【哲学沼】人間は考える葦である。|「人間らしく生きる」を哲学で問う。
哲学者パスカルに言わせると
人生は「暇つぶし」で
そのための「気晴らし」が必要なのです。
どうも
安全・安心と絆でつながる
キャリアコンサルタントのタルイです。
いきなりですが
人間は考える葦である。
この言葉をご存知でしたか?
これはフランスの有名な哲学者
パスカルの言葉です。
葦というのは水辺に育つ、
か弱く細い草のような植物のことで
パスカルは著書「パンセ」の中で
人間は自然の中では
葦のように弱い存在である。
しかし、
人間は頭を使って
考えることができる。
考える事こそ
人間に与えられた偉大な力である。
とパスカルは述べてます。
ちなみに
俳優の吉瀬美智子さんは
いろいろと
考えされられる脚である。
と私が述べてます。
さて、
「人間は考える葦である。」は
パンセが生前書き溜めた
メモやノートをまとめた
『パンセ』に記されています。
パンセとは、
フランス語の「考える(pense)」
思想・思考といった意味を
示したものです。
パスカルの科学者目線で、
人間の思想や
心の動きを分析した言葉が
たくさん書かれています。
そこで今回は
パンセを読んでパスカルが
人間は考える葦である。
から「考える」に込めた意味を
さらに深く考察してみました。
▶︎パスカルはとんでもない神童だった!
ではまず最初に
パスカルについてご紹介します。
この世に神童と呼ばれた人は数あれど
Wikipedia上で神童と称されているのは
モーツァルトとパスカルだけです。
パスカルはなんと10歳になる前に
三角形の内角の和が
180度であることを証明する。
さらに若干16歳で
パスカルの定理を発見します。
などなど
生涯にわたり
「パスカルの〇〇」を
発見し続けます。
パスカルが少年の時に
教育熱心な父親は
一家を引き連れパリに移住します。
パスカルの家庭は
わりと上流の階級寄りで
パスカルは学校ではなく
家で父親から英才教育を受けました。
パスカルも働くことなく
自然科学一筋の研究に
明け暮れる毎日だったようです。
さて
世で天才と呼ばれた人は大体、
性格がヤバイ人が多いです。
それは私の天才への嫉妬が
そうさせるのか、
必死にパスカルの
裏の顔を調べましたが…
たぶんパスカルほど心の綺麗な
天才は他にいません。
当時1662年のフランスでは、
馬車は富裕層の乗り物でした。
そこでパスカルは
フランス国王ルイ14世から
営業許可を得て、
「5ソルの馬車」なる
乗り合い馬車の開業を計画します。
5ソルを払えば誰でも利用できる
現代で言うところの公共バスを
作ったのです。
パスカルは貧困の民衆を想う
事業家でもあったのです。
そんなパスカルの転機は
28歳の時に遭った
父親の死でした。
パスカルにとって、
父親は神の次に偉大な存在でした。
パスカルに研究が没頭できる
環境を保障したり、
学問の楽しさを教えてくれた
教師でもあったのです。
ある意味パスカルは
「早くちゃんといい子に育った」
人物で、
父親の死をきっかけにして
自分自身との闘いが
始まったかのようです。
そこでパスカルは
一時期社交界に
出入りするようになり、
人間についての考察に
興味を示したのです。
●パスカルの人間研究①
「人間はすべて幸福になろうとしている」
パスカルはとても
論理的思考の持ち主です。
情報を整理し筋道を立てて
考えることができる人です。
私はパスカルが
この結論に至った経緯で
おそらくパスカル自身が発見した
「数学的帰納法」を用いたと
推測しました。
数学的帰納法とは
よくドミノ倒しに
喩えられます。
数学的帰納法で
証明することは2つ。
❶n=1で成り立つ
❷n=kで成り立つとき、
n=k+1でも成り立つ
これを証明することで、
すべてのnが
ドミノが倒れていくかのように
次々に証明できるという方法です。
パスカルは社交界で行き来する
多くの人間を観察して
人間は幸福になりたがっている
ことを発見したのです。
さらに研究を推し進めて
パスカルはとんでもないことを
発見しちゃいました!
●パスカルの人間研究②
「人間には幸福になれる前提条件は含まれていない」
論理的な検証は
問題提起→前提条件の検証
→結論の順に行われます。
パスカルは人間の前提条件に
「幸福」が含まれているかについて
検討しました。
その結果は…
残念ながら「NO」だったのです!
