病気との闘い⑭~置いていかれる恐怖~
みなさん、こんにちは!こんばんは!おはよう!
ふたつの痛みの病に侵され、痛みに呪われたflutist‗umakoです。
さて前回は、車いす生活になった私の苦労話や周りに助けられた感謝について語りました。
ここまで痛くなかった足が痛くなり、実は大変な事態が起きてたという時も、足で歩けていなかったのが車いすになった時も私はショックは受けましたが、恐怖というものに見舞われることはありませんでした。
しかし、私がこの身体になったことで初めて恐怖を感じました。
それは父が退職した2004年、私が大学4年生の時でした。
実習の多い大学で
私の大学は1年生の時から実習がありました。
でも、本格的にスタートするのは私が足が初めて象のように浮腫んでしまった大学3年生、そして4年生にかけてからです。
4年生においては大学内にある言語聴覚センターで行うグループ実習か、学外の施設に1か月半ほどお世話になるのを2回(2か所)行う実習が主なカリキュラムでした。
しかも、学内に残っている学生は実習の合間に1か月に一回国家試験の模試があるという超過酷でハードな学年でした。
特に学外実習ではストレスが溜まるため、みんなリポビタンDと涙をぬぐうハンカチが必須アイテムでした。
しかし私の場合、車いすというハンデがあったため、学外実習は大学から少し離れたところにある私の大学の大学病院で行うように学科会議で先生方が取り計らってくださいました。
だから、私の学外実習2回はいつも治療で通っている麻酔科のある病院になりました。
また、昼食休憩中に神経ブロックの注射ができるように、大学病院のリハビリテーション科の先生と、麻酔科のE医師に話をつけておいてくれました。
感謝ですよね。
そして4月の下旬からGWが終わるころまで体調調整の入院をしたのち、私の学外実習が始まりました。
それはまた突然と
私は4月下旬からGWまで身体を整える入院をしていました。
その間両親も来てくれたので、食材やリポDはバッチリでした。
そしてGW明けの月曜日から私の学外実習はスタートしました!!
確かに自分一人で評価して、訓練計画を立てて、訓練をしてその結果その訓練を続けた方がいいのか、路線変更をした方がいいのか考えることは、患者様の今後にも関わる事なので難しいことでした。
しかし、私がただ鈍かっただけなのか、バイザーの先生が呆れて言葉もなかったのか、私はツラいというよりは楽しい実習でした。
そして毎日お昼休みは麻酔科のベッドで治療を受けた後の安静時間に、おにぎりを食べながら横になっていました。
またある日は、ベッドの中で午後の見学の用意を頭の中でしたりもしていました。
こうして大学病院のリハスタッフやE医師のおかげで私の実習は残り3分の1を割りかけた頃、私の人生がまた方向を変えようとしてきました。
正案の定私の足はパンパンに浮腫んでいましたが、毎日E医師から神経ブロックをしてもらっているから大丈夫だと私は高をくくっていました。
しかしその日のE医師はいつもの笑顔ではなく、
「これはもうドクターストップだよ」
と告げられました。
それは6月上旬のある日の事でした。
身体の変化。好転?悪化?
せっかくここまでやってきて嫌だと私はこどもの様に抵抗し続けました。
しかしE医師は、
「これじゃ実習が終えられるかもしれないけど、その次の実習は絶対に受けられないよ」
と、その後の人生を捨ててまで実習をするのか?と、説得されたのを覚えています。
そして私は実習中断することとなりました。
私はその日に入院となり、毎日の神経ブロック、安静の生活となりました。
その時点ではまだ、学科側からは、
「足りない分は後で補える」
と言われていたので、ショックでしたが未来はありました。
しかし入院が長引き、8月を過ぎた頃私の身体に大きな変化が出始めました。
確かに今までも杖をついていたから股関節や肩も痛かった。
車いすの運転や、積み下ろしで腰や背中も痛かった。
しかし、そんなやわな痛みとは違う全身にガラスの破片が突き刺さっているような、そして時には身体中を火で焼かれるような痛みが全身に出てきたのだ。
しかしE医師も首を傾げ、
「どうしたんだろう?何が起こっているんだろう?」
と、何でか分からなかったようだった。
そして、ついには神経ブロックをしても効果が出なくなってしまったため、私も、もしかしたらE医師もオピオイドにすがるしかなくなってしまった。
その頃は母はまだ現職だったため、退職した父がよく栃木の病院まで顔を出しに来てくれた。
もちろん、週末になると母も来てくれていた。
「かわいそうに」
と、父も母も私の身体を撫でてくれたが、私にとっては逆効果で誰にも触れてほしくなかった。
私でもどうしてもらえばいいのか分からなかったし、どうやって寝れば楽なのかも分からなかった。
私にとっての恐怖
どう治療したらいいのか分からないまま時は過ぎ、私が使うオピオイドの量もうなぎ上りで増えていっていた頃、もう10月を迎えていた。
大学の先生方も私の様子を見に来てくださっていた。
先生方も見てすぐに感じただろう。
私が一番恐れていたこと。
そう、
「もう1回目の学外実習の補填をして、さらに2回目の学外実習をする時間がない」
故に、
「今年度の卒業は無理です」
ということ。
私はみんなから置いていかれてしまうのだ。
みんなが就職してメキメキ力をつけている時、私はベッドでもがくことしかできない。
あぁ、私は置いていかれてしまう。
ベッドで何度、何時間にわたって泣いても泣いても、置いていかれてしまうことが怖くて怖くて涙が止まらないのだ。
その後、私は「休学」というカタチをとった。
そして母も「看護休暇」を取ってくれ、栃木に来てくれた。
終わりに
お恥ずかしい話なのだが、今日のこの記事は書きながらまた私は涙してしまった。
あの時の気持ちは永遠なんだなと感じました。
言
言語聴覚士になることがゴールなのだから、それがどのタイミングでなっても関係ないのではないのか?と人は思うだろう。
でも、苦楽を共に過ごしたともだちと一緒にゴールテープを切りたかった。
決して悔しかったのではないのだ。
あの時の私は確かに恐怖を感じていた。
身体中が激痛で昼も夜もなく、私の未来さえ見えなかったのに、その事ではなく、みんなに置いていかれてしまうことが怖くてならなかったのだ。
さて次回は、この先が見えない中で私や私の身の回りはどうしたのか?についてお話ししたいと思います。
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