花束みたいな恋をしている女子も、花束みたいな恋をした女も泣いた理由。
※大いに盛大にガツガツに何にも気にせず映画の感想をネタバレありで好き勝手語るので閲覧注意
恋愛映画はそもそも苦手だ。人様の恋愛眺めるのはむずむずして気恥ずかしい。そう思っていたのだが、後輩から「絶対にみた方がいい」と推されたのと、坂元裕二脚本だからそりゃあ面白いでしょうよ、という好奇心で観に行った「花束みたいな恋をした」。
金曜14:40の上映会、平日かつ鑑賞料金が安くなる日でもないし、そんなに混んでいないだろうとタカを括っていたら、甘かった。後ろのブロックはほぼ満席、左隣には中学生か高校生くらいの10代カップルが座り、右隣も中学生か高校生くらいの女子2人が並び、30代女性の私が1人挟まれる形となり、ちょっと気まずいなと思いながら着席した。
別れの予感は最初からあった。
序盤。偶然に出会い、少しずつ惹かれあい、不器用に近づき、幸せな時間に浸る二人が描かれ、恋愛の美しいところや素晴らしいところだけを抽出し凝縮されていた。言葉の端々に覗く相手の感受性にときめき、自分だけの疑問だと思って胸に秘めていたことを相手も持っていることに歓喜する主人公たちを観て、同じ体験も感性もないのになぜか「わかる」としか思えない。(あと有村架純と菅田将暉の、一般人の演技が上手すぎる。あんな美男美女に自分や過去を投影できてしまうのは左脳ではありえないので、右脳に訴えかける力がすごいと思う)。
でも最初から、どことなく別れの予感はするのだ。
そもそも「花束みたいな恋をした」ってタイトルからして過去形っぽいし、現在から遡って映画は始まるし。ヒロインが影響を受けたブログのタイトルは「恋愛生存率」だし。恋の始まりにキュンキュンしながら、昇っていくジェットコースターに乗っているかのように、いつガクンと急降下するのかと観客はハラハラしながら観ざるを得ない。
実際には、急降下するような別れはない。もっと湿っぽくリアルで、環境の変化がそれぞれの性格を変え、少しずつすれ違い、積もり積もった不満で修復が不可能になり、別れが「やぁこんにちは」と顔を出す。ごくごくありきたりすぎて、悲しいかな目を細めながら共感してしまう、どちらが悪いとも言えない自然な流れだった。
花束みたいな恋をしている女子の号泣。
私が「ん?」と思ったのは、別れを決意したはずなのに、それでも抵抗する麦のシーン。「俺たち、こんな未来だってあると思うよ。想像できるもん」と絹と家族になった未来を語り、別れたくないと悪あがきをする麦。(うわ〜、あるよね、こう、別れようと思ってたはずなのに先延ばしにしたくなること…)と半ば憐れに感じていたとき、大きめのすすり泣きが聞こえてきた。しかも、両隣の女子、どっちからも。
「ええ、ここ泣くとこ?!なんでここで泣くの!?」とアラサーの私にとって純粋な疑問であり、ガツンと殴られたかのような衝撃だった。後々考えてみたら、このシーンの自分の感想は「あるある〜」と冷めきったものだったが、おそらく10代の彼女らにとっては、現在進行形〜遠くない未来を想像させる出来事として見えており、今まさに「花束みたいな恋をしている」のではなかろうか、という結論に思い至った。
現在進行形・未来のシーンだと思って、自分たちに訪れるかもしれない現実を儚んで悲しんでいるか、過去のシーンとして「はいはいあるある〜」とありふれた出来事と捉えているか。現実を儚んだ、人生という物語を主人公として生きるうら若き彼女たちだから、ここで泣いていたのではないだろうか。私は思わず左手薬指の指輪の感触を確かめた。恋物語の中心に生きる彼女たちが遠い。もう私は、彼女たちの感覚には戻れない。同じ作品を同じ時に観て同じ空間にいるのに、その瞬間果てしない距離を感じた。
花束みたいな恋をした女が泣いたのは
10代の女子たちは別れ話のシーンで大号泣していたが、私にとってはラストが一番号泣したシーンだった。出会いも別れも、全て肯定された、と感じたから。というのも別れのクライマックスに胸打たれたし、そこからラストへの流れは本当に美しかった。
