『鬼滅の刃』のヒットと「死」の相関関係あるいは禁煙ファシズム
フォレスト出版編集部の寺崎です。
『鬼滅の刃』が『ONE PIECE』を超える爆発的なヒットとなっています。私も知人に「絶対面白いから、アニメだからって馬鹿にしないで絶対に絶対に観たほうがいい!」と激しくプッシュされ、Netflixで観てみました。
で、ここだけの話ですが、正直、描写の血生臭さが全般的にエグくて、途中のエピソードまでしか観れませんでした。
そこで「『鬼滅の刃』がなぜここまでヒットしているのか?」を考えてみます。アニメ作品としてのクオリティ説、マーケティング的側面、多メディア戦略など、そのあたりの分析は専門の方々が多くなされているので、ここでは普段あまりコミックもアニメも観ない自分が「素人の妄想」に近い分析をしてみます。
「死」を憧憬するひとびと
人食い鬼をテーマにした『鬼滅の刃』では「死」が隣り合わせだ。
最近のコミック、アニメのヒット作には「人間の死」「グロテスクなまでの死生観」が色濃く描かれた作品が多い気がする。『進撃の巨人』『デスノート』しかり。
私は現在40代なかばですが、自分がコミック、アニメに親しんでいた幼少時代には、ここまで「死」が作品のテーゼとなった、ある意味で死を「美化」して描いた作品は国民的ヒット作においてはほとんどない。
『北斗の拳』でも人は死んでいく。ケンシロウに「おまえはすでに死んでいる」と言われ「ヒデブッ!」と叫んで、ただ死ぬだけで、「ヒデブッ!」の死にはとくに意味はない。「ヒデブッ!」と言って死んでいった男が回顧されることは一切ない。
人間の死がロマンティックに描かれ始めたのは『新世紀エヴァンゲリオン』あたりですかね。
ひとびとは、いまなぜ「死」の世界に熱狂するのか。
三島由紀夫などに影響を与えたフランスの哲学者ジョルジュ・バタイユによると「死=エロティシズム」。また、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学で行った伝説の講演で「死は生命の最高の発明である」と唱えて話題となった。
つまり、「死」とは快楽であり、「死」を意識することで「生」が輝く。
このように哲学的に定義することもできる。
となると、もしかしたら、1990年代以降の「失われたウン十年」という状況のなか、日本人が生きることへの輝き、生きることそのものの快楽を失った結果、無意識的に「死」への憧憬に向かっていった、とみることはできないか。
「死」こそが「生」を定義づける最大のモチベーション。
そうした「死」と「生」をめぐって潜在する根源的なニーズのうねりに合致してハマったのが『鬼滅の刃』だった。
というのが、素人によるヒット要因の妄想的分析です。
日本の「禁煙ファシズム」の異様さ
もうひとつ別の観点から。
話は変わりますが、4月から受動喫煙防止条例が実施されました。
これによって、屋外でも室内でもタバコが吸えない、タバコが吸える場所がどこにもないという状況が生まれた。
これって、世界的にみてもかなり異常な事態で、「禁煙ファシズム」と揶揄されています。
「室内禁煙」はほぼ世界共通の趨勢ですが、海外では「部屋のなかでは禁煙だけど、外では吸っていいよ」という風潮が普通。
私自身、直近5年間ぐらいに訪れた国はタイ、ベトナム、台湾、ドイツ、韓国、グアムしかないので「世界中」はわかりませんが、韓国・ソウル以外はどこもそうでした。ホテルの外にはかならず灰皿が置いてあり、町中にも至るところに吸える場所がある。
ドイツのフランクフルトにいたってはみんな路上にポイ捨てしていてびっくりしたけど、早朝にブルドーザーみたいな清掃車が街をザーッと掃除して走っていて毎日街をキレイになっているのを見て「なるほど、そういうことか」とドイツ人らしい合理性を感じた。
「タバコなんて身体に悪いんだから全面禁止しろ」
「副流煙が迷惑だ。おまえの家の中で吸え」
こんな声が聞こえてきそうです。だけど、公共のマナーを守ってタバコを自由に吸う行為は人間の基本的人権として守られるべきだと思うのです。
屋外室内問わず全面禁煙、喫煙所ガンガン撤去という状況にはいささか異常さを感じざるをえない。
禁煙ファシズムは「身体の私的所有」の強化
このことに関して気鋭の若き哲学者・千葉雅也さんがとても面白い見解を示しています。
