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【出典なし】右翼(保守)と左翼(革新→リベラル)の違いはどこから生まれるか

こんばんは、飛び亀です。
この夏の暑さにやられきっています。

その割に今回は、いつもより俄然重いテーマかもしれませんが…
いわゆる政治的右翼や左翼という考え方について、どうして2つの考え方の違いが生まれるのかというお話です。

先に明確にしておきますが、この記事では、右翼や左翼やリベラルや保守について良い悪いとか賛同や批判といった評価について述べるつもりは一切ありません。2つの考え方の根底にある考え方や価値観、その共通点と相違点を考えていきます。

結果的に、皆さん自分が「どちら寄り」なのかを感じることになるかもしれません。しかし大事なのは、自分が「どちら側」かだけではないのです。中立的な視点と相手側の視点をも知っておく、俯瞰的な視野も重要です。

結論、今回の記事は「相手のことを知ったうえで自分の主張をする」、その手助けになればという意図で書いていきます。

ただし、何の出典も用意しておらず、あくまで私の考えの羅列になります。それを踏まえて、あまり信じ過ぎないようにしてください。たぶん反証はいくらでも出てくる内容になっております……


<はじめに> そもそも政治的な話題はリスキーである

しかし、今回の記事は今までになくリスキーですね。これは、書き手である私にとってリスクが大きいという意味です。

どうしてって、今の社会で政治の話題に首を突っ込むと、ろくなことがありません。炎上したり、炎上したり、炎上したりします。怖いですね。

でも本来なら政治の話ってとても大事なことで、学校でも習ったとおり、我々のような一般の国民が参加し、意見を出してこそ良くなっていくものです。確かに国会議員は我々の手で選挙で選ばれていますが、国民の明確な意志を伝えるには言葉を使うことが一番ですよね。

しかし、政治的な話題がリスキーなのは、考えてみれば国の上層部(国会・内閣・裁判所)のせいではありません。投票率が低いのは、「誰が上に立っても変わらない」という上層部に対する諦観から来ていると言われています。ところが、政治的な話題がすぐ炎上するのは、それとはあまり関係がありません。炎上させるのは国民同士です

早い話が、議論が下手なのです。「この政策はああだこうだ」と意見を述べ合うことは国民にとっても大切なことのはず。しかし、どうしてか気付くと罵り合いになったり、人格否定になったりしているのをよく見ます。そうでなくとも、相手の意見をほとんど飲み込めず議論が平行線に終わるか、もっと悪ければお互い勝ったつもりで幕を閉じます。

これがどうして起こるのか
ここがとっても大切なのです。人間の性とか言ってる場合ではありません。
ここが分かっていない人(それが右翼だろうが左翼だろうが)が多いと、政治は何も良くならないんじゃないでしょうか。

そんなわけで、今回はどうして右翼と左翼の考え方の違いが生まれるのか。それについて考えてみます。

1. 右翼と左翼の違い

この記事での右翼と左翼

ここで右翼と左翼という言葉の意味を確認しておきましょう。

右翼とは、「保守的」な政治的思想・意見(イデオロギー)をもつ一派(政党)のことです。かつてどこかの国で議場の右翼側に座っていたことから、そう呼ばれています。

一方の左翼は、かつては「革新的」な政治的思想・意見(イデオロギー)をもつ一派(政党)でした。いわゆる共産主義・社会主義政党がその代表とされていました。少なくとも私が小中学校で習った頃はそうでした。ところが近年、気付くと左翼は「リベラル(自由主義)」に置き換わっていました。その成り行きは色々な文献にありますし、今回の本筋ではないので特に触れません。

今回は現代、いまの右翼と左翼の考え方について書いていきたいので、この記事における「左翼」はいわゆるリベラルとされる立場の人たちを指していると考えてください。同じく「右翼」は保守的とされる立場の人たちのこととします。政党所属とか支持政党も問いません。

もう少しだけ具体的に見ていきましょう。そうすると、考え方の違いとその理由も見えてきます。
※ただし例に出すのは極端な例で、当然ながらもう少し間を取った考え方の人がたくさんいます。

