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28歳、今さら高校生活から学ぶ(古賀史健『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』)

数か月前、無事28歳になった。

つまり、高校を卒業してから9年と少しが経ったということになる。よく会う友人の多くがその当時からの付き合いということもあり、未だに自分たちが高校生だったころの話をする機会は多いし、まだ卒業してから5年くらいの気持ちでいた。実はその倍近く経っているというのに。

私が通った学校は中高一貫の私立校で、少し、いや結構変わった教育を実践している学校だった。机上の学びではなく、生活に即した実践的な学びを行うことを目的としており、だからこそ味わえた経験は数知れない(その分、いわゆる「普通」の女子高生に対する強い憧れもあったけれど)。

そんな学校生活の一部では、度々作文を書かされた。特に大きな機会としてあったのが、毎年の夏休みの宿題として課される「夏休み報告書」と、冬休みの宿題として課される新年の抱負だ。

どちらも、まずは50名程度のクラスの中で全員分発表し合い、自分たちで誰の作文が良かったか話し合い、代表者を決めて、代表者は全校生徒の前で発表するという習慣があった。さらに、その中でも特に良いとされた人の作文は学校の新聞に掲載される。

今思えば、多感な中高生に対して随分厳しいことをしていたものだ。みんな違ってみんないいとか、それぞれの表現の良さとか、そういうことは言わずに(もちろん部分的にはそういうこともあるけれど)誰の文章が巧いのか、はっきり決める。それも自分たちで。私は当時から特に巧い文章が書けるわけでもなく、だからと言って悔しさをばねに努力するタイプでもなく、ということは当然上達することもなく、でも選ばれる文章を書けないことを割り切ることもできなくて、この制度が大嫌いだった。

大人になって、誰かに義務付けられているわけでもないのにnoteを含むSNSにぽつぽつと投稿したりするようになって、またこのような時代に私以外にも似たような人が多いのか、書店でも「文章術」に関する本が目立つようになった。その中でも最近私の目を引いたのが、古賀史健の『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』だ(目立ったのは分厚さのせいもあると思う。持ち歩きたくないから家で少しずつ読んでいたらかなり時間がかかってしまった)。

こんなにそっけないタイトルだったので面白さは全く期待していなかったのだが、面白い。タイトルに「取材・執筆・推敲」とあるように、ライターが踏むべきステップごとにその心構えやポイントがまとめられている。タイトルのとおり教科書としても役に立つが、それ以前に読み物として、学びがスムーズに得られるから面白いのだと思う。私は普段「後からも読み返したい」と思った箇所に付箋を貼りながら読むのだが、付箋だらけになった。少しでも自分の文章を磨きたい人には、拾い読みでも良いのでおすすめの本だ。

中でもなるほどと思った箇所がこちら。執筆に関する章で、ストーリーについて書かれている。小説には当然ストーリーがある、というかなければ小説として成り立たないのだが、ここではそれ以外の、「論文的」な文章に関するストーリーについて。

 論文的ストーリーの鍵は、「起伏」ではなく、結末までの「距離」だ。
 導入から結末までの距離が、どれくらい離れているのか。つまり、どれだけ遠くから語り始め、無事に、また見事に、結末へとたどり着くことができるのか。その展開の妙にこそ、論文的ストーリーのおもしろさが宿る。

確かに文章を読んでいて、意外性があった方が面白い。というよりも、意外性のない文章なんて面白くない。

読んでいて思い出したものがある。高校の頃、同じクラスのMちゃんが書いた夏休み報告書だ。

何しろ10年近くも前のことなので細かい内容までは覚えていないのだが、Mちゃんは、夏休み報告書の冒頭で、突然青虫の話をし始めた。夏休み報告書なのに、夏休みの話をせずに唐突に青虫の話をし始めて、そこから手品のように鮮やかに、バングラデシュに行った話に移った。

バングラデシュに何をしに、誰とどのくらいの期間行ったのか、そこでMちゃんがどう思ったのかは全然覚えていない。でも、バングラデシュの話の導入として青虫は絶対に必要なものだと思ったし、私を含め大半の生徒が夏休みの出来事とその感想のみに終始する報告書を読んでいる中でMちゃんの夏休み報告書は際立っていた。当然、その年のクラスの代表はMちゃんだったし、ほかの全校生徒とともに2回目を聞いてもMちゃんの報告書は、特別面白かった。それは、ちっぽけな「青虫」と、「遠い外国での体験」の間にある距離の大きさ、その繋がりの意外さ、その距離と意外さを乗り越える説得力があったからだろう。

当時、「先生はどこにでも」という学校創設者が書いた文章を読まされて説教くさくてかなわない、そんなこと言われなくても分かっているなどと生意気なことを思っていたけれど、上手な人の作文が選ばれて発表する場が与えられている意味には気付かなかったし、考えたこともなかった。当然、人の作文を聞いて自分の作文に活かそうなんて微塵も思ったことはなかった。Mちゃんの作文も、「Mちゃんはすごい」で終わり。だから今まで思い出すこともなかったのだ。

28歳にして税込み3,300円払って買った本からやっと学んだことを学ぶ機会は、10年も前に与えられていたのだ。恥ずかしくて創設者と学費を払ってくれた両親に顔向けできない。

それともこれは、一生をかけて完結する教育なのだろうか?もしかして、今後も何かにつけて「そういえば中学生の頃のあれ・・・」「高校生の時の・・・」と、進研ゼミの広告で頻発するような効果があったりするのだろうか。

そうだとしたらすごい。そんなすごい教育を与えてくれた先生方と同級生、上下級生、両親に頭が上がらない。



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