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「やりたいと思ってること」に限って、なぜか、ずーっと先送りしてしまいませんか?

フォレスト出版編集部の寺崎です。

今日のテーマはふたたび「幸せ」です。

「人間の幸せとは何か」を考えるとき、じつは人間のこころには「幸せを拒むメカニズム」があるという話を過去のnote記事で書きました。


そういえば、YouTubeで「幸せ」を検索したら、どんな動画が人気なんだろうと思って調べてみることに。すると、616万回以上再生されているこのCM動画をみつけました。


「君の行く道が幸せであることを、僕はずっと願っています」

これ、人気動画になる理由がわかりました。最近、年齢のせいか妙に涙もろいのですが、最初の10秒ぐらいでウルウル、最後には本泣きしてしまいました笑

いやー、たった60秒で人をこんなに感動させる表現って、すごい。

ちなみに私はこの玉置浩二の「しあわせのランプ」という歌がだいすきです。酔っぱらうと決まってギターでこの歌を弾き語りしてしまいます。

※この動画がベストテイクだと思う!

そうです。そうなんです。

人は幸せになるために生まれてきたんです。
しかし、それを自分の心が無意識に拒む。

なぜか。

それでは、『幸せを拒む病』(笠原敏雄・著)の続きをみていきましょう。

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「自分がしたいこと」を実現するのは、
とてつもなく難しい

 では、ただ考えるのではなく、自分が本当にしたいと思っていることを実行しようとする場合はどうなのでしょうか。
 たとえば、いつか時間を見つけて、〝自分史〟を書きたいと思っている人がいるとします。平日は時間がないので、休日に書こうとするのですが、いざ休日になると、朝から体が重かったりして、起き上がることができません。あるいは、またいつのまにか眠り込んでしまい、気がつくと夕方になっています。ところが、休日に別の用事がある時には、そのために外出したり、てきぱき片づけたりすることが難なくでき、疲れることもなければ、反応が出ることもないのです。
 仮に早く起きることができたとしても、何かの理由をつけて、その課題にとり組むのを先延ばししてしまったり、どうでもよい別の用事を思いつき、それに熱中してしまったりして、課題に着手するところにまでどうしてもたどりつきません。人によっては、平日には自分史を書こうと思っていることを覚えているのに、休日になるとすっかり忘れてしまいます。意識が、何ものかに完璧にコントロールされているかのようです。
 このようにして、いつのまにか時間が過ぎていきます。そして、定年後には毎日が休日になるわけですが、それでもできません。むしろ、時間がある分だけ、かえって難しくなってしまうのです。
 課題の実行は、このように締切りがあってすら難しいのです。そのため、締切りがないと格段に難しくなります。しかし、考えてみれば、これほど奇妙なことはありません。他人から見ると、いくらでも時間があるのに、しかも自分でやりたいと思っていることなのに、どうしてそれができないのかと、ふしぎな感じを受けるでしょう。ところが、本人からすれば、それが絶望的にできないのです。
 以上のことからわかるように、人間にとっていちばん難しいのは、次の3条件がそろった時です。