例1 原発再稼働に対しての意見

右翼の多くは、原発の再稼働推進派と思われます。
その理由として、主に私が聞いたのは以下のようなものです。

今まで原発で電気を賄ってきていたのに、それを止めたら現代社会に必要な電力供給に追いつきません。現に、電力供給不足がたびたび問題になっている現状があります。また二酸化炭素等の排出が大きい火力発電所等と比べれば、今の自然環境に与える影響は原発の方が小さいと言えます。

出典は飛び亀の脳内右翼

逆に左翼の多くは、原発の再稼働反対派と思われます。
その理由として、主に私が聞いたのは以下のようなものです。

福島第一原発事故で見たように、事故が起きたときの影響が甚大すぎます。地震大国の日本で同じような事故が二度と起こらないとは言えません。直接的な事故がなくても、放射性廃棄物の類は天文学的な年数の間、自然環境に影響を与え続けます。よりクリーンな代替エネルギーを探せばよいのです。

出典は飛び亀の脳内左翼

繰り返しになりますが、どちらの意見が筋が通っているとか、(皆さんの感じ方は自由ですが)私はここで述べるつもりはありません。また、実際には多くの人が、もう少し間を取った意見を述べています。

間を取ったせいで余計にぶつかるポイントが増えたりもしていますが(お金の話とか)。

例2 対諸外国と戦力配備、憲法改正に対する意見

私の脳内右翼はこんな感じです。

どう見ても今の中国は危険だ。戦争にならないように、中国の圧に対抗しうる戦力の配備は必要だ。そのためにも憲法改正が必要だ。経済的にも、日本が損しないように立ち回るべきだ。

飛び亀の脳内右翼

一方、私の脳内左翼はこんな感じです。

戦力配備、憲法改正のような諸外国に対する刺激の大きいことをすれば、結局また戦争を引き起こす可能性がある。武器によらない外交的解決を模索するべきだ。日本だけが得をするようなことを考えてはならない。

飛び亀の脳内左翼

ちょっと(だいぶ)双方ともズレているかもしれませんが、あくまで例ですのでご理解ください。。

例3 教育に対する意見

脳内右翼

今の子どもたちは愛国心を育むべきだ。日本という国を、あるいは地元を好きになるような教育を取り入れていこう。特に歴史における自虐史観などもってのほか。事実をしっかり洗い直して伝えていくべきだ。

飛び亀の脳内右翼

脳内左翼

子どもたちが何を愛するかは自由だ。愛を押し付けるような教育などもってのほか。歴史においても、少なくとも戦争の悲惨さ、繰り返してはならないことを学ぶために必要な内容を削ることは許されない。

飛び亀の脳内左翼

最近この話題がしぼんできているように思うのですが、教育畑出身の飛び亀としては、教育についてもしっかり議論を続けてほしいものであります。

2. 根本にあるのは「日本を好きか嫌いか」ではない

口喧嘩の温床

さて、こうした例を見ていくと、特に例2,3あたりで日本という国に対する思いが見て取れますよね。

ともすると、右翼は保守という名の通り、日本が好きで日本を守りたいという考え方に見えます。かたや左翼はリベラル(自由主義)の名の通り、日本に縛られず外の世界を中心に見ているように思えます。

しかし、このあたりがお互いの勘違いポイントです。ここで議論が止まるというか、下手をすればここが人格攻撃の温床になっているんですよね。

左翼に対して、あいつらは日本が嫌いで滅びてもいいと思っているんだと思い込む右翼。右翼に対して、あいつらは日本が好き過ぎて他に愛するものがないんだと思い込む左翼。

酷いもんです。議論ではなく口喧嘩をするから、そういう言い合いになるのです。ネット上は極めて議論に向いていない場でもあるので、SNSや匿名掲示板でちょっと感情的になるとこうなります。そして、その喧嘩を口実にして、相手に対しレッテル貼りをするのです。それがさらなる諍いの元になっていきます。

非常に悲しいことに、これが現代のウヨサヨの姿です。
では、本当は何が違うというのでしょうか。

「好き嫌い」と「価値観」

本来、たかが好き嫌いが原因であれば、これほどまでの喧嘩には発展しません。「ピーマンが好きか嫌いか」「◯◯のキャラクターが好きか嫌いか」で喧嘩をしたところで、好き嫌いは変えられないものです。「日本を好きか嫌いか」も同様。

