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【フォレスト出版チャンネル#118】ゲスト/編集者|フリーすぎる編集者Tさんの破天荒半生(前編)

このnoteは2021年4月28日配信のVoicyの音源「フォレスト出版チャンネル|知恵の木を植えるラジオ」の内容をもとに作成したものです。

ローリングストーンな半生を告白する

今井:フォレスト出版チャンネルのパーソナリティーを務める今井佐和です。本日は「フリーすぎる編集者Tさんの破天荒半生」というテーマで、編集部寺崎さんとお届けしてまいります。寺崎さんよろしくお願いします。

寺崎:よろしくお願いします。

今井:本日は素敵なゲストをお呼び致しました。編集、webディレクションを手掛けるTIDY代表の塚越雅之さんです。よろしくお願いいたします。

塚越:よろしくお願いします。

今井:早速なんですけれども、今日のテーマは「フリーすぎる編集者Tさんの破天荒半生」ということなんですけれども、編集者Tさんというのが塚越さんということでよろしいですか?

塚越:それは寺崎さんが勝手に命名している名前です。でも、よくキワモノとかイロモノとか、そんな風に言われちゃう場合が多いですよね。

寺崎:塚越さんは現在フリーランスの編集者で活躍されてるんですけど、ただのフリーの編集者じゃなくて、フリーすぎる編集者と私は呼んでまして。

塚越:そうね。アナーキーとか呼ばれるよりいいよね。

寺崎:アナーキーはちょっと昭和っぽいよね(笑)。

塚越:ちょっと昭和っぽいよね。

今井:(笑)。そんな塚越さんのどの辺がフリーすぎるのか、色々と話を伺いしたいと思うんですけれども、そもそも寺崎さんと塚越さんは元々お知り合いだったんですか?

寺崎:もう15年ぐらいになるかな?

塚越:うん。そうだね。

寺崎:15年来ぐらいのお付き合いになるんですけど、僕が前にいた版元で同じ編集部で編集者としてご一緒して、僕が先に入って、その後塚越さんが入社されて、それで仲良くなったんですよ。今回こうやって塚越さんにVoicyに出てもらったのは、何がすごいかって言うとまさにもう生生流転、ローリングストーンの様な経歴なんですよ

今井:ローリングストーン?

寺崎:転がる石(笑)。もう本当に転がっていく石の様な人生で。

塚越:フォーリングストーンと言った方が正しいかもしれない。

寺崎:(笑)。

塚越:落ちていく石。

寺崎:いやいや、違う。やっぱりローリングですよ。ローリング。

塚越:ありがとうございます。寺崎さんから聞いたところによるとこのフォレスト出版チャンネルっていうのは、「1回の放送で1つの学び」っていうのをテーマに、「知恵の木を植えるラジオ」というコンセプトあるみたいですね。僕の話がリスナーさんにとって学びの要素があるかどうかというところなんですけどもね。

寺崎:そう。全然学びはないかもしれません(笑)。でも、こんな変な人がいるんだっていう学びはあるかも。

塚越:こうなっちゃいけないとかね。

寺崎:いや。でも、こんな生き方もあるんだっていうことで心が自由になる人がいるかもしれない。僕は実は塚越さんに会った時にそれまでも別に真面目じゃなかったんですけど、よりさらにタガが外れたんですよ、心の。「あ!こんな人いるんだ!」って。

塚越:そう?

寺崎:そう。僕、結構人生が変わったんですよ、そこから。

塚越:あら!嬉しいって言っていいのか、申し訳ないって言っていいのか。

今井:寺崎さんの人生を変えた多様性の一つであるフリーすぎる編集者Tさんということで、お話しを伺っていきたいと思います。

塚越:はーい。

都会に憧れた大学時代

今井:では早速なんですけれども、塚越さんのことをご存じない方もたくさんいらっしゃると思いますので、自己紹介と言うか経歴の方を教えていただいてもよろしいでしょうか?

塚越:はい。生まれは栃木なんですよね。一瞬、尼崎の方に行ったんだけど、また栃木に帰ってきてもうそこから大学卒業までずっと北関東。U字工事の世界ですよ。

今井:U字工事(笑)。

塚越:足利って言うところで生まれて、学校は筑波大学だったのでずっと北関東。でも、途中で都会への憧れが強くて、大学在学中に成城学園に住んでいましたね。

今井:え!?えっと筑波大学に通いながら成城に住むってことですか?

