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LO-Vacation新聞に寄稿した短編

彫り師の友人と古着屋を営んでる友人と私の3人でLo-vacation newspaper なるものを不定期で刊行しております。
今回はその記念すべき第一回に寄稿した短編、陰翳痛罵を紹介します。
以下。


駅を出るとすでに日は沈んでおり、新宿を出るまでアスファルトと特大セッションをしていた雨は、気まぐれな猫のように何処かに消え去っていた。
その日は、昼過ぎに目覚めてそのまま起き抜けに和田誠の展示を見に行ったので、朝から何も食べていなかった。いい加減空腹にも耐えかねるので、何かテキトーに摘んで帰ろうかと思ったが、吐く息が白く上がっていくのを見て、今日はまだ一本たりとも煙草を吸っていなかったことを思い出したので、まずは喫煙所に向かうことにした。

普段なら、世捨て風情の老若男女が安酒片手に癒えることのない傷の舐めあいを延々繰り返している駅前広場が私を苛立たせたが、この日ばかりは雨と寒さのせいか、しんと静まり返っており、私はいくらか気をよくした。
なるほど、これが君の本来の在り方であろう。雨は、何者かで在るべくすがり寄って来る寄生虫達に汚された君の体を、本来の姿に立ち返らせてくれたというわけだ。
この雨と寒さが永遠であれば、君もまた永遠に安らぎの中にいられるのだろう、などと考えた。

喫煙所もやはり、いつもと比べればうんと人の気配が少なく、私と入れ違いに2人の背広姿の男達が出て行ったので、中に居るのはギターを担いだ、クラゲみたいな頭のバンドマン風情の男と私の2人だけであった。
私がタバコに火をつけた時、一方その男はもう半分くらいまで吸い終えていたので、さっさとこの場から立ち去ってくれることを願いながら、私は実に半日ぶりの煙を口の中でいつもより慎重に転がした。

