見出し画像

セクシャルマイノリティであること

私はレズビアンです。
バイセクシャルかと思っていましたが、おそらく違う。

なので、世間がいういわゆる“普通の幸せ”は、私には来ません。
自分の子どもはきっと持てない。
結婚だって、できないような気がします。


いくらパートナーシップ制度が作られ理解が進んでいるといえども、それはあくまでも「パートナーシップ」で、結婚ではありません。
(アメリカ人の友達に、日本では同性婚ができない、と話したらとても驚かれました)


パートナーのことは看取れないかもしれません。
自分が死んだとき、その保険金をパートナーに受け渡すこともできないかもしれない。
それも今変わってきてはいるようですが。


同性婚ができるようになったとしても、何年後、何十年後になるか分かりません。
私は今20歳を超えているので、それでは「遅すぎる」と感じてしまうのです。
しょうがない、とは分かっています。



ですが、だからこそ、私は自分が思うように生きたいです。
「こうあるべき」という生き方なんてない。
そもそも“普通”なんてないと思っています。


“普通”は、“傾向”のtoo muchな言いかえです。
「~な人が多い」「~な傾向がある」ということは存在します。
でも、“普通”は存在しません。

“普通”と言ってしまえば、そうでない人が“普通でない”=“異常”になってしまう。
たとえば、日本人はまじめな人が多い、というイメージが比較的ありますが、だからといって「日本人なら、普通まじめでしょ」なんて言わないと思います。
まじめでない日本の人は、“異常”ではありませんよね。

自分の基準を“普通”という言葉を使って、誰かに押し付けてはいけないんです。
それは、誰かを傷つけうる。



実は、1年近くお付き合いをした男性に、最近お別れを告げました。

彼はとても素敵な人で、大切にしていたし、大切にしてくれていたけれど、どうしても女性に対して感じるような感情は持てなくて。
全部話して、謝りました。

これも彼には話しましたが、正直に言うと、彼とお付き合いをしたとき、「ああこれで自分も“普通の幸せ”が手に入るのかも」と思ってしまいました。

人前で手をつないでも誰にもジロジロ見られないで、結婚もして、子どもも持てるような。

自分勝手だけれど、その“幸せ”が欲しいな、と思ってしまいました。
でも、それも諦めました。
彼のことをきっと傷つけてしまった。
ただただ、彼には申し訳ないです。



あたりまえだけれど、“普通”なんてなくて、それぞれの心の持ちかたや考えかたや、生きかたがあります。

私は、「(比較的)多くの人が持つ幸せ」=世間が“普通”としている幸せ、を持つことはできないかもしれません。


それでも自分は自分の生に対して、幸せと感じますし、セクシャルマイノリティとして生きる覚悟は、ある程度かもしれないけれど、できているつもりです。

読んでくださり、ありがとうございます。 このnoteを読むことで、セクシャルマイノリティについて少し知っていただけたり、何か生きるヒントのようなものを見つけていただけたら、幸いです。