塚越:成城に住みたいがために成城から通ってました。

今井:あらー。

塚越:常磐道ぶっ飛ばして。

寺崎:どういうこと?

塚越:東京に住みたくて、常磐道で車を高速でぶっ飛ばして大学に通ってたの。

寺崎:おー。

塚越:田舎者だからずっと東京のカルチャーに憧れていたんですよ。もっと言うと東京のカルチャーってその頃はアメリカ文化だったんですよ。で、何を隠そう、僕の根本的なアメリカびいきが始まったのは、寺崎さんのDNAから始まったんですよ。寺崎さんのおじさんっていうのは寺崎央(てらさき・ひさし)さんって言って、元の平凡出版、僕が最初に入社したマガジンハウスの前身の平凡出版の名物編集者で、昔USAカタログ。

塚越:正式名称はなんて言ったかな。

寺崎:俺も正式名称は忘れたけど。そうだね、アメリカのカタログ。

塚越:アメリカのカタログを作ってたんですよ。

寺崎:いわゆるヘビーデューティーの文化を日本に持ってきて、それがうちの叔父の寺崎央っていう人物だったんですよ。

塚越:思い出した!Made in U.S.A catalog 1975。

寺崎:そうだそうだ!

塚越:これ、僕もまだ子供だったんだけど、どっかで見たんですよね。「東京ってアメリカ?」とか思ったんですよ。どこがやってんだと思ったら平凡出版。僕が入社する頃はマガジンハウスって名前で、ブルータスとかポパイとかananとかオリーブとかそういう雑誌つくってたんですよ。ここに行くしかないなって思ったんですよ。で、寺崎央がつくった伝説の本から面々とそのカルチャーが受け継がれてたんで、憧れまくって入ったんですよ。

寺崎:なるほど。

バブル絶頂期のマガジンハウス時代

今井:マガジンハウスに入社されたということで。

塚越:はい。

今井:それはやはり編集者として入社したんですよね?

塚越:それが、そういうふうに入ったんですけど、なぜか僕は営業にまわったんですよ。

今井:え!そうなんですか?

塚越:あんまり素質がなかったんでしょうね。入社した時は社長に木滑さんって人がいたんですけど、あの時はまだ役員だったかな?それで、僕もキメキメのファッションで行ったんですよ。そしたら「おまえ、吊るし(既製服) のわりにはいい服着てるな」って面接で言われたりして、あのキラメルさんにあんなこと言われちゃったよって。でも当時は栃木の田舎から東京に出てきて、アイビーとかプレッピーだったかな。プレッピーとかが流行ってて。

寺崎:80年代、バブル絶頂でしょ?

塚越:バブル絶頂期ですよ。それで覚えてるかわかんないけど、BCBG(ベセベジェ)とか呼んだり、プレッピーって呼んだり、襟がデカいシャツにオデコ靴とかみんな履いてね。

寺崎:肩パッド入ってた?

塚越:肩パッド入ってたかな?デカかったよね。それで、俺の憧れの菊池武夫さんとか中野裕通さんとか、もっと言えば川久保玲さん、山本耀司さん、親父がアパレルだったので、そういう人たちのカルチャーに触れるのが嬉しくてしょうがなかったんですよね。

寺崎:スーツはダブル?

塚越:スーツは、俺は一捻りあって、DCブランドを直接着るのは編集者としてカッコ悪いんじゃないかと思ったんですよ。だからちょっと変な古着とかアメカジとか着てた。

寺崎:なるほど。

塚越:当時はハリウッドランチマーケットとか。

寺崎:あー、ハリランね。代官山の。

塚越:うん。高校時代はボートハウスとかビームスとかシップスとかだったんだけど、社会人になるとお金もちょっと入ってくるから、インターナショナルビームスとかね。

塚越・寺崎:(笑)

塚越:だからちょっと変わった格好しようと頑張っていた時代。そこで、そんなに憧れて入ったのに営業と言われて書店営業やって、確か吉祥寺の書店の担当で本を持って歩いてまわってた記憶があるんですけど。ちょっとこのおしゃれカルチャーって俺はアウェイって思ったんですよ。それから愛しすぎているマガジンハウスカルチャーが憎くなってきちゃったんですよ。

寺崎:営業にまわされたからむかついたんでしょ?