人間同士のズレと争いを起こしやすいのは、実は価値観の違いです。価値観とは、何を大切にするか、何を良いと感じるか、何を正しいと思うか、その基準となるものです。好き嫌いより見えづらく、ぶつかり合ったときに「相手を変えられるんじゃないか」と思ってしまいがちなのです。

ところが、この価値観というのも好き嫌いと同じく、人と議論したくらいではそうそう変わりません。本人の育ち、環境など色々な経験に紐付き、作り上げられてきたものだからです。

そして、右翼と左翼の根本的なところに、とある価値観の違いがあると思われます。それは、「何を守りたいか」の価値観です。

3.今を守るか、未来を守るか

守りたい、大切にしている軸

「何を守りたいか」と言われると、まず「家族」とか「自分の時間」などの具体的な事物が浮かぶと思います。ただ今回は、もう少し曖昧で抽象的な、「大切にしている軸は何なのか」という価値観についてのお話です。

例えば、一言で「家族が大切」と言っても、その「大切にしている軸」の違いによって行動が変わることがあります。

よくあるのは、娘さんのいるお父さん。
彼氏ができたという娘に報告に対し、娘の成長と将来の希望への喜びを感じる父親と、娘が家庭を離れていくのかもしれない(物理的でも精神的でも)という不安や恐れを感じる父親。前者は家族の変化や将来性をも大切にしているわけですが、後者は今の家族が変わってしまうことを恐れている=今の家族の形を大切に思っていたということになります。

逆に、小さいお子さんの将来を案ずるお母さんもよく見かけます。
将来のために今は少し大変な思いをしてでも習い事(ピアノやスイミングや幼児教室など)を頑張ってもらおうと、子どもに英才教育をほどこす母親。将来どうあろうと今を伸び伸びと過ごさせてあげないと可哀想だと、特に早期教育はさせない母親。同じく前者は子の将来を大切にしていますが、後者は子の今を大切にしてあげたいという思いです。

どちらも自分の家族や子を大切に思ってはいるのですが、将来を守りたいのか今を守りたいのか、大切にしたい軸が異なると、いざというときに行動が変わってきます。これが価値観です。

もちろん、ほとんどの人は極端な価値観をもっているわけではありません。常に将来を大切にする、常に今を大切にする、そんな人はそうそういないでしょう。両取りできるものなら両取りすると思います。

先に述べておきますが、相手の価値観を極端だと思っていると、よりすれ違いは深まります(それが人間心理の性ではありますが、抗いましょう)。保守もリベラルも、相手が本来は中庸に近いのだと考えて語り合うべきです。

「保守」――「今、目の前の現実」を守るという価値観

とはいえ、人間は何らかの価値観をかち、多少なりとも偏っているものです。そうした価値観の1つに「今を守りたいか」「未来を守りたいか」の軸があります。この軸=判断基準=価値観がどちらに寄っているか。目の前に選ばなくてはいけない選択肢があるとき、それは人の行動を決める要素の1つになります。

そして、右翼すなわち保守という考え方には、この「今を守りたい」という価値観が大きく関わっていると思います。保守という名の通りかもしれません。

例えば、例1に挙げた原発再稼働の問題について。

の電力不足を補うには、最も効率的な選択肢である原発を使う以外にない。確かに永く将来にかけて放射性廃棄物は残るけれども、大切なのはまず今の私たちが良く生きること。未来のために今を犠牲にしては意味がないと考える。

飛び亀脳内右翼

私の、私たちの今を守りたい。あくまで選べと言われたら、あてのない未来よりも今を守るべきだ。この価値観に基づいて考えれば、こうなります。

例2、例3についても以下のような考え方になると思います。

例2
、明らかに軍事的な危険が迫っている。今、私たちが戦争に巻き込まれないためには、多少の武装強化もやむを得ない。また仮に将来のためであろうが、今、日本が損をしてしまっては今の私たちの生活に影響が出る。そうならない手段を取るべきだ。

例3
子どもたちが後々何を学ぶかなんて分からない。、日本を嫌いになるようなことを教えたら、生涯そのままになってもおかしくはない。今のうちに日本を好きになってもらうべきだ。