① 自分が本当にしたいことを
② それに充てられる時間が十分ある時に
③ 自発的にすること

「自分が本当にしたいこと」とは、もちろん、自分を楽しませる程度の趣味的なことではありません。小さなことであっても、自分を真に喜ばせ、自分の進歩につながる行動のことです(この楽しみと喜びの違いについては、後ほど説明します)。
 それにしても、この3条件なら、一見するといちばん簡単そうです。自分がしたいことを、時間の余裕がある時に、自分から進んでするだけのことですから、難しいはずはありません。
 ところが、実際には、人間の行動の中で、おそらくこれが最も難しいのです。
 このことから、人間は、自分が向かいたい方向や自発性ということに対して、非常に強い抵抗を働かせるらしいことが推測できるでしょう。
 この3条件がそろった時にいちばん抵抗が強くなることは、誰であれ、実際に試してみればすぐにわかります。場合によっては、先ほどの作家のように、それを考えただけでも、心と体が、強い力を発揮してじゃまするのです。頭痛や吐き気が起こったり、何を考えたのかを一瞬のうちに忘れてしまったりするわけです。そのようにして、せっかくのその時間をむだにしたり、楽しみに充ててしまったりすることになるわけです。これを、キリスト教などでは、悪魔(サタン)の誘惑に負けたと表現するようです。
 ところで、「世をすね、人をすね」といわれるタイプの人もいます。このような人たちは、おいしいものを食べたり、旅行に行ったり、ゲームをしたりという、世間一般の楽しみに対してすら抵抗をもっていて、そのような行動に際して、反応を起こすこともあります。
 旅行に行こうとすると、楽しみにしていたのに、いつも喘息発作を起こしたり、発熱したりする人たちがいるのは、ひとつには、そのような理由のためでしょう。この人たちの場合、自分が本当にしたいことに対する抵抗は、さらに強くなります。
 そのような抵抗の結果、まず、肝心な仕事がはかどりません。特に専門職の場合は、それに加えて、自分のしている仕事が、本当は自分には向いていないのではないかなどと深刻に悩むことにもなりますし、いわゆる自己実現の機会を自分から捨て去ることにもなります。これでは、人生のむだ遣いになりかねません。しかも、このような抵抗は、悪いことに、前向きに生きようとすればするほど強くなるものなのです。
―――――――――――――――ここまで引用

「やろう、やろう」「やりたい」と思っていて、ずーーっと先延ばしにしていること。みなさんにもあるのではないでしょうか。少なくとも、自分には心当たりがあります・・・。

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専門家はこのような現象をどう見るか

 ところが、これもふしぎなことなのですが、一般の人たちはもとより、専門家も、これらの問題行動を重大事とはとらえていないのです。それは、ある意味でしかたがないことなのかもしれません。専門家は、それを症状として訴えるクライアントが眼の前に現われない限りわかりませんし、そのようなクライアントが来たとしても、それが異常と診断されない限り、治療の対象にすることはないからです。
 とはいえ、昨今では、アメリカ精神医学協会が策定した診断基準(DSM)が、なぜか世界中で採用されているため、ADHD(注意欠陥多動性障害)や人格障害といった診断名が使われるようになっています。そのため、その状態を自ら問題視して治療施設を訪れる人たちもいるようです。では、たとえば遅刻の常習者が、その治療を求めて病院やクリニックを受診したとすると、どういうことになるのでしょうか。
 精神科や心療内科では、薬物治療以外に実効性のある治療法はないとされています。最近では、世間の要請もあって、カウンセリングや心理療法の専門家を置いているところも少なくありませんが、それは薬物療法の補助的なものと位置づけられているようなのです。
 つまり、遅刻の常習者をADHDと診断したとしても、現在のところは第一に向精神薬によって治療することになるわけです。しかし、薬物治療で遅刻が治せると考える専門家は、さすがにいないでしょう。
 では、カウンセリングや心理療法はどうなのでしょうか。その場合でも、実効性のある治療法は現実にはほとんど存在しません。甘えているとか、意志が弱いとか、現実逃避しているとかの判断のもとに、それらしき対応をするのが関の山でしょう。
 たとえば、「怠け癖」は自分で治すものだと言って片づけようとする治療者がいるとします。では、その治療者自身は、それができているのでしょうか。精神科医や心療内科医も、カウンセラーや心理療法家も、日常生活では世間一般の人たちと同じ問題を同じように抱えています。
 治療者は、その問題を自力で解決できない限り、そのような発言や対応をすべきではありません。いやしくも専門家を自任するのであれば、治療を求めて来た人たちが抱える問題と真剣に向き合い、あくまで謙虚な態度で、その解決に向けた努力を続けるべきなのではないでしょうか。
―――――――――――――――ここまで引用