街は依然として静かだった。駅前のロータリーに停まるバスが、エンジンをふかしている音がここまで聞こえてくるほどであった。
私は半分ほど吸い終えて灰を落とすタイミングで、チラと男の方を覗いてみた。
男は、もはやフィルターにかろうじて数ミリ灰が乗っているだけの煙草を片手に、しかし、捨ててこの場を後にする素振りは一向に見せず、携帯の画面を眺めるのに夢中になっていた。瞬間、男の鼻の下が画面の点滅に合わせてチラリと光った。よくよく目を凝らして見てみると、鼻中隔の間に、控えめではありながら銀色のピアスが取り付けられているようであった。それが男の挙動に合わせて明暗を繰り返す画面に合わせキラキラと安っぽい光を拡散していたのだ。それに気づいた途端、私は再び苛立ちの中に落ちていた。この街ではこういう類の人間は、数m歩けば3人はすれ違うので、普段であれば気にも留めないであろう些細な事だったが、いかんせん、今日はこの街の新たな一面を知った気になっていたので、この男の存在、もとい鼻ピアスは私を大いに絶望させた。
いよいよ空腹も限界だったが、こうなってしまったらこの男がここを去り、再びこの街に安らぎが帰ってくるのを見届ける以外ないと思ったので、私はこの理屈の為に2本目の煙草に火をつけた。男は遂に灰が落ちフィルターだけになった煙草を片手に、依然として喫煙所の角に陣取ったままピタとも動かなかった。いい加減腹が立ってきた。あっちに行って思い切り煙を吐きかけてやろうかと一瞬考えたが、揉めると面倒なので思い止まり、努めて親切に、荒波を立てないようになにかしら声をかけてやろうと思った。そうだな、笑いながら、”もし、もうあなたの煙草はとっくにフィルターしか残ってないですよ”なんて言うのはどうだろうか。この男は携帯の画面に完全に意識を吸い込まれていて、自分が煙草を吸っていた事さえもはや覚えていないかもしれない。そこでこの言葉ではっと現実に戻ればすぐにでもこの場を後にするのではなかろうか。
そんな事を考えている間にも、2本目の煙草はもう、その身半分程を灰に変えていた。
ええいままよ、これ以上は時間の無駄だ、声をかけよう。そう思い一歩、男の方に踏み出した時だった。そんな私を遮るかのように2人組の男女がズカズカと大股で喫煙所に入ってきた。男の方は、背丈が190cmある私ですら見上げないといけないほどの巨漢で、一方の女はその男の横にいたのでだいぶ小柄には見えたが、それでも私と頭一つ分ほどしか変わらぬ程だったので、やはり世間一般の感覚からしたら規格外の体躯であった。加えてこの2人は極めて奇怪な出立であり、ビビットピンクに染められた髪は十字の形に刈り込まれ、重力に逆らうように立ち上がっており、所々キラキラと先のバンドマンの鼻についているのと同じようなシルバーの輪っかが満遍なく全身に付いたレザーのボディースーツを着用していたのである。この異邦人に完全に圧倒されてしまった私は、出しかけた右足をそっと元の位置に戻し、この男女の動向を静観することになった。
一瞬、この男女はバンドマンの特異な友人か何かなのではないかと考えたが、この巨体2人に迫られることに気がついた時の彼の顔は、友人や知人等に向けられるそれとは明らかに異なるものだったので、これはいよいよどういう状況なのかわからなくなってきてしまった。それに関しては当のバンドマンも同じだったらしく、近づいてくる2人組に対しひどく困惑しながらも何とかこの異様な状況を飲み込もうと努めているように見えた。
しかし2人組はそんな事は意に介さず、いよいよ男の目の前に立つと、ボソボソと二言三言何やら彼につぶやいた。
そして一刻、静寂が喫煙所を包んだ。私の煙草は、先程バンドマンのがそうであったようにすでにフィルターを残してその身全てを灰へと変えていたが、私はこの不穏な空気に当てられて、指一本動かすことができなかった。
というよりも、より正確に言うなれば私は自身の置かれたこの異様な状況に恐怖し、数分前の自分の行動を酷く後悔していた。意味のわからぬ理屈と意地で2本目の煙草に火をつけなければ、今頃私は駅前の安い中華料理店で炒飯と青椒肉絲をたらふく食らい、たいそう幸せな気持ちで帰路に着いていたであろう。
静寂に包まれた私の脳はオーバーヒート寸前になりながらも延々そんな後悔を繰り返し嘆いていたがその刹那、ゴリっという鈍い音と男の絶叫が不穏な静寂を一瞬にして拭い去った。
私の中で止まっていた時計の針は突如として動き出し、擦り切れそうだった脳は再び活発に動き出した。視線を喫煙所の端に戻すと、2人組は私が呆然と後悔に押し寄せらる前と寸分違わず突っ立っていたが、彼らの視線の先にいたはずのバンドマンは、そこから忽然と姿を消していた。が、直ぐに彼の行方は判明した。バンドマンの男は2人組の足元で顔を両手で覆い、苦しそうにジタバタと地面の上で踠いていたのだ。二人組の影のせいもあり、暗くてよくは見えなかったが、どうにも彼の顔を覆う両手の隙間からは何やら水のような液体が際限なく流れ出ているようだった。
その時、ロータリーをぐるりと周り発車したバスが丁度喫煙所の真横を通り過ぎた。バスのハイビームに喫煙所が照らされたその瞬間、全ては白日の元に晒され、そうして私はようやく気がついた。
バンドマンの両手の隙間から流れる液体は、水では無く、夥しい量の血であった。彼の鼻からは先程液晶に照らされてチラと輝いていたピアスが、というよりも鼻中隔自体が引きちぎられたように無くなっており、ぽっかりと顔の中心に穴が空いているような状態になっていた。どうやら血の濁流はこの穴から流れ出しているようであった。
そして、引きちぎられたピアスと彼の鼻中隔に当たる肉片は、仁王立ちする巨漢の指の先でゆらゆらと間抜けに揺れていた。
逃げなければという意志が、私の頭の内ではひっきりなしに飛び交ったが、意に反して体はその場から一歩たりとも動かなかった。
そうこうしている間に、しばらく地面で踠くバンドマンを眺めていた2人組は何やら手短に言葉を交わすと、くるりと向き直り今度はこちらに向かって歩いて来た。
腰は今にも砕けそうで、私は立っているだけで精一杯だった。私の両の耳たぶにも先のバンドマンと同様、銀色の輪っかが着いていた。私の耳も、先の男の鼻と同じ末路を辿る事は事理明白であった。恐怖で引き攣る頬に涙が伝った。
だが同時に、鼻の穴が一つになるよりかは幾分かマシだとも思った。自分でもよくわからなかったが、恐怖と諦めが混ざり、涙と共に乾いた笑いも込み上げて来た。
そうこう考えている間に、2人組はもう私の目の前に到着していた。私はいよいよ覚悟を決め、奥歯が砕けそうな勢いで歯を食いしばった。
また幾許か辺りを静寂が包み込んだ。しかし拍子抜けな事に、彼らは必死の形相で歯を食いしばる私を一瞥したのち、両の耳の輪っかを指でチョンと弾くと、”これはいい”と呟き、踵を返し出口へと向かって歩き出した。
極度の緊張から安堵へ。私の腰はついに砕け、めまいと共にそのままフラフラと地面に崩れ落ちた。
意識が遠のく刹那、出口付近の街灯に照らされ、一瞬彼等の顔が鮮明になった。横目で倒れゆく私を見ながら僅かに微笑んだ彼らの顔の、本来鼻があるべきその場所には大きな穴が空いており、その虚空に吸い込まれるように私は意識を失った。

寒気と溶けたコンクリートの匂いで私は目を覚ました。どうやら気を失っている間に気まぐれな雨雲が戻って来たようであった。全身が隈なく水気を帯びており、先ほどの寒気はどうやらこれが原因のようだった。私は頭を軽く2、3度降り、左手首に目を落とした。
時計の針は雨に打たれながらも寸分違わず動いていた。時刻は午後11時を回ったところだった。どうやら少なく見積もっても数時間の間、私は汚らしいコンクリートの上で無造作に転がっていたようだった。私は立ち上がり辺りを見渡した。喫煙所にも、駅前の広場にも人の気配は一切感じられなかった。先程の2人組も、倒れていたバンドマンの男も、もう何処にもいなかった。
一体どこまでが現実の出来事だったのか、もはや私にはわからなかった。一連の出来事は全て白昼夢の類、或いはパラノイア的症状による産物だったのであろうか。
私は暫く放心状態にあったが、ふいに思い立ち、先程バンドマンが倒れていたであろう場所を覗いてみることにした。コンクリートに僅かでも血の痕跡のようなものが見られれば、先ほどの奇怪な出来事が少なくとも現実で起こり得ていた証明になるのではと期待したからだ。
しかしその期待も虚しく、窪んだコンクリートに小さな水たまりが出来ている以外そこには何も見当たらなかった。

雨はより一層強くなり、冷たい風が濡れた体を悪戯に撫で上げた。先程まで心地よかったこの街の静けさは今では薄気味悪さすら感じさせ、寄生虫のような人々を、恋しくさえ思わせた。
私は、身震いを抑えながら煙草にどうにか火をつけると空を睨みつけ、そこに向けて目一杯煙を吐き出したみた。
しかし煙は力無く私の頭上を漂うだけで、雨雲に届くことは終ぞなかった。





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