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ちいさな証し



 どんなにちいさくとも、神さまのしてくださったことには、感謝して、証しをしなさいと、いつか誰かの言葉を思いだしながら書いてみる。

 じぶんのことばかり語りたくない、と最近思う。語りたいのは、キリストのことだけ。言葉が表面的にならないように、じぶんが生きて、体験したことばを書きたい。けれどすべての行き着く先がキリストでなくては、書くことなど虚しい、とコヘレトの書みたいに思う。

 だからいまから書くのは、わたしの話というよりも、わたしの暮らしを恵みによって保ってくださっているキリストの話し、になればいいなあ。




 十年前、車の免許を取った。わたしは不器用で、過度に慎重で、じぶんは何も出来ない、と思い込んでいる子どもだった。それが変わったのは、十代の半ばに聖霊のバプテスマを受けてからで、それから挑戦することが、それまでほど怖くなくなった。

 十八になって、自動車学校に通ったのも、きっとそのお陰だ。あまりに恐れ知らずで、マニュアル車の免許を取ろうとした。クラッチがうまく踏めなくて、すぐオートマ限定に変えてもらった。教習を一回落とすごとに五千円かかるシステムだったから、初めの教習を二回落としてすぐ音を上げた。

 わたしのような人間が、なんとか免許を取れたのだって、神さまの奇跡だった。最後の高速実習のときに、レインボーブリッジを走りながら、教官に言われた言葉が忘れられない。

 「若月さんは、どうせあと五年は高速なんて乗らないでしょ」

 そう言って教官は、わたしに横浜の風景を堪能させてくれた。曇っていて、あまり美しくなかったのだけ覚えている。料金所に入ったとたんに、なぜかわたしは出口に向かってふらふらとしたらしい。

 「乗ったばっかりなのに、出ようとしないで!」

 という教官の悲鳴だけを覚えている。どうしてそんなことが可能だったのか、いまもよくわからない。状況がまったく読めなかったし、じぶんが何しているかもわからなかった。それで教官から賜った預言が、あれである。

 教官の預言は当たった。わたしがそのあと初めて高速を運転したのは、本当に五年後のことだった。そのときわたしは結婚していて、旅行先で頭痛を起こした夫の代わりに、ハンドルを握ったのだった。あのとき撮ってもらった、94kmという速度表示と一緒に、強ばりながら運転するわたしの写真がいまも残っている。そのときに思った、もう懲り懲りだと。

 そういう訳で、そのあと妊娠出産を経て、わたしはすっかりペーパードライバーに成り下がっていた。免許は (使わないから) ゴールドである。わたしが運転しなくても、他の家族がしてくれた。房恵には運転など出来ないだろう、とみんな思っていた。

 そう、そこで証しが始まるのです。あれは一年前の話し。いまのわたしは、運転出来るのです!

 去年の始めから、夫に運転を教えてもらうようになった。助手席に乗ってもらって、近所をすこしだけ。彼は運転だけでなく、教えるのも上手かった。教習所の教官になったらいいのに、と言ったけれど却下された。

 それから母に、義母に、代わる代わる助手席に乗ってもらって、わたしはこの一年、子どもを乗せて、色々なところに行った。駐車場で上手く停められないときは、運転を代わってもらいつつ。

 ずっと無理だと思っていた。事故を起こすかもしれないし、ぼんやりしたわたしは、そんなに集中出来ないと思っていた。けれど分かったのは、運転に必要な集中力は、だいたい通訳するときと同じくらいだってこと。

 「わたしを強めてくださるキリストを通じて、わたしは何だって出来るのです」

 という聖書の言葉を、頭に浮かべながら運転している。みことばの通りでしかない。わたしは何も出来ないけれど、キリストを通じてなら、しなくちゃいけないことで、出来ないことはない。いつも恵みが手を差しのべて、わたしを助けてくださる。

 ほんとうに必要なことだった。三十近くなって、いつまでも運転せず、夫や母に甘えている訳にはいかないし、ホームスクーリングで育てている子どもを、これからわたしは色んなところに連れていかなきゃいけない。

 運転出来るようになって、誰かにどこかに連れていってもらうのを待たずに、じぶんで好きなところに行けるようになったら、まるで羽が与えられたような気がした。まだ首都高とかはもちろん無理だし、駐車場が難しいところもだめだけど。

 「心に尽くして、主に信頼しなさい。
じぶんの分別に頼ってはならない。
いつも主を覚えて、
あなたの道を歩きなさい。
そうすれば、主はあなたの道筋を
まっすぐにしてくださる」

 というみことばを思う。運転出来るようになったのは、ほんとうに神さまのお陰だと。主に信頼して生きるのが、どれだけ素晴らしいかを、わたしはいま生きている。じぶんの分別、なんて大して持ち合わせていないけれど。

 


 これがわたしの証しです。せいいっぱい生きている、誰でもない人間の、ちいさな証し。それでもまだじぶんが多すぎて、書きながら嫌になっちゃったけれど、どうかキリストを、上澄みみたいに掬いとってください。

 




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