塚越:まあ、そうも言えるんですけど。そうですね。こんな俺のことを受け入れてくれない会社辞めてやるって言って、全然関係ないところに転職しちゃったんですよ。

今井:次はどこに転職されたんですか?

塚越:角川書店っていうところに。文芸誌に入ったんですよ。

大物作家の編集担当を歴任した角川時代

今井:そうなんですか。どんなことをされていたんですか?

塚越:文芸なので、作家さんの原稿をいただいていたんですけど。当時は五木寛之さんとか村上龍さんとか山田詠美さんとか宮本輝さんの原稿を頂戴していました。

今井:すごい。そうそうたる。

塚越:本当にいい経験でした。

寺崎:編集長は見城さん(現・幻冬舎社長)でしょ?

塚越:見城徹さんですね。もう飛ぶ鳥を落とす勢いの見城さん。オーラが凄かったですね。

寺崎:バリバリの時代ですよね。

塚越:バリバリですよ、もう。

寺崎:山田詠美さんとニューヨーク行ったりしてたんですよね、当時。

塚越:行かせてもらったりとか。それで、見城さんにはいつも怒られてたんですよ。よく言われてたのが、「お前、頭をオンにしろよ」っていつも言われてたんですよ。ぼーっとしてたから。

今井:(笑)。頭をオンにしろと。

塚越:そう。で、ある日、「お前、頭をオンにしろよ」って怒られて、それでもらった原稿が村上龍さんの『オフ』っていう原稿だったんですよ。それでみんなに笑われたっていう。

一同:(笑)。

塚越:『トパーズ』っていう本だったかな。そんなこともありましたね。

寺崎:この時代の話は僕もプライベートで塚越さんによく聞いてるんですけど、ちょっと話せない話がいっぱいありますよね。やばいよね、この時代はね。

人生の師と仰ぐテリー伊藤さんの名言

塚越:でも、この時に今でも人生の師と仰ぐ人に出会って、その方が今はお会いしてないんですけど、テリー伊藤さん。当時、伊藤輝夫さんっていう呼び方をして、IVSテレビの役員されてたんですけど、当時ディレクターで「元気が出るテレビ」とか、「浅草橋ヤング商店街」とか「ねるとん紅鯨団」とかやられていたんですよ。

寺崎:バリバリの時代だ、またそれ。

塚越:で、伊藤さんを初めて見た時はテンガロンハットにダンガリーシャツにものすごくでっかいターコイズが入ったバックルのついたベルトで、デニムにウエスタンブーツ履いてたんですよ。もう眩しくて、伊藤さんのすぐファンになって、ちょっと重要なことなんですけど、その時に伊藤さんにお悩み相談室をやってもらってたんですが、「彼女ができない」っていう悩みをある人からもらって持って行ったら、「この人は100人の女に声をかけたのかな?」 って言ったんですよ。

寺崎:おー。

塚越:で、「いや。この人は付き合ったこともないし、2~3人だと思います。」って言ったら、「それじゃあ、女にモテないって分かんないよね」って言ったんですよ。

寺崎:なるほどー。

塚越:「100人に声をかけてから、モテないって言ってくれよ」って答えをもらったんです。それが、今でも自分の仕事の原動力になっていて。

寺崎:なるほど。その話、俺は初めて聞いたかもしれない。塚越さんって行動力が半端ないでしょう。そういう原点があったんだ。

塚越:そう。テリーさんが大好きで、わざわざ高円寺にテリーさんの古着が売っている店まで見に行ったりとかしてるぐらい大好きなの。

今井:その後はどこかまた転職されたりしたんですか?

塚越:当時は日経ホーム出版社っていう名前だったんですけど、今の日経BPですね。そこで、「日経ウーマン」っていう雑誌を長いことやってたんですよ。

今井:そうだったんですか。

塚越:1年に300人のキャリアウーマンに取材しました。

一転して暗黒時代に突入する

寺崎:ここまで、そうそうたる有名出版社を渡り歩いて、順風満帆という感じだったんだけども、一旦ここで黄金期が終焉して。

塚越:終わったね。

寺崎:終わって、ここから暗黒の時代に突入するんだよね。

塚越:そうなんですよ。色々な出版社さんで活躍されている方がいるから、今までの話ってよくある話だと思うんですよ。でも、僕はここからが10年、20年と真っ暗な時代がやってきたんですけどね。時代の空気が伝染したのかわからないんですけど、1995年にパンクしちゃって、気持ちが。ある時、家族に山の中に連れて行かれちゃったんですよ。

今井:えっ。どういうことですか?山の中?