うーん・・・困りました。専門家に頼っても、問題解決にはならないそうです。どうしたらいいのでしょうか。

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世に蔓延する「幸福を怖がる症候群」

 最近は、ブログやフェイスブックなどのサービスを通じて、これまで個々の人たちが別々に悩んでいた事柄のいくつかが、実は多くの人たちに共通した問題であることがわかるようになりました。かつて雑誌に取りあげられて有名になった、〝青木まりこ現象〟という俗称で表現される「書店に入ると便意を催す」という現象もそのひとつです。
 そのほかにも、SNSを通じていろいろな現象が知られてきています。たとえば、ほしいものを買ってはいけないとか、自分の好きなものをはっきり言うことは、あるいは自分が食べたいと思っているものを食べることはよくないとか、自分が幸福になる資格はないなどと思っている人たちは、けっして少なくありません。このような人たちは自分が幸福な状態になることを、あからさまに嫌っているということです。
 そのような現象をとらえて、「幼少期のトラウマの結果だ」と断定する専門家もいます。ところが実際には、そのことが証明されているわけではないので、そのように断定することは、そもそも科学的な態度ではありません。また、そうした〝診断〟を下したとしても、単なる推断に過ぎず、何の解決にもなりません。
 ところで、うつ病の場合には、本来は幸福を感じるはずの状況に置かれている時に起こりやすいことが、昔から知られていました。
 そのため、うつ病や同系の疾患では、発病状況が診断名に付属しているものがいくつかあります。引っ越しうつ病、昇進うつ病、マリッジ・ブルー、マタニティー・ブルーなどです。引っ越しうつ病は、実際には単なる引っ越しではなく、新築した自宅に入居する時に起こりやすいので、本来は新築うつ病とでも言うべきなのでしょう。
 こうみると、いずれも幸福なはずの状態で発症しているらしいことがわかるでしょう。ところが、当人は、もっともらしい理屈をつけて、それが自分にとってストレスであるかのように思い込んでしまうのです。
 まことに情けないことに、専門家もそれにならいます。たとえば、結婚に関連して起こるマリッジ・ブルーの場合、そのほとんどは女性なのですが、「人生で重大な局面を決定してしまった自分への不安」や「来たるべき不自由な生活への不安」といったストレスがその原因だと主張する専門家もいます。こうした推測が正しければ、恋愛結婚よりも、あまり知らない相手と結婚する見合い結婚のほうが、マリッジ・ブルーに陥る可能性が高そうです。ところが実際には、恋愛結婚の場合のほうがはるかに発症しやすいのです。
 あるいは、内縁関係のふたりが、妻の要望に従って婚姻届を出したとたんに、妻が心身症を発症してしまった例もありますし、逆に、結婚して子どもがいる夫婦が、そのままではふたりとも心身症状が続くため、意を決して、生活はそのままで離婚届だけを出したところ、それまでの症状が治まったという話もあります(ある作家夫婦が、その顚末を自著に書いています)。
 洋服にしても電子機器にしても、自分がほしいと思っていたものをようやく購入しても、しまい込んでしまって使わなかったり、何かの理由をつけて、リサイクル・ショップに出してしまったりする人たちもいます。
 実際に、200万円で買った高級な着物を、はっきりした理由もないのに、まもなく2万円で売り払ったという女性から、直接に話を聞いたこともあります。また、信じがたいことではありますが、ようやく買った高額の洋服なのに、一度も袖そでを通さないまま、破って捨ててしまったという人もいます。
 このように、さまざまなパターンはありますが、自分にとって喜びとなるはずの状況を、どこまで意識的かはともかく、極度に避けようとする人は、かなりの数にのぼるでしょう。
 口では、「幸せになりたい」と言う人が圧倒的に多いはずなのに、実際にはそれとは正反対の行動をとってしまうのです。これは、いったいどういうことなのでしょうか。
―――――――――――――――ここまで引用

いったいどういうことなのか、こっちが聞きたいです!

といいつつ・・・本書を企画して世に出した担当編集である自分にはその答えはわかっているわけですが、どうやら「幸せ」を阻害する要因として考えられる感情があるそうです。

それは何か。

「楽しいこと」です。つまり「快感」「快楽」といったもの。

「ぜんぜんわからん。どういうこと?」

そうですよね。ちょっと長くなってきたので、次回さらに深堀りして「幸せを拒む我々のこころ」を明らかにしていきます。

では。


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