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想いを言葉にすることなんて

こんばんは、こんにちは。
飛び亀です。

曖昧なタイトルで申し訳ありませんが、今回は「自分の想いを言葉にすること」の功罪、すなわち良い点と悪い点を考えてみます。

どちらかというと良く聞くのは、「自分の想い(考えや気持ち)を言葉にするのが良い」というお話ですよね。
もちろんその通りだと思う一方で、私は「物事には裏表がある」と考えるひねくれ者でもあります。

言葉にした方がいいことも、言葉にしなくていいこともある。
そんな観点で少し考えていきます。

言葉にすると、なぜ気持ちが晴れるのか

心理学的にも教育学的にも、自分の想い(考えや気持ち)を言葉で表現することは大切とされています。

カウンセリングは、抱えている悩み・不安・その他諸々を言語化することでカウンセラーと共有でき、それが気持ち等の変化につながっていく、という面があります。(それが全てではありませんが)
子どもの教育においても、自分の考えていることを言葉で伝えることは勉強的な意味で、あるいはコミュニケーション能力という意味で重要とされる時代です。

つまり、「言葉のおかげで人に伝えることができる」。だから「想いを共有できる」。これは人の心を楽にします。それに、コミュニケーションの取れる人は、他者からも信頼されます。プラスの相乗効果です。

コミュニケーション能力、本当に欲しいですねぇ……(切実)

また、自分の想いを言葉にすることで、自分で自分のことを理解・納得できるようになる、という面もあります。扱いきれないモヤモヤが言葉になった途端、自分で扱える感情になったりすることもあるようです。
単純な「悲しい」「つらい」「悔しい」だけでも。

モヤモヤの正体がわかり、自己制御できるようになる。特別支援教育などでは、特にこの点重視されているといいます。怒りを暴力でなく、言葉で伝えられるようになる、とか。

想いを言葉にすることは、「人に伝えて共有できる」「自分で自分の想いを理解し、制御できる」という点から、対ストレス効果というか、精神的成長と安定につながる、気持ちが晴れることにつながる。
まあ間違いはないと思います。

思いますが……

言葉の意味、言葉の力

ここで一旦、ちょっと言語学的……文化学的……いや哲学的なお話から、「言葉にする」とは何なのかを考えてみます。

結論を先に言えば、言語化とは線引きであり、区切りであり、枠付けであり、都合のいい答えを出すことです。
※悪意ある書き方ですね(笑) 別に言葉にすることは悪、って言いたいわけではないです。

心の問題には一見関係なく見える話ですが、よくある例として「虹は何色か」というのがあります。日本では7色(赤・橙・黃・緑・青・藍・紫)というのが半ば常識ですが、これは国によって違います。

ウェザーニュースによると、アメリカは6色だそうです。藍がないとか。これはもちろん、アメリカの虹の色数が少ないって話ではなく、色の線引きの問題です。

……だいたい日本人も藍色ってどんな色なのか、青や紫との境目はどこか、とても曖昧な色の1つなんじゃないかと思います。少なくとも私は分からなくてですね……

ともかく、「藍色」という言葉があるから、色に線引きが生まれるわけです。

そもそも虹は本当は何色あるかと言えば、物理的にはたぶん無限大です。最上部の赤と、ほんの数mm下の赤は、ほんの少し違う色味のはずです。
それでも日本語では、一緒くたに「赤」と括ります。(赤にも紅色とか朱色とかあるけど)

色に限らず、名前を付けること、すなわち言葉にすることは線引きであり、区切りです。

紙切れに「1万円」と名付けることで、他の紙切れとは異なる大変な価値が生まれます。

学校で会った子に「友達だ」と言う(心の中でも可)ことで、他のクラスメートとは違う人間関係になります。

特定の異性に「付き合ってください」「いいよ」と言うだけで、唯一無二の関係が生まれます。(そんな簡単ならいいんですが)

自分のモヤモヤした感情に「ああ、これは『悲しみ』なんだ」と名付けること、言葉にすることは、自分の感情に区切りをつけたことに他なりません。
なんて、後でもう少し説明します。