塚越:「療養しなさい」って言われて。自分では「あれ?なんで俺が?」っていう感じだったんだけど、罠にはめられて連れていかれちゃって、山の中で自分と同じような境遇の人たちと一緒に一日を過ごすっていうのを1年間くらいやってたのかな。

今井:先ほど、暗黒の時代という表現があったんですけれども、具体的には何かあったんですか?

塚越:ずっと張りつめてバブルと共にノリノリでやってたんですけど、極まっちゃって心がパンクして、家族に強制的に山の中の施設に入れられちゃったんですよ。何で家族が施設に連れて行ったかと言うと、僕が道を曲がる時に直角に曲がってるって言うんですよ。90度に曲がらないと気がすまなかった。

今井:斜め45度じゃだめ?

塚越:だめだめだめ。だから、タクシーに乗っている時も運転手さんに「ちゃんときっちり曲がってくれ」って言った覚えがありますよ。

寺崎:(笑)。笑っちゃいけないんですけど、強迫神経症みたいなものだと思うんですよね。

塚越:そうそう。

寺崎:直角にしか歩けないから、地元の八王子の駅から自宅に帰るのに2時間かかったとかね。

塚越:そう。

寺崎:いや、それは笑っちゃうくらい大変だろうなと思って。

塚越:それで、竹中直人さんの「直角に置かせてくれ」っていうギャグがあったんですよ。その時に彼のことが好きになったんですよね。

寺崎:(笑)

塚越:要するに物を平行か直角に置かないと気が済まないっていうギャグをやっていたんですよ。そういうのに似ているような症状が起きちゃって、挙句の果ては取材して、例えば2,563,876円という数字を取材した時に、「この256万ってなんだっけな?」とか、認知の問題に至ったんですよ。「2ってなんだろう?」とか。それが後に寺崎さんとつくる『29歳からはじめるロックンロール般若心経』という書籍に繋がっていくんですけど。認知論の問題なんですよね。モノが認識できなくなっちゃったんですよ。絶句ですよね。

寺崎:似たような話で、僕が百科事典の編集をやっていた時に百科事典の校正者さんが一回病気になったことがあって、どんな病気かと言うと、中吊り広告とか、新聞とか、どんなものを見ても全部校正しちゃうんだって。それで疲れて精神的に病んじゃった人がいた。

塚越:だから、数字を使ったりすると数字の意味を考えちゃうんですよ。この根拠は何だとか。そもそも2って誰が決めたんだとか。

寺崎:まあ、病気だよね。

塚越:そう。もし同じ病気で悩んでる人がいたら是非とも考えてほしいですけど、治るんで気にしない方がいいと思いますよ。時間が経つとね。

寺崎:そうだね。今は元気だもんね、塚越さん。

塚越:バリバリなんですよね。

寺崎:バリバリだよね。

塚越:うん。今頃、見城さんに「頭をオンにしろ」って言われた意味がわかったんですよ。 それで、その病気から復活した後も社会復帰がうまくできなくて、ものすごく点々としちゃったんですよ。そこが寺崎さんとの酒のネタ。

今井:酒のネタになるほどのことがあったんですね。

塚越:1年くらいかけてやっと映画館まで行けるようになったら、ハロワでちょっと仕事を探してみようかなと思って、最初はプータローやってたんですけど、近所の塾講師かなんかやって、それからもうちょっとできるかなと思って教育系の出版社に転職して、そこでまた編集者としてやるようになって、これはいけるかなと思って人文系の出版社に転職して、そこでまだいけるかなと思ったんですけど、どんどんどんどんオカルティックな方向に自分がいっちゃって、宗教系の出版社から最後は新興宗教系の出版編集者になって、その辺の今で言うインフルエンサーとかオピニオンリーダーの方々のゴーストライターをやったりしてました。

寺崎:人文系出版社はちょっと社名は出せないんですけど、それなりの知名度がある会社ですよね。

塚越:そうなんですよ。

寺崎:新興宗教の方は私もあんまりよく分からないんですけど、そこで広報とか編集者をやっていたわけですよね。

塚越:そうなんです。

寺崎:塚越さんって仏教、めちゃめちゃ詳しいじゃないですか。仏教に傾倒していたのってやっぱりこの時期なんですか?

