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1月17日

あの日の前日まで私は2週間くらい風邪をこじらせていて同じ京都市内にある実家に戻っていた。

やっと熱も下がったので寒い古アパートに帰ってきて、大きな木の横にある部屋で眠っていた。そして突き上げるような揺れに飛び起きた。

京都は静かだった。周りは何もない丘の上のアパートだったせいか外からも特に物音は聞こえなかった。

すぐに電話がかかってきた。母からだった。

「大きかったな」
「すぐにテレビをつけなさい」

あ、そうか、テレビってこういう時につけるんだと思いながらニュースの映像を見てびっくりする。テレビは普通についた。

あの頃は人が死ぬってどういうことなのか何もわかってなかった。

この5年後の同じ日に私の最愛の母は癌で亡くなることになる。

翌日バイトに行ってテレビのニュースを見ながら事務仕事をした。三十三間堂近くの国宝仏像修理所でバイトしていたので、事務所の人が「3000人か…妙法院さん(三十三間堂)の千手観音さんの3倍ってすごいな…」とつぶやいていた。(*注・当日にそこまでわかっていなかったかもしれないので、これは数日後の記憶かもしれない)

私のアパートは何も落ちてこず何の被害もなかった。元々貧乏で落ちてくるようなものが何もなかったというのもあるが、3〜4部屋向こうの同じアパートに住む友人の部屋はお皿や鏡などがたくさん割れてかなり被害があった。ちょっと場所が違うだけで被害の度合いも違ったのだろう。その頃、夜にバイトしていたカフェバーでは、ウィスキーやワインの瓶が大量に割れて床に散らばっていた。

でも京都はほとんど被害がなかった。

そんな中で憶えているのは、震災1ヶ月後に行った西宮でのデッサン会だ。

その頃私は絵のデッサンモデルをしていて、いろんなところのデッサン会や学校のクラスなどにモデルとして行っていた。

モデルの仕事を回してくれる方から「西宮」と聞いて、この機会にそれまで怖くて遠巻きにみていた阪神エリアに行ってみるべきだと思った。そのデッサン会は一般の絵の愛好家たちが集まって定期的にしていたもので、震災後は初めてだという。私は初めて行くところだった。

阪急電車からブルーシートで覆われた街の様子を見ながら西宮に着く。家が崩れているようなところもある。市民センターのようなところでデッサン会は始まった。

参加者は大体顔見知り同士みたいで、みなさん絵を描きながらちょこちょこと小声で話す。

「あの人も亡くなったそうや」
「最近はそういうこと聞いても”ああ、そういうこともあるかもしれへんな”って思うだけになってしもて」
「死ぬこともあるかもしれへんなって」

デッサン会は和やかだった。
私の靴だけを大きく描いたおじいさんもいて、みんなから「モデルさんの顔も描いたげえや」と言われていた。
「すごく面白い、いい靴やったんや」とおじいさんはほほえんでいた。

あと憶えている変なことは、モデル中に座っていた木の椅子の裏側に大量の押しピン(これ関西弁やんね?)が刺さっていたこと。
嫌がらせじゃないと思うけど、終わってから発見してびっくりした。モデル中に痛かったどうかは憶えていない。

「来月はできるかわからんのです。今月も本当はやれないと思ったんですが、結構みんな来たいって言ってくれたんで。」

今だったらそんな人たちに何か声をかけたのかな。
でもあの頃は自分以外の人のことについてうまく感じられなかったし、それをうまく伝えられなかった。
人の死というものが全くわかっていなかった。
もちろん何も感じていなかったわけではないのだけれど。

1月17日は偶然にも母の命日。
震災の5年後に、私は人が亡くなるということに向き合いはじめる。
でも今に至ってまだちゃんとわかっていない。





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