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別れ話をしていると、皮肉にもかつての自分たちとそっくりな大学生らしきカップルに出くわし、その甘ずっぱい空気とみずみずしさに直面して、絹は泣き崩れてしまう。言葉にならずに泣きじゃくる絹と麦の心の声を代弁するなら「あんなに幸せだったのに」という一言じゃないかな、と私は推測した。
あんなに幸せだったのに、今こんなに辛い。
あんなに幸せだったのに、二人でいてももう幸せじゃない。
あんなに幸せだったのに、二度とあの頃に戻れない。・・・的な。
(余談だけど、あんなに心の内や思想を饒舌に語るのに、ファミレスを飛び出して泣きじゃくる絹と力強く抱きしめた麦の心情は一切語られないの、よかったなぁ。こんなふうに想像の余地を残してくれたことで、一段と味わい深く観られました)
別れ話をして、再会してもカッコつけてさよならできるくらいには良好な関係で別れ、えーっこの映画どう終わるんや・・・と思っていたところで、Google Mapに一番幸せだったころの二人が偶然載っている、というラスト。ここです、アラサー女が号泣したシーン(ちなみに両脇の女子たちはちっとも泣いてなかった)。間違いなくたしかに、二人は幸せだったこと。とても楽しそうな彼、そして私。よく晴れた気持ちいい午後、あぜ道を歩きながらおいしいねって一個の焼きそばパンを二人でかじって並んで歩いた日々があったこと。その瞬間が花束みたいにみずみずしく、Google Mapの中でずっと生き続けてること。今の自分がそれに出くわして、思わず笑ってしまったこと。あの日から、あの二人から、今が地続きにつながっていること。幸せな一瞬が半永久的に世界の一景色として残ることで、幻のようになってしまった幸せだった日々が、別れも含めた日々が肯定された気分になって、それが本当にすがすがしくって。私はこのシーンで、主人公の気持ちと重なることができたんですよ。花束はどんなに手入れをしても枯れてしまう。ただ、花が咲いている美しさはほんのひとときでも、確かにそこにあって、キラキラしている。想像の中で咲き続けて、一生に刻まれる。だからこの恋を「花束みたいな恋」だと表現したんかな…。別れさえ美しく肯定してくれたラストシーンで、花束みたいな恋をした女の涙腺が決壊した。
いろんな世代のツボをぐいぐい押す、
ターゲットを絞らないラブストーリー。
この映画、末恐ろしい。これは「ターゲットを絞らないラブストーリー」だ。通常、恋愛映画は主役カップルに感情移入できるとか、関心が持てるとかでターゲット層が狭まってしまうと思う。でも本作は、会話劇の妙やクセの強いキャラクター(さすがは坂元裕二様)、幾重にも仕掛けられた恋愛経験の思い出を紐解かせる展開やトラップで、世代を問わず楽しめるつくりになっていると思う。観ていると何度も色んなツボを押されてしまうからこそ、あんなに映画館が混んでいて、みんな「自分のための映画だった」と思ってしまう魔力があるんじゃないだろうか。知らんけど。
エンドロールを観終えてひとしきり泣いた私は、ふと左隣のカップルをみた。若いカップルの男の子は、右手にシルバーリングをしている。映画館を出たところでは、学生女子グループの立ち話が聞こえる。「泣いちゃった、私」「泣いたの?よくわかんない」と探るように感想を言い合う。夕暮れどき、オレンジの光が優しく中洲に降り注ぐ。優しい光に包まれて、建物の影は深く、風景がセピア色の写真のように見えた。多摩川の代わりに、私は中洲の川をみて、映画を思い出してまたちょっと泣いた。遠い昔に花束みたいな恋をした人にも、これからする人にも、ぜひ観て欲しいなと思う。
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