あらゆる施設内を一律に禁煙化するという方針には、ある政治性が、イデオロギーが含まれていると考えられます。それは一言でいうと、「身体の私的所有」の強化です。
自らの身体を外界から区切られた「領地―プロパティ(私有財産)―不動産」として考え、境界を侵犯するものを拒絶することです。近年、右派と左派のいかんを問わず「身体の私的所有」を強める傾向が見られると思います。
「身体の私的所有」・・・なるほど。
「境界を侵犯するものを拒絶する」に関しては、満員電車でここ10年ぐらいで増えた「頑として自分のスペースを動かない人」を想起させます。昔の満員電車は譲り合いの精神が働いていたものですが・・・。
受動喫煙への嫌悪もまた、自分の「身体という領土」を一片たりとも侵されたくない、というイデオロギーの表れではないでしょうか。
さらに、たばこの煙に限らず、「電車内のベビーカーや赤ん坊の泣き声が神経に障る」というサラリーマンや、恋愛やセックスのストレスを避ける「草食系」の傾向も、「身体という領土」を脅かす存在を拒絶するという意味で、「身体の私的所有」の観点から説明可能でしょう。
さらにいえば、「身体という領土」とは、「自分という資本」です。それをガッチリ掴んでいる。他者との偶発的な関係によって「自分という資本」が目減りする、不完全化するのを避けたいというわけです。
日本(というか東京だけかもしれないけど・・・・・・)の異様なまでの「不寛容な社会」に対する本質的な解釈がここにある気がします。
現代社会から失われたのは身体のコミュニティ、身体の共有性でしょう。かつては、自分と他人の境界がもっと曖昧であり、「身体の私的所有」という観念はもっと弱かったのだと思います。
旧来の共同体で生きていた人たちは、「自分の生活は100%自分の意志でコントロールできるものではない、時には他者が土足で踏み込んでくることもある」といった身体感覚を共有していた。
「時には他者が土足で踏み込んでくることもある」という身体感覚は自分にとっては当たり前に思える感覚ですが、このように改めて指摘されると新鮮です。
しかし21世紀に入ってグローバル化が進行すると、市場原理主義に基づくネオリベラリズム(新自由主義)の経済体制が強まり、社会の細分化・個人主義が進みました。それと並行して、社会から身体を共有する意識が失われていったというのが、私の見立てです。
右派の論者に喫煙擁護派がしばしば見られるのは、彼らが古いコミュニティ(共同体)に信頼を抱いているからだと思われます。おそらくコアな保守主義者は、「完全な個人主義は成り立たない」ということは実存の本質に関わるテーゼであると、経験を通して直観している。
単純な合理主義者にとっては、喫煙と発がん率の相関関係を見るような計量的エビデンスが唯一、価値判断を可能にするのでしょう。しかし人間は、実存の根底において、計量化されない不合理性によって生きています。
「人間は実存の根底において計量化されない不合理性によって生きている」というワンフレーズに痺れます。
そのようなエビデンス主義とは、身体のコミュニティの喪失にほかなりません。端的にいって、これは人類の自殺なのではないか……そう考えるのは、「元人類」の古い感覚なのかもしれません。
しかし、いまこそ過剰なエビデンス主義と無迷惑社会の理想に懐疑の目を向け、世界の不合理性を受け入れ直し、不合理性と合理性のグレーゾーンにおいていかに生きるかを模索すべき時が来ていると思うのです。
合理を主張する嫌煙家、不合理な喫煙者がともに仲良く暮らせる国が「大人の国」だと思うのであります。
「身体の私的所有」と『鬼滅の刃』
ここまで千葉先生の発言を引用してなにが言いたいかというと、「身体の私的所有」がアプリオリにインストールされている世代にとっては、「土足で踏み込んでくる強さ」が新鮮なのではないかということ。
ここに、ぐいぐいと内面に踏み込んでくるエグい描写をする『鬼滅の刃』がハマるのではないか、と。
と書きつつ、すいません。禁煙の話以降は途中から自分でも何が言いたいのかワケわからなくなってきたので、ここまでとします。
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