はたらくこと、自由なこと

労働とは、奴隷が行うことである。

古代ギリシアの人間は、働くことを 「卑しい」 事と考えていたらしい。なぜなら、当時の労働者は戦争に負けた異国人ばっかりだったから。

「働かない事」こそが勝利 と自由の証であった。

そう、かつては勝者こそ無職(ニート)という選ばれし職に就くことができたのだ。ニートはピラミッドのトップに堂々と君臨していた。

その後、欧州ではキリスト教が発展。
神様に祈ること・働くことは尊いこと、と認識されるようになった。

12世紀以降は、新たな労働観が芽生えた。

スコラ学という、「理詰めでものを考える」学問スタイルが芽生え、「労働に対して報酬を受け取る」という、今では当たり前のやり取りも一般的に行われるようになった。

「労働」に関する大きな転換期は、やはり市民革命だろう。

これまでは王様や貴族が支配階級だったが、ブルジョワ(市民階級)が支配階級へ仲間入りした。産業の発達により、禁欲・勤勉の倫理が市民に普及し、勤勉に働くことが自らの生活を豊かにすると、多くの市民は信じていた。

そして産業革命が起こり、資本主義という思想・システムが生まれた。

人々や国は豊かになったが、「持つ者」と「持たざる者」の格差は深刻になった。そして、その反動として社会主義が台頭。戦後の米露冷戦の引き金となった。

***

2021年。
本日も資本主義日和なり。

私たちは、働く事を美徳とする傾向にあるものの、個々人がどのように考えようが自由だ。

古代ギリシアの特権階級のように働かずに生きられるなら、自由にニートをすれば良い。今の世の中、それで捕まることもない。

私は短い期間だが、社会に出てから無職を経験したことがある。仕事を退職した直後は「働かない自由」を謳歌した。ところが、1年は無職で生きていける貯えはあったにも関わらず、結局すぐに働き始めた。私にとって収入のない毎日を生きることは、片道切符で遠い国に行くような感覚に似ていた。自由を謳歌することはできても、二度と社会のレールに戻れない気がした。

そして、働いている今。
自分の意思で、はたらいている今。

やはり、時々、漠然とした不安を抱くことがある。
「このまま、この会社ではたらくことは自分にとって幸せなのか?」
「仕事中心ではなく、家族との時間を大切にすべきではないか?」

近代の哲学者であるサルトルは、不安に関してこのように述べている。

「人々は自由であるからこそ不安を感じる。何かを不安に感じるという事は、あなたは自由であるという事の証なのだ」

そう、不安を感じることができる、と言うことは自由の裏返しなのである。

無職であろうが、労働者であろうが、資本家であろうが、私たちは自由。

堂々とはたらけば良いし、堂々と働かなくても良い。

仕事がうまくいってなくても、皆んなが羨む仕事ができなくても、就きたい仕事に就けなくても、まっっったく問題ない。

あなたの価値とは無関係だし、あなたが自由であることに変わりはない。

「はたらくってなんだろう」

わたしにとって、はたらく事と働かない事に大差はない。

自分の意思で自由と不安を謳歌すること。
社会に参加すること。
ときどき、幸せを感じること。

もちろん、この質問に対する答えは人の数だけあり、どんな答えを持っていようと自由だ。

労働とは、自由な人が行うことである。



おしまい


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※このエッセイは、#はたらくってなんだろうのために書かれたエッセイになります。

参考文献
1) 人はなぜ働くのか - 古今東西の思想から学ぶ(橘木俊詔, 2010)


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