飛び亀脳内右翼

※もう一度確認しますが、この記事ではこうした考え方、思想の良し悪しは何も評しません。そう思われないように文面を書いているつもりですが、どうしても読み手の皆さんに委ねられますので、正しいとか正しくないとかいう思いが湧いてくるでしょう。それは自然なことです。が、今回、それはいったん脇に置いておいてください

以上のように、右翼(保守)は何らかの選択を迫られた際、今という現実を守る、大切にするという価値観に沿って判断する傾向にあります。端的に言うのならば「現在主義」そして「現実主義」であるとも言えるでしょう。今既に目の前に、この手に得ているもの、そして「ここにあるもの」を守りたいという価値観です。

「リベラル」――「未来の理想」を守るという価値観

一方、左翼すなわちリベラル(自由主義)という考え方には、「未来を守りたい」という価値観が大きく関わっていると思います。

例えば、例1に挙げた原発再稼働の問題について。

未来の自分、あるいは子孫にダメージを残していくような手段は取れない。確かに今の電力不足で私たちへのダメージはあるかもしれないが、大切なのは未来により深い傷を残さないこと。今現在のために未来を犠牲にしてはいけないと考える。

飛び亀脳内左翼

私たち自身の未来、あるいは未来の人間たちを守りたい。あくまで選べと言われたら、今を苦労してでも未来を守るべきだ。この価値観に基づいて考えれば、こうなります。

例2、例3についても以下のような考え方になると思います。

例2
武器を取っていがみ合うような世界が続くようでは、自分たちの将来も安寧とは言えないし、未来の世界もずっといがみ合うままだ。このままではいけない。多少リスクを冒しても、より平和を目指せる可能性を取るべきだ。

例3
大事なのは子どもたちの未来だ。日本を好きになろうが嫌いになろうが、今は構わない。教育は将来の世界将来の子どもたちがより幸せに生きるために行われるべきものだ。

飛び亀脳内右翼

※再三の確認になりますが、この記事ではこうした考え方、思想の良し悪しは何も評しません。もちろん、読み手の皆さんには「どちらの方がしっくり来た」という感想が生まれたことでしょう。それは自然なことです。が、今回、それはいったん脇に置いておいてください

以上のように、左翼(リベラル)は何らかの選択を迫られた際、未来の理想を守る、大切にするという価値観に沿って判断する傾向にあります。端的に言うのならば「未来主義」そして「理想主義」であるとも言えるでしょう。目の前に、この手の中にないもの、「まだここにないもの」を手に入れたい、生み出したいという価値観です。

4.相手の価値観をリスペクトするということ

一長一短

賢明な皆さんはお気づきかと思いますが、それぞれの価値観については、だいぶ両極端な説明の仕方をしました。だから、良いところも悪いところも見えたのではないかと思います。

その一長一短をまとめていきましょう。

右翼のもつ現在主義・現実主義の価値観傾向は、まさに今を生きる私、私たちが幸せであることを重視します。今ここにあるものに幸せを感じ、大切にする。未来という不確定変化のために、むざむざと今を切り捨てるべきではない。そもそも、極論ですが「現在」が滅びてしまっては「未来」など存在しないわけです。

一方で、この価値観が極まると、「今を生きる私」さえ良ければいいという考え方に至ります。日本さえ良ければいい、私の身の回りの人さえ幸せならいい、私さえ幸せならいい。これは、ものすごく刹那的な生き方に通じていきます。一寸先の未来さえ考えないようになってしまえば、その幸せなど一瞬で失われるのが人間社会です。「私さえ良ければいい」人間は、必ず別の人間に邪魔されますからね。これは国に置き換えても同じことです。

さて、左翼のもつ未来主義・理想主義の価値観傾向は、将来の私、私たち、あるいは子孫までも幸せであることを重視します。未来に理想を描き、より良い生活を、社会を作っていこうとする。今現在の幸せのためだけに、理想を捨てるべきではない。これも極論ですが、「今」は一瞬で過ぎ去り、何もしなければ「今の幸せ」は明日にでも終わってしまう可能性があるのです。

一方で、この価値観が極まると、「今の自分」なんてどうでもいいという考えに至ります。これは将来のためだ、と無茶をする。自分が無茶をして痛い目を見るならまだしも、人を巻き込む、国を巻き込むことになったら話が違います。リスクを正しく捉えられなければ、リターンなどありません。将来の幸せどころか、真逆に近い「破滅主義」にすら近づく可能性があります。