ところで、上に列挙したように、言葉によって区切ることで色々な意味が生まれます。ところが、言葉にしたことで小さくまとまってしまい、大きな意味や可能性が失われるとも言えます。

例えば、色の名前なんか最たるものです。「赤」と決めただけで、無限大あったはずの色数が1つになってしまいます。
同じく「友達」と言ってしまったら、「恋人」ではありませんし、「敵」にもなりません。もちろん、言葉を変えれば関係も変わります。人間関係は色名より柔軟でいいですね。

とにかく、言葉には大きな意味や可能性や存在を定義通りに区切る、あるいは小さく言葉の枠内に押し込めるだけの力を持っています。言葉のもつ力は非常に強いわけです。
そして逆に言えば、言葉にする前のモノは、もっと大きい可能性があるということです。

言葉からはみ出る想い

ダラダラと何が言いたいかというと……心の話に戻りますが。
例えば「悲しい」と言葉にした結果、本来の大きな想いが区切られたり、押し込められたりする可能性があるということです。

イメージとしては2パターンあります。
・大きなモヤモヤを区切って、「悲しい」に当てはまるものだけ枠に入れる。
・大きなモヤモヤ全体を「悲しい」という言葉の枠内に無理やりギュッと押し込める。

どちらにしても、言葉の枠外にはみ出てしまう想いが存在します。
このはみ出た想いが大きいと、「言葉にしたことで逆に精神的な安定を欠く」可能性があるとみています。場合によっては非常に危険です。

その点、カウンセラーは気をつけることになっています。
相手の想いを下手に言語化すると、それが外れていたときのダメージが大きいわけです。当たり前っちゃ当たり前ですが。
そこで、その人の言葉そのものを繰り返したりするわけです。相手の言葉そのものなら、ハズレは少ないだろうと。

ところが、本人の言葉であっても、言葉にした時点で本当の想いから切られた、押し込められたものになります。多少なりとも、です。

言葉は区切るためのものなので、言葉で想いの全てを表すのは不可能です。それを分かっていないと、言葉からはみ出た想いが気付かぬうちに溜まっていきます。いや、気付いてても溜まるんですけど。

その溜まり方によっては、消化できたりできなかったりするのが人の心です。じゃあどうすればいいの。

それでも言葉にする

とはいえ、最初に書いたとおり、言葉にすることの意義は大きいです。
単純に、「上手に言葉で表現する」というのは、「なるべく想いがはみ出ないような」言葉にするということです。

この言葉では、自分の想いを表現するに足りない。他の言葉はないか。そこをなるたけピタリと言い表せるようになると、自己表現が心に安定をもたらすようになるのでしょう。

ただそれでも、「言葉からはみ出た想い」は無くならないことを忘れないでいるのが大事だと思います。自分にとっても、相手にとっても。
下手に「悲しいんでしょ」などと言って相手を余計に傷つけてしまうなんて、それこそ悲しいことですから。

やっぱり「言葉にならない想い」を大切にする

「はみ出た想い」も含め、そもそも言葉で表しようのない想いは、ままあるものです。言葉が区切るものだとすれば、それも当然。区切りたくない想いが人間にはあります。

心理学では、「フェルトセンス」とか、「あるがまま」とか、ゲシュタルトとか、それっぽい言葉がいっぱいあります。あまり言葉を絶対視しないということです。

「あー、なんだこれ。もやもやする。この、なんだ、あー。むかつく。むかつくでもない、この……」

みたいなのとか。もうそのまま感じていろというスタイルが、心理学ではよくあります。もちろん、ネガティブな感情に限った話ではないですが。

なんにしてもバランスです。
言葉にすることの良い点悪い点をわかっていれば、「人に伝えてみよう」とか、「やっぱり無理だわ。余計イライラしてきたから諦めて、そのまま感じていよう」とか、色々な手段を試すことができます。

うん。
もちろん、そのまま感じているのにも、それはそれで危険もあるし。
余裕のあるうちにそういうスキルを勉強できたほうがいいのかもしれない。

そういう意味で、やっぱり言語化が一番ラクな道ではあります。
でも、それだけじゃない、ということだけ知っているといいかなと思います。

雑に終わり(言語化失敗)

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