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ドメニコ・スタルノーネ「靴ひも」ー私たちは、人生に何を望むべきかを決して知りえない

2019年に翻訳版が出版されてすぐ読んだ作品だったが、知らないうちに本国イタリアで映画化されており、先日イタリア映画祭でオンライン視聴をすることができた。

本で読んでいた時は、家族の生々しい衝突や苦しみを描いている作品であるものの、わりと淡々としていてカラっとした印象だった記憶があるが、映画版は感情がもっとダイレクトに伝わってきて、正直、ただただ観るのがキツかった。しかし、代わりといってはなんだが、原作だと淡々としているが故に見落としていた細かい仕掛けのようなものが映画だとぐっと浮き彫りになった感じがして、物語の巧妙さに改めて驚かされた。

この作品をどんな人に勧めていいのかを考えるとちょっと難しいし(とか言って本好きの母には読んですぐ送ったが...)、どんなストーリーなのかをうまく伝えるのも出来そうにない。それでも、人生というものの不可解さと共にもがきながら生きる人であれば、何かしら心を揺さぶられるものがあるのではないかと思う。

「靴ひも」のあらすじ

専業主婦のヴァンダとTVプロデューサーのアルドのカップル。若くして結婚し、サンドロとアンナという二人の子供に恵まれた彼らの生活は、アルドが19歳の学生・リディアに恋をすることで崩壊する。ついに家を出てリディアと同棲を始めたアルドにヴァンダは怒り深く傷つくが、長い月日が経ち、やがて再びアルドは家族の元に帰って二人はまた共に夫婦として暮らし始める。

心はどこか満たされていないが、経済的には安定した暮らしを送る中、二人はちょっとしたバカンスに旅立つ。出発の日から、道中、旅先でも小さな諍いが絶えない二人だったが、旅行を終えた後、自宅が何者かによって荒らされているのを発見する。ひっくり返された家財道具を整理しながら、アルドは昔愛人との関係にのめりこんでいた時、ヴァンダが自分に宛てて送ってきた手紙の束を読み返しながら過去を思い出す。そして、家の中からとある品が消えていることにふいに気づく...

練りこまれた構成

あらすじはシンプルに書いたが、実は作品としてかなり緻密な構成になっている。

冒頭は、ヴァンダが家を出たアルドに向けて送った、自分の苦しみを吐露し、夫の不誠実さを詰り、それでも帰りを乞う複数の手紙のみで構成される。冷静な語り口の中から抑えきれない感情が染み出すような文章で、否応なしに引き込まれてしまう。

その後を引き継ぐのは、現在と過去の思い出を行き来しながら、愛人との関係に溺れた過去や、夫婦が生きてきた長い年月について独白する老年期のアルドのモノローグ。ヴァンダの手紙では徹頭徹尾に身勝手で不誠実な夫として登場するアルドだが、若く魅力的な愛人と恋愛をしながらも、彼女に捨てられる不安に苛まれ、彼女といても安らぎを見いだせない葛藤と焦燥が描かれる。
映画版のほうが、アルドの感じる惨めさや嫉妬が生々しく感じられ、見ていて心が苛まれた。夫に裏切られたヴァンダの心の傷はもちろんつらいのだが、家庭を捨てるほどの恋に落ちたアルドにも、待っているのは地獄なのだ。

そして最終章は、彼らの子供であるサンドロとアンナが主人公になる。大人になった彼らは久々に出会い、自分たちの子供時代について思い出話を始める。父親顔負けのプレイボーイに育ったサンドロと、一生子育てはしないと誓って生きてきたアンナ。二人にとって、両親とはどんな存在だったのか?

...このような構成になっており、ある家族の長い年月の歴史が、家族の構成員全員の主観で紐解かれる仕掛けとなっている。

別に大事件が起きるわけでもないし、驚愕するほどの事実が隠されているわけでもない。それでも、表面的には裕福で成功しているように見える一つの家族の、その家族のメンバーにしか解くことができないパズルのような裏の物語を一つひとつ解いていくような過程は非常にスリリングである。

人生というもの、家族というものの不可解さ

作品としてはたった一冊の本であるが、家族と夫婦について人が抱く期待と失望、希望と絶望、信頼と葛藤、誠実と不誠実さなど、ありとあらゆるアンビバレントな感情が濃厚に詰め込まれていて、読み終わると心が若干くたびれてしまう。

人と人が交わす約束の不確かさ。どのような女性として、どのような男性として生きるべきなのか。家族に対する責任とは何なのか。それはどのように果たされるべきなのか。...人生はあまりにも謎に満ちているし、絶えず答えのない問いを投げてくる。この作品は、そういう誰もが体験する不条理さを、容赦なく突き付けてくるような作品だ。

この本について考えている時、ミラン・クンデラが「存在の耐えられない軽さ」で書いていた文章が思い浮かぶ。

人間はなにを望むべきかをけっして知りえない。というのも、人間にはただひとつの人生しかないので、その人生を以前の様々な人生と比較することも、以後の様々な人生のなかで修正することもできないのだから。

一見空しくなってしまうような言葉かもしれないが、だからこそ、希望を抱いて生きることができるのだとも思う。

そんな風にして生きるしかない人間の、家族の姿に自分を重ねざるをえない一冊だ。


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