結論、やっぱり両極端はいかんよという話になるわけです。

価値観はそう簡単に変わらない

しかし先述したとおり、一度根付いた価値観というものは、よほどのブレークスルーでも起きない限り逆方向には動きません。そして、ネット上の議論がブレークスルーを引き起こすことはありません。ハッキリ言って、SNS上のやり取りなんてその程度のものです。

ネット右翼とネット左翼は、互いに相手の価値観を変えてやろうと言い合って(書き込み合って)いるわけですが、その目論見がかなうことはありません。あろうことか、自分の意見が負けないように補強に補強を重ね、結果として自身の価値観が両極に寄っていくのです。そして、それは現実に、色々と良くないことを巻き起こしています。

相手が違う価値観をもっていると知ったとき、それを変えることはかなわないと悟りましょう。では、右翼と左翼の議論そのものが無意味なのでしょうか。

実は、そういうわけでもありません。

価値観が異なる相手は、自分に無いものを持っている

議論の前に、まず大切なこと。

それは、自身の価値観には一長一短があると知ることです。そうすると、自分の価値観から生まれる様々な「意見」には穴があることに気付くはずです。

では、相手はどうか。

あなたが右翼寄りの価値観なら左翼寄りの価値観の人、あなたが左翼寄りの価値観なら右翼寄りの価値観の人の意見をよく読んでみましょう。その人は、自分とは異なる一長一短をもっており、その人の意見穴だらけです。自分には空いていない穴なので、特によく目立つでしょう。

人間心理からするとここで叩きに走りがちなのですが、それが間違いだったのです。相手の意見は、実は自分の穴を埋めるのに適したものかもしれません。

そう。右翼と左翼で意見を交わすと、価値観が違うためにどうしても異なる意見があがってきます。しかし、その意見はお互いの一長一短を埋める内容になっているはずなのです。つまり、左翼側の意見には「現実主義者には欠けている理想や将来像」が含まれています。一方で、右翼側の意見には「理想主義者には欠けている現実的視点」が含まれています。

現状、この「お前の意見はこれが欠けている!」「あんたこそ欠けている!」のやり取りで終わってしまうのが、右翼と左翼の諍いではありがちな結果です。お互い欠けていることを指摘し合って、それで終わり。

下手をすれば欠けているものを補うために、偏った意見補強をし続ける。こうなると価値観すら薄れていき、「ただ勝つためだけのハリボテ」みたいな意見が生まれたりします。こういうものを見かけたときは、細かい理論武装は無視して、相手の価値観本体に探りをかけるべきだと思います。

しかし、仮にこれが逆であれば、誰もが炎上もせず、政治的な話をしやすくなるのではないでしょうか。

つまり、相手は自分には欠けている意見を持ってきてくれていると考える。価値観の違う相手をリスペクトするというのは、こういうことではないでしょうか。

あなたが右翼的、現実主義的な価値観を強くもつ人間だとすれば、左翼的、理想主義的な人間の語る理想をつまみ食いして、自身の考えを補強すればいい。あなたが左翼的、理想主義的な価値観を強くもつ人間だとすれば、右翼的、現実主義的な人間の語る現実をつまみ食いして、自身の考えを補強すればいい。

そこには、相手が自分にないものをもっているという認め合いがあります。元来、議論というものは、そのために行われるものです。(レスバトルはレスバトルとして自覚的に行えればいいのですが、ネット上は不特定多数が見ている場。それがプロレスだと気付かない者がどうしても現れます。文字だけですからね。だから、ネットは議論に向かないのです。)


まあ、右翼と左翼の議論に対して「かくあるべき」と語ったところで、あまり意味があるとは思いません。

ただ、右翼と左翼のやり合いは、ここまで述べてきたような「価値観」の違いによって生まれているものだということ。だから、すれ違うのは仕方がないことなんだということ。上辺だけの理論武装に誤魔化されないでほしいということ。

このあたりを私の思いとして綴って終わりにしたいと思います。
これが分かっている相手であれば、別に政治的思想が右でも左でも、どちらであろうが仲良くなれるものですよ。

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