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自分で決めるという幻想

フリースクール界隈では、すっかりおなじみの
“自分で決める”ということを
少し分解して考えてみたくなりました。

言葉の一人歩きかもしれない

この活動を始めて3年目。
自分で言うのも変ですが、きっと代表の苦労が増す頃ではないかと考え、
伴走支援を外部の方にお願いしてきました。
全7回の対話の時間と日々のジャーナルで葛藤を出し整理していくという方法を取り、今日がそのまとめの会でした。

後半に出てきた問いが、「自分で決めるって?」というものだったのです。
スクールで大切にしていることとして、
“自分のことは自分で決められる”を掲げています。
これが大切なことに変わりはないのですが、
ここにも言葉の落とし穴があるような気がしたのです。

何をもってして「決めた」というか

あるメンバーさんが、
口癖のように、何か気に入らないことが起きると「来なきゃよかった」と言っていました。
今となっては、そう言いたくなる背景に目を向け、そこを聴き出せたら、それで翻訳完了という案件だったのですが、
その時は、
自分が参加したい気持ちよりも、家族を喜ばせようと思って頑張ってきているのかな?と思ったりもしたのです。

お家の方と話してみたらびっくりしました。
いつもいつも行きたいって言って参加しているというのです。
何とも私自身の見立ての浅はかさを想いました。

でもこのやり取りのおかげで、
視座が広がるきっかけをもらいました。
そもそも、お母さんを喜ばせようと思って参加することだって立派な自己決定です。
もっと言うと、
「来た」ということが自分で決めた結果そのものです。

決めたという体裁をとるというような形骸化した「自己決定」はナンセンスな気がしてきました。
ましてや、自分で決めたんだから、と何かしらのことを、あたかも大切な課題かのように外部がつきつけるのも、なんか変だぞという気がしてきます。
特に“自己責任”を掲げすぎるのも個人的に好みではないです。
このあたりは、また別で記せたらとも思います。

表向きの決めたかどうかにとらわれすぎず

公教育の中で、自己決定の範囲が適切でない(年齢に見合わず狭すぎる)ことが、学校離れの一つの理由になることがあります。
だからこそ、そういうニーズに、フリースクールの自己決定がマッチングするという側面がある前提はいったん脇に置きつつ・・・

表向きの本人が決めているという言動に、安易にとらわれすぎずに、
もう少しその背景に想いを馳せていきたいと思っています。
一人ひとりが自分で決められるような声かけは大切にしているし、
話し合いをもとにしていろんなことを協議して決めてきてはいます。

でも「決める」時に起きている、本人の中の理由は、
どこからどこまでが本人由来かなんて線引きはしづらいものです。
大人スタッフへの忖度だって、どこまであってどこまでが自分の範疇か、
厳密には言い切れず、少なからず影響をし合って、
決めたような現象が現れているに過ぎないと言ってもよいかもしれません。

もっと大切なことがその裏にあるのではないか・・・

物語る生き物として

人間の醍醐味は、私の中に起きている体験を身体を通して捉え、
脳が言語化を試みて、
物語化して他者に伝えるという「物語る生き物」の部分にあるかもしれません。

大いなる誤認識をもとに、
私は被害者だー!と語ることもありますし、
何かにゆかりを感じて、そこに将来の夢を描いて表現することもあります。
メンバーさんたちにもこんなことが日々起きては、
語られ、場合によっては新しいステージに進んだり、
強化されてその物語に留まっていたりします。

「決めた」かどうかは、
ある一つの地点にすぎません。
そのことの評価よりも、
どれだけ自分自身を物語れているのか、
そこに注目して促してみてはどうだろうか?
その物語の先に、
一つひとつの「決めた」という点があるような気がしています。


豊田市の喫茶キノが対話の場の定番となりました

ひらけエデュケーションの若杉逸平さんの伴走支援が、
これで一区切りとなりました。
丁寧な問いかけとじっくりとした対話の時間をありがとうございました!
語れば語るほどに勇気づく貴重な時間でした。

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