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「本なんてなくても生きていける」が、それでいいのか?

新型コロナウイルスの影響で自粛を余儀され、「休業要請と補償はセット」という議論が溢れたなか、演劇界をはじめとしたエンタテイメント関連にかかわる人たちからも補償を求める声が広がりました。
演出家の宮本亜門さんは「先進国の中で、これほど文化・芸術にお金を出さないところはないと思っていました」とエンタメ業界への支援不足を指摘しています。
すると、一部からは「そもそも演劇なんてなくても生きていける」「国にたかるな」「あんたらは特権階級か?」「自分たちの業界だけ特別って感じがして共感できない」などという批判がネットの掲示板に溢れ、一部炎上しました。


この言葉だけ見ると、個人的には非常にさみしい思いもあるのですが、たしかに明日食べるものにさえ困っている人が「そんなところに金を回すな。こっちによこせ」と主張するのは当然だと思います。また、発言者が経済的に逼迫していない場合であっても、それは1つの意見として受け入れなければならないのかもしれません。なぜなら、かれらは本当に困窮者の存在を思いやったからこそ、そうした発言をした可能性を否定できないからです。
ただし、お客さんが来てくれなければ成り立たないエンタメ業界で働いている人たちもまた、「明日食べるものにさえ困っている人」になりかねない、そして自分と同様に日本に住み、税金を納めてきた人なのだ、という想像力だけは忘れたくないものです。


さて、出版社に勤めている者としては、「演劇なんてなくても生きていける」と思っている人が多いということは、「本がなくても生きていける」と考えている人もきっと多いのだろうなと感じ、居心地の悪さを感じます。たしかに「不急」かもしれませんが、「不要」ではないだろ……、と。

「いやいや、漫画を読んで生きる勇気をもらってます」「ビジネス書を読んで稼ぐヒントをいただけたので感謝してます」などの温かい言葉もあるかもしれません。

ただ、よく人文系の作家が「漫画が売れているおかげで、私が書くようなたいして売れないテーマの本が出せる」と自嘲するように、「そんなもん読んでも意味あんのか?」と「不急」ではない状況下においても、「不要」などと揶揄されるジャンルがあります。
その筆頭が「哲学」や「思想」などのジャンルです。
しかし、これらは本当に「不要」なのか。その答えのヒントを得るために、『世界の思想書50冊から身近な疑問を解決する方法を探してみた』(北畑淳也)の「まえがき」の中から、一部抜粋して紹介いたします(note掲載用に、一部抜粋、改編しています)。


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哲学書や思想書を読んでも意味はないのか?


 哲学書と思想書、いずれにしても読む人は限られます。多くの人が、そんなものを読んだところで、「役に立たない」「意味がない」と考えているからではないでしょうか。
 さて、ここで考えていただきたいのは、この「役に立たない」や「意味がない」という言葉が、どのような観点で述べられているのかということです。おそらくは、「金が儲かるかどうか」という功利主義のカテゴリーにおいてではないかと思います。確かに、功利主義に依拠した物事の価値判断は、多くの人のコンセンサスを得られる見解でしょうし、非常に深く浸透しています。
 しかし、「役に立たない」ものや「目的がない」ものにこそ、我々の人生に「意味」を与えてくれる可能性があることに気づく必要があります。
 小説やアニメ、映画といったエンタテインメントを見ることも、歴史を学ぶことも、絵画に触れることも、歌舞伎や浄瑠璃、能といった伝統芸能に触れることも、一般人にとっては何の役にも立たない、金にならない無駄なものか、考えてみてください。そうではないでしょう。「意味」はあります。
 もちろん、個人レベルで考えれば、それぞれの分野を深く追究することで、職業として成り立つレベルの専門家になり、稼ぐことができる人もいるでしょう。また最近では、ビジネスパーソン向けに歴史や芸術について解説する本もあります。社会的なアッパー層や海外の取引先の要人との雑談で、そうした知識を利用できるといったメリットが記されたりしています。
 ただし、繰り返しの問いかけになりますが、そうしたメリットさえも度外視した行動は意味がないのでしょうか。「明日の仕事で活きる」とか「起業するために役立てよう」とかだけを考えることが、「正しい生き方」ではないと私は考えます。むしろ、「役に立つ」「稼ぐため」という思考自体が、非常に貧困ではないか、とも感じるのです。

役に立たないものを学ぶ贅沢


 ソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』という名著があります。有閑階級とは「閑が有る」と読んで字のごとく、かつてヨーロッパで生活のために働く必要がない階級を意味しました。
 試しに英米文学のいくつかを手に取ってみてください。「お前らいつ働いてんの?」と突っ込みたくなるほど、かれらは働きません。なぜなら、「働いたら負け」だからです。
 かれらにとっては、働くことは「多くの財を所有していない」ことを示す行為であり、それは自らの名誉を傷つけるものとされたのです。そして、「どれほど多くの財を所有しているのか」という基準を超えて、いかに無駄なことに大金を投入して自分の名声を高められるかという争いが生まれたそうです。つまり、彼らにとっては、「役立つ」とか「稼ぐ」といった価値観は貧困の象徴なのです。
 しかし、そうした価値観は、有閑階級だけの特権ではありません。むしろ、一般人だからこそ、無駄なことにお金だけではなく時間を使うというのは、有閑階級以上に、とんでもなく贅沢な試みとなるのです。
 それでもなお、即物的な何かが得られることを期待している人にとっては、贅沢だからといって得られるものがなければ意味がないと思うでしょう。しかし、私はそうした役に立たない贅沢な行為――哲学書や思想書を読むことこそ、何らかの形で人生を豊かにしてくれると考えています。
 非常に教条的かつ抽象的に感じるかもしれません。しかし、「哲学や思想の知識を得られれば、知的マウンティングで有利に立てる」といったメリットを語るのは、「教養」を矮小化した、あまりにもセコくて貧困な発想だと思うのです。
 長くなってしまいましたが、ここでお伝えしたいのは、哲学書や思想書を役に立つ(稼げる)とか立たない(稼げない)という判断基準で考えるのは、非常にもったいないということです。

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職業柄、発想だけは貧困にしたくないものです。

以上、フォレスト出版の石黒でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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