その根拠とは…
パスカルのいう「自然」とは
人間の本性のことであり
仏教で言うところの「煩悩」です。
私たちの考える幸福とは、
「今ここ」にはない
他の何かの状態になりがちです。
自分が所有していない
何者かが所有しているものです。
自分ではない誰か
に変わることを考えたがります。
つねに幸福とは
そのような性質のものであるため
現在の自分と比較することで
悲しみと苦しみをもたらすのです。
これはつまり、
私たちが幸せにたどり着いたとき、
願望は、そのもう一歩先の
より完璧な幸せを作ってしまいます。
その結果が
いつも不幸を感じさせる。
パスカルもやはり
人間の欲望にはキリがないことを
結論としました。
▶︎パスカルの人間研究③
「人間は気晴らしがないと生きられない」
パスカルは人間には幸福の条件が
備わっていないことを発見した後に
不幸についても研究しました。
パスカルは
人間は何か気晴らしがないと
生きられないと述べました。
あなたも想像してみてください。
仮に仕事もなく趣味もない状態で
部屋に閉じこもっているとします。
気分が沈んでいきますよね。
しかし、
それでも人間は考えることを
やめることができません。
だから
何もしないでいると
思考が空回りするだけで
かえって苦しくなってしまいます。
ただ悩むだけです。
つまり
人間に気晴らしが必要なのは
「やがて訪れる
死の恐怖から目をそらし
死を忘れるためだ」
とパスカルは述べたのです。
これは私が
曲解しすぎかもしれませんが
パスカルにしてみると
仕事にやりがいを求めるのも
ただの気晴らしなんです。
私たちは今の仕事が
自分にとっての「適職」であるか
とても悩みますが、
これをパスカルに言わせれば
大局を見て小局をこなせば
仕事のやりがいはいらないのか…?
偶然に左右…って
適職探しの意味がないじゃない。
なんと!
私たちにとって大切な
「仕事のやりがい」も「適職探し」も
パスカルに言わせると
ただの「気晴らし」なんです。
私はパスカルに向いてない職業は
絶対キャリアコンサルタントだと思います。
まぁ、でもここまで断定させると
なんだか小気味よいですね。
「死ぬこと以外は全部かすり傷」
のように思えてきます。
さて、そうなると
「死」についても考えさせられます。
私たちは日々
「どう生きるか」
について考えてますが
「どう死ぬか」
については考えません。
先日「PLAN 75」を観ました。
少子高齢化社会が一層進んだ架空の日本で
満75歳から生死の選択権を与える
社会制度<プラン75>が施行される。
この制度に翻弄される人々が、
最後にどういった答えを見出すのか?
といった内容です。
かのスティーブ・ジョブズは17歳の時に
「毎日を人生最後の日のように
生きれば、間違いなく
最高の人生を送れる」
この言葉に出会って以来、
毎朝鏡を覗いては
「もし今日死ぬなら、
今日やろうとしていることを
本当にやるか?」
と自問自答する習慣があったそうです。
私たちは
人生の最終目的である
死に方から逆算して
生きることを
よく考えることが
必要なのかもしれません。
▶︎パスカルの人間研究④人は「自慢」しないと生きていけない
パスカルは、
人間の考えることは
常に自己愛によって、
ゆがんでいるとしました。
この自己愛は、
時に自慢や嫉妬や羨望を
生んでしまうのです。
「他人がイメージする
自分を良くしたい」
という思いが、
生きる原動力になっているのです。
人間は自己愛によって
現実をきちんと直視出来ない
ことも多いです。
耳の痛い真実は、
身分の上下に関係なく、
あらゆる人を傷つけるからです。
私はパスカルの
この言葉から現代のSNSが
頭に浮かびました。
SNSは基本、自慢の世界です。
「いいや自慢なんかしていない。
自分の苦しい胸のうちを独白している」
といった反論もあると思います。
しかしこれも
『不幸自慢』という
自慢の一種だと私は思います。
こんなことを書いてる私もです。
こうやってnoteに
本で哲学について知り得たことを
ドヤっと自慢してます。
ここは誤解なく伝えたいのですが
私はSNSなんか止めろ
と否定的なことを
書いているわけではありません。
いま自分は本当にSNSを
楽しめているのか?
私は過去に
この自問で立ち止まった
経験があります。
かつての私はSNSを
心から楽しめませんでした。
その当時はインスタ映えが
流行っておりました。
食べログ3.5以上の店を調べては
来店して写真を撮って
InstagramやFacebookに
アップすることを繰り返して
いたのです。
当時の私は
見栄えの良い料理に群がるだけの
蝿のような男でした。
フォロワーさんの投稿にも
「どうでもいいね」の意味を込めて
いいねボタンを押すだけの日々だったのです。
私たちは日常から
切り離せなくなった
SNSについて
もっとよく考える
必要性があるようです。
▶︎パスカルとデカルトは仲が悪かった
あの「我思う、故に我あり」で
有名なデカルトは、
パスカルと同じ時代に生きた
数学者でもあり、
そして哲学者でした。
全てを疑え!
