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「理解できない」から創る未来

 「理解できない」と、他者から突きつけられるのが怖い。翻って、僕から他者に「理解できない」と銃口を向けてしまうのも怖い。

 トランスジェンダーである僕にとって、相手の理解を得られるかどうかは死活問題だ。それが肥大化して「自分が理解されたいなら、相手への理解も示さなければならない」という道徳心のようなプレッシャーのような、そういう気持ちが根底にずっとある。

 でもこの日、僕は見ず知らずの中学生が発した「理解できない」の一言で救われた。凶器同然だと思っていた言葉に救われることもあるのだと、人生23年目で初めて知った。



 今年の春、中学校時代の恩師から電話があった。男子は学ラン、女子はセーラー服と規定されている制服の改革を達成した、という知らせだった。この変更のために彼がどれだけ苦労していたか知っていたから、ものすごく嬉しくてnoteに書いたこともある。

 この電話の終わり際、先生が言った。

「実は、俺の授業に協力してほしいんだけど」

 制服の変更の背景には、トランスジェンダーの生徒に対する配慮という側面もある。これを機に性の多様性教育、ひいては人権教育にもっと力を入れたい、だからうちの生徒の前で喋ってくれないか。そういう打診だった。

 僕は僕でこの先生に恩がありすぎて「恩恩恩師」くらいに思っているから、内容がハラスメントでない限り、彼からの頼みにはハイかYesか喜んで、の3択で応じることにしている。今回の返事は当然「喜んで!」。

 というわけで、先生と共にチームティーチングを敢行することになった。文字通りTeamでTeachingする、教員2人体制の授業だ。本番5日前に「俺、サブでいいよな? めでたく教員免許も取ったわけだし、授業はお前1人で回せるよな?」なんてハラスメント紛いの無茶ぶりを受けた。毎日「緊張する」「どうかこの話は無かったことに……」「実習でもないのに、TTで素人がT1(主教員)なわけあるか!」と彼の耳にタコを量産してみたところで、受け流されるし時間は経つし、本番の日はしれっと来る。



 僕が用意したのは、実体験を基にしたワークショップだ。トランスジェンダーの学生が教育実習先に提出した配慮申請書と、それを受け取った学校から届く受け入れ拒否のメールから、何がおかしいか、どこが差別的か、トランスジェンダーが抱える「障害」とは何か、グループで検討してもらうというもの。もちろん文面はどれも架空だ。先生と僕が作ったもので、当時の再現でもない。けれどそれなりに当時を彷彿させることに変わりはなくて、僕は何を言われるかハラハラしていたし、自分が穏やかな顔で教壇に立っていられるかヒヤヒヤしてもいた。

 冒頭で申請書とメールを生徒たちに配り、意見を交わしながら自由に書き込みをしてもらう。この時点で、誰一人として「そりゃ拒否されても仕方ないよねぇ?」という空気すら出さなかった。僕は内心、それだけで感動していた。これは差別だと十二分に知っていながら、学校側を擁護する余地もあると思っていたからだ。だって実際、僕がこの拒否連絡を受けた時には「学校には学校の事情があるし、そもそも僕がフツーじゃないせいだし、断られてもしょうがないよな」と飲み込めてしまったんだもの。

 数十分のグループワークの後、書き込みの内容を全体で共有した。引っかかったところには赤線を引いたり、コメントを書くようにお願いしていたその紙は、どれも直線とコメントで真っ赤だった。

 「受け入れの前例がない」に赤線。
 「あなただけ特別扱いはできない」に赤線。
 「学校として必要な知識が何なのか分からない」に赤線。
 「児童・保護者への説明や、そこで反対された時の対応に困る」に赤線。

 何よりも目を奪われたのが、メールの締めとして書き添えた挨拶文に対するこの書き込み。

すみませんが、ご理解いただきますようよろしくお願いいたします。
↑ たぶん誰が読んでも理解できない

 IPPO~~~~~~N!!!!

 あまりにも大喜利力の高い不意打ちを食らって、教壇で声を上げて笑ってしまった。その想定解、僕が出したかった。悔しい。

 僕の様子を見て、先生が駆け寄ってきた。僕の手元を覗き込み、やっぱり声を上げて笑った。思わぬ方向から核心を突かれると、人間は笑ってしまうのかもしれない。

 この切り返しを生んだ張本人に、この書き込みの意図を聞くことができた。僕からの指名に驚いたその子はとても緊張した声で途切れ途切れに、でもはっきりとこう言ってくれた。

「その学生を理解する気がなかったのは学校なのに、学生にはどうにもできない理由を並べて、自分たちの理解のなさを学生側に理解してほしがるのはおかしい。この一文こそ理解できない」

 生徒たちから自然と拍手が起きる。胸が熱かった。

 授業後に寄せられた感想には、ぎっしりと「トランスジェンダーであることを理由に差別されるのは、偏見にさらされるのは、安心して生きられないのはおかしい」と書かれていた。「トランスジェンダーだって、私たちと何も変わらない、この社会に生きる人の1人だ」とも。

 嬉しくて何度も読み返した。それを眺める先生も、目を細めて「あいつら、いつもと全然違った。ちゃんと本気だったよ」と言った。ついさっき初めて会っただけの僕が対峙した、もう過ぎ去った差別に対してでも、彼らはおかしいことはおかしいと怒ってくれたのだ。



 「自分が理解されたいなら、相手への理解も示さなければならない」というこの感覚は、必ずしも間違っているわけではないだろう。実際、何らかの環境下で「あなたのことは理解しないけど、あなたは私を理解してよ」なんて言ってしまうのは、ある種の暴力だと思うから。

 けれど、激しさを増す言葉を冗談めかしながらも怒りを隠さず話し合う生徒たちの姿には、僕に「あんなの全然しょうがなくないし、理解しようと頑張る必要なかった」と思わせるパワーがあった。マイノリティのために一斉に立ち上がるマジョリティの姿ほど心強いものを、僕は他に見たことがない。本当に嬉しかった。まだこの世界で生きていけると思えた。今これだけの過渡期に入れたのだから、大人になった彼らが社会に加わってくれれば、状況はさらに好転するはずだ。未来は明るい、きっと。

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