノレッスン」ではなく、もっと壮大でクリエイティブな時間を体験できるのではないか?というワクワク感が生まれたわけです。ピアノという存在を通して体験できる「本当に体験したいもの」をこのピアノレッスンで体験できるのではないか?と。

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私の魂は、そういった経験を心から求めていたし、それは言語化するには難しい感覚ではあったけれど、それを仁子先生にはわかってもらえる、そう感じたのです。そしてそれは、ピアノという存在があってこそ、より自由になるように思えたのでした。

そして本格的にピアノと向き合え始めたのは2020年の5月あたりからでしょうか。はい、コロナの存在が大きくなってきたこの頃です。外に出れない中で、「オンライン」という現代ならではの方法でピアノを続ける事ができたわけなのですが、オンラインのおかげで、時間も場所も自由が出てきて、毎週レッスンをすることができるようになったわけです。

その頃から本格的にスタートした、今課題曲としているCanonなわけなのですが、自宅には電子ピアノしかない中でも、大切な学びとか気づきを、仁子先生がアレクサンダー・テクニークという理論と一緒に教えていただき、音・身体・イメージの力、基礎的な楽譜との向き合い方などを学びながら、一緒に体験させていただいてきました。

一番大きく変化した事は、【ピアノと仲良くなった事】だと思います。今まで仲良くなかったんだと気づきましたw どのように仲良くなったかというと、ピアノに触れる時間を優先的に作って、少しでも馴染もうとしました。結局大人になると、変な話、別にピアノの時間を優先しなくても生きていけるわけですし、意外と他にもやることがあって忙しいとかなんとかあるわけです。でもそれでも、とにかく毎日、家にいるのであれば、「触れる」という事をしてみよう、と。ピアノに向き合ってみよう、と思ったのです。


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凄いな、不思議だな、と思ったのは、それをやっていくうちに、ピアノの音が変化してきたような感覚があった事、そして自分の指と鍵盤との間に違和感が消えていく事。特別うまくなったとか、覚えられるようになった、というところ以上に、確かに身体の中に生まれている「信頼感」が在った事。これ凄いなと。


そして去年の年末前くらいでしたでしょうか。Canonを最後までちゃんと弾けるようになった、という実感を得られるようになり、やっとここまできた!という感覚は、ここまでの時間とかプロセスとかよりも、「ついに逢えたね!!」という嬉しさ。このCanonという曲全体を最後まで感じ切りたかったという「楽譜という手紙」への思い。

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そしてこの体験は一人じゃ無理だなとも、思いました。楽譜の中のメッセージとか、自分が弾いているだけでは気づかない大切なシーンであったり、成り立ちであったり、音の変化であったり。これは本当、このめちゃくちゃ初心者の私相手でも、真摯に向き合って、一つ一つのプロセスと感じる力を大切に育んでくださった仁子先生のおかげでしかないな、と。導いてくれる存在って、凄いな、と。しかも私の個性とかペースに合わせて、忍耐強く、見守っていてくれるような在り方。先生ってだから存在してくれているんだな、とも感じられた体験でもありました。

ある程度大人になると、自分で決めて、自分で頑張って開拓していくのが、特に自分で仕事をしているとあって。誰かのアドバイスとか、何かを聞くのが正直あまり得意ではない私なので、特に学ぶ事や人生にとって大事な核となる部分に関しては、本当に相性とか人を選んでしまうのですが、これは本当に幸運な出会いでもあり、ありがたい導きを与えてもらえたなぁとしみじみ思ったのです。


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そんなわけで春分の日をもうすぐ迎えるこの頃。最終段階です。最後まで弾けたからいい、といった存在じゃないのがこのCanonさん。もっと一緒に鐘を鳴らすように体験したい、うっとり一体感を感じたい、という欲があって、そのためにはただ弾けるだけじゃ辿り着けないのです。そんな思いで、改めて苦手だった楽譜、指の番号とむきあっている私です。そして今日気づいたヒントは、124。これかー!これだー!と勝手に盛り上がっています。ここ乗り越えられたら、「また違う景色が見えるかも。」と心躍らせて、新しい春を迎えたいと思います。


改めて、ここまで導いてくださった横山仁子先生へ、感謝を込めて。そして引き続き、どうぞよろしくお願い致します!




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