塚越:そうなんです。プータローからダラダラやっていたんですけど、なんで俺が病気になったのかなとか、なんであんなに元気だったのにこんなになったのかなとか考えているうちに、仏教の考え方で癒されたことがあるんです。

寺崎:この時代から瞑想始めたの?

塚越:そうね。俺ってちっちゃいことにこだわりすぎているのかなって思うようになったんですよ。直角に曲がるとか、コンセントを差しっぱなしだと火を噴いちゃうんじゃないかとか考えるのって、結局モノの見方って言うか、認知の問題が歪んでるのかなと思って、それでどんどんどんどん宗教系の出版社とかオカルトの世界に入ったんですけど、結局、原始仏教の世界にたどり着いたんですよね。

寺崎:原始仏教?チベット?

塚越:ううん。ブッダさんの直系のお話。そこで般若心経に出会って、般若心経というのは大乗仏教なんですけど、ブッダが言っていることをちゃんと伝えた経典だなと思って、研究し始めたんですよね。プータローとかダラダラしながら。

寺崎:そんな風に体調を崩したりしながらの経歴の中でだんだんちょっとスピリチュアル臭がして怪しいんですけど、ここで転機が一個訪れるんですよね。

塚越:そうなんですよ。2001年に小泉さんが総理大臣になったんですよ。で、2005年に郵政民営化かな。2000年代はライブドアの問題とか、色々なことが起きて、世の中がちょっと騒々しい時代だったんですけど、これまた病気になっちゃうなと思って、飛んだんですよ、ハワイへ。ハワイへ飛ぶきっかけっていうのは、『7つの習慣』っていう素晴らしい自己啓発書の版権を日本に導入した川西茂さんっていう方との出会いだったんですよ。僕はそこから「自己啓発って結構いいな」と思うようになったんですね。それで、寺崎さんのところで後々につくらせていただくことになったんですけど。で、川西さんがすごいのが天然の明るさ、もうすごく自然に明るい。松岡修造さんみたいにガッツだーじゃないんだけど、自然に明るい人柄っていうのがみんなに愛されるところで、講演会とか行くとファンがたくさんいるんですよ。その人に「塚ちゃん、ハワイ行ってビジネスしようぜ」って言われたんですよ。それで僕も日本の暗い空気の中で「ハワイに行くってありだな」と思って、一緒に飛んだんですよ。

寺崎:そのハワイの生活って相当悠々自適な生活って聞いてるけど、どんな感じだったの?

塚越:ハワイは、午前中に川西さんとミーティングして、午後はコンドミニアムのプールで、親子留学で来ていたお母さんたちとビーチバレーやって、夕方になるとピンク色のなんて言うホテルだったか・・・で、生演奏聞きながら海岸でピニャコラーダとか飲んだりして、天国の様な暮らしをしばらくしていたんですよ。

今井:すごい。本当に天国みたいな暮らしですね。

塚越:でもね、それも半年くらいすると天国じゃなくなっちゃうんですよね。日本で何かやらなきゃって思うようになったんですよ。

今井:そうするとバブルの黄金期からの暗黒時代、そしてハワイで充電というところなんですけど、またそこから何かをしなきゃっていう感じになってきたと。

塚越:そう。で、日本に戻ってきたらiPhoneが誕生したんですよ、アメリカで。2008年にはiPhone 3Gが日本で発売になったんですよ。その時に、いい時代が来たなって感じたんですよ、日本で。そこから、今に至るまで色々なことがあって暗黒時代から抜け出るきっかけになったんですよ。自由な時代が来たなと思って。

寺崎:なるほど。iPhoneが一つのきっかけだったっていうね。

塚越:そうそう。ゆくゆくアプリとかも作ったしね。

寺崎:こっから復活劇が始まるんだよね、塚越さんの。

塚越:復活って言うか、普通の生活に戻ったという。

寺崎:(笑)。この後の復活以降から僕も実際に塚越さんと同じ歩みを続けるみたいなところがスタートするわけなんですけどね。

今井:それでは続きはまた明日ということで、皆さんもこの後の話を楽しみしていただけたらと思います。それでは、本日はまだまだお話を伺いたいところなのですが、塚越さん、寺崎さん、ありがとうございました。

塚越・寺崎:ありがとうございました。

(書き起こし:フォレスト出版本部・冨田弘子)

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