近代哲学の祖とも言われるデカルトは
「理性」は生まれつき
全ての人に備わっているもの
と考えて
あえて全てを疑うことで
自分の存在を確かめる
方法的懐疑を生み出しました。
これが「我思う、ゆえに我あり」
のことです。
「私は考える、
だからこそ、
私は存在する」
という意味ですね。
デカルトは
真理を明らかにする方法として、
演繹法を提唱します。
そんなデカルトのことを
パスカルはパンセの中で
痛烈に批判してます。
おおっと!
一体、パスカルとデカルトの間で
何があったのでしょうか?
パスカルはデカルトの
「全ての問題は理性で解決できる」
という考え方に
「前提が間違っている」
と言いたかったようです。
というのも
熱心なクリスチャンであった
パスカルには
「神は理性だけではなく
心によっても
感じ得なければならない」
と考えていたからです。
演繹法には欠点もあります。
先入観や偏見に基づいた
間違った前提条件を適用する
ケースがあるからです。
これは特に
モラハラ傾向の人に多いです。
先に結論ありきで
その前提が間違っていることに
気がつかないのです。
例えばですよ
(妻は最近楽しそうだ)
(ひょっとしたら妻は
浮気をしているのかもしれない)
(と、妻を疑っている私は存在する)
(我思う、ゆえに我あり)
と、嫁の不貞を疑って
方法的懐疑する旦那は嫌ですよね。
全てを疑え!には
用量と用法があるのです。
ちなみにこのデカルトは
生涯独身でした。
ここで「整いました」ので書きます。
どちらも
理屈っぽい男が嫌いです。
パスカルやデカルトが生きた
この時代のヨーロッパでは、
科学が著しく進歩して
キリスト教に基づく世界観に
疑問の声が上がり始めていました。
そして人間の理性が、
世界の真実を明らかにするという思想が
急速に広まっていました。
しかし
世の中を冷静に見つめていた
パスカルには
「理性こそ万能だ」
という考えは危うさがあると
確信しているようでした。
モラハラが叫ばれる現代も
理性に基づく合理主義の限界を
意味していると
考えられないでしょうか?
哲学者で経営コンサルタントの
山口周さんは
「論理と理性で導き出したアイデアでは、
もはや差別化できない」
と自著で述べてました。
行き過ぎた合理主義とは、
つまりは自分の都合を優先する
思想ということなのです。
私たちは理性についても
もっとよく考える必要があるようです。
▶︎(結論)「人間は考える葦である」とは『よく考えろ』と言うこと
ここまでパンセの中から
「考える」についての
断章を拾ってみました。
幸福や不幸ついての「考える」
自己愛についての「考える」
仕事のやりがいや
天職についての「考える」
理性についての「考える」
私はこれら「パンセ」の中で
「考える」について書いた断章には
一貫するメッセージを感じました。
それはもっと
「よく考える」です。
こちらが人間は考える葦の
断章の全文です。
人間は一本の葦のような存在です。
自然の中では
最も弱い存在かもしれません。
しかし、
その葦は考えることができます。
そこに全ての尊厳があるのです。
全宇宙が人間を押しつぶそうとも、
人間は宇宙よりも気高いのです。
なぜならば
宇宙は自分がなんであるかを
知らないのに対して
人間は知っているからです。
人間は考えることができる時点で、
全宇宙の何よりも優位なのです。
だからこそ、
もっとよく考えよう。
と述べておるのです。
ひょっとしたら今あなたは
生きづらさを感じながらも
毎日を生きているのかも知れない。
私は現在、
哲学の歴史を学び直して
あることに気づきました。
人間はギリシャ時代の昔から
ずーと生きづらかったです。
その生きづらさは
社会で常識とされるものが
原因なのではないか?
現代でしたら
経済が資本主義
だからかもしれない
政治が民主主義
だからなのかもしれない
年功序列なのかもしれない
働き方なのかもしれない
円安なのかもしれない
これら常識を
一回本当にそうなのだろか?
とよく考えてみる。
この考えてみること自体が
もう哲学なのです。
哲学を考えることは
人生最高の「気晴らし」です。
頭の中だけで完結するので
コスパもいいです。
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