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「書く」をめぐるインタビュー⑪~内側と外側でゆらぐ、書く~

「書く」をめぐるインタビューセッションを実施した。お話を聞かせてくれたのは、組織コンサルタント&ファシリテータの西邑浩信(にしむら・ひろのぶ)さん。西邑さんとはかなり前に研修の場でお会いしたことが何度かあったものの、じっくりお話をするのは今回が初めて。2冊の著書がある方にとっての「書く」はどんな物語なのだろうと、楽しみにお話を伺った。


インタビューを終えて

西邑さんは、自分が発言したそばから、その発言した内容を客観的に見て、またそれについて自分が考えたことや感じたことを話す、ということを高速でされているという印象を持った。それはコンサルタントやファシリテーターという仕事上では重要な能力で、普段からおそらくとてもよい形で発揮されているのだろう。

だが、素の自分の取り扱いという意味では、ご本人もおっしゃっていたが加減が難しいのではないか、という気がした。今まさに感じていることをちょっと置いたまま、ついついあれこれと考えてしまうのではないか、と。そう思ったのは、自分自身がそういう傾向があるからだ。

セッションの最後の対話で、「ちゃんとしている」言葉と「血が通っている」言葉についてのお話があった。巧妙に整えられた言葉は、自分の内面を隠してしまう。私自身も、公私ともに何かしらの発信をする立場として、文章を整えることと整えないことの加減、どれだけ遊びを入れていくかなどについて、一緒に考えさせてもらう時間となった。

セッション内容のリライト

ご本人の許可を得て、セッションで伺ったお話のメモをリライトしたものを掲載する。このリライトは「記事」ではなく、ご本人に「セッションを振り返ってもらうためのもの」なので、話したままに近い内容になっている(強調部分は、私自身が印象に残ったところ)。

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書くと聞いたとき、自分自身に迷いがあるというか、書こうと思ってもかけない感じがある。悪く言うとさぼる。書こうとしてもそのまま時間が経過して、投稿しようとしてたのにさぼっちゃう。書くことに関する違和感、罪悪感、できない感を持っている。

このセッションは、タイトルの「書くをめぐる」に引っかかった。それで、知人に紹介したというか、こういう表現の仕方がいいよねと紹介した。

その知人とどういう動画を作っていこうかという話をしているときに、こういう課題だったら動画ができるということを書いてもらったのだけど、その書いてもらった言葉が、自分が言っていることなんだけど、表現したものに対する違和感というか、内側で思っていることと、外に出ているものの違いがある。うまく表せない感じがある。それが、コンプレックスからなのか、行動していなくて不慣れだからなのかわからなくなっている。

仕事上の話でいうと、他者からどう見られているか、他者がどう感じ取っているか、この状況は他の人にとって何がよくて何が悪いか、というようなことを、読み取ったり、見立てたり、考えたり、考えすぎたりがある。

それは、うまく働けば、先読み、想定としてはたらくのだけれど、悪く言うと、「今ここにいない」ということになる。評価者、第三者、時間軸がずれた人になってしまう。そういう自分の取り扱いに対して、どう処していいかわからない感じがあって、それが書くという表現にもあらわれているんじゃないかと思っている。

SNSの投稿をしていた時期もあるし、過去には本を書いていたこともあるんだけど、内容はおいといて、以前は表現できている自分がいたことと、今の、表現をしあぐねている自分に乖離を感じる。行動に抑制がかかっているのか、臆病になっているのか。ちょっと不安を感じている。

最近、仕事上のあるやり取りを通して、相手の対応に違和感を感じることがあった。自分は、サービスを提供する側は、価値とか相手の期待感を意識して臨むべき、と思っているが、その時のアプローチのしかたじゃまずいんじゃないかと気になってしまうことがあって引っかかっている。ただそれが、相手側の問題なのか、自分が思うことをまだ表明していないからなのか。

他者との関わりにおいて、自分がどう思っているのかを表明するという観点でいうと、今自分がこういう状態になっていることが、自分の中にある、こだわりやブロックによるものなのか、もしかしたら逆で、自分の正しさを表明するために自分の中の感覚が反応していることなのか。凌駕しようとか、勝ち負けを意識して言い負かそうと思う自分もいる。

うまく協力しながらやっていかなくてはいけないんじゃないかということと、正すとこは正したほうがいいんじゃないかということとで、せめぎあいが起きている感じ。違和感を表現したほうがいいような気がするけど、うまくアウトプットできなくてどうしたもんかなと。

今の自分はうまく回っているけど、今のことに関しては何も考えずにやっている。先々のことを考えると不安になることはあるかもしれないけど、自分が今どこの居場所にいて、何をしているかわからない。確認するものが、自分のなかにも、外にも欠けている状態があるんじゃないかという気がしている。


――「自分が今どこの居場所にいて何をしているかわからない」のわからなさというのは?

何かに頼ってきた自分がいるような気がする。例えば、所属しているもの、関わっている人、わかりやすいタイトルなどの、目にみえる明らかなものに頼ってきた。今はその要素というか、これというものがあまりなくて、なんとなく素の自分と一体化している。ただの自分というものになっているから、そこへの不安がある。

―― そのわかりやすい「タイトル」は、意識して手放してきたんですか?それとも自然と離れたんですか?

そういう頼るものがあると、本来の自分じゃないものを捻出したりする。いい意味でいうと、自分なりに処理をして整理してきたし、悪い意味でいうと、そういうものとは巡り会わない状態をつくってきた。

今は自分の中でやっているから、それ以上でもそれ以下でもないというか、それが表現することとぶつかっている。

左脳的にいうと、ものごとの背景とか仕組みとかを穿って、斜めからみる傾向があって、それは仕事上では、見立てる、見抜く、想定するという強みとして活かされてはいる。だけどその分、その場にいる人としての当事者性、熱を持って臨むというのが起きにくくなる。

自分では気をつけてやってきたつもりだけど、新しいものがあると、当事者として入るというよりも、見立てるという動きをとることが多く、それが自分の気持ちとぶつかることがある。どちらかだけじゃなく、つねに両方持っているものかもしれないけれど。

―― 見立てるというのはどういうことですか?

例えば映画だと、登場人物とかストーリーにのめり込んで観るのが「見立てない」見方で、見立てるというのは、映画を観ながら、こういうストーリーで、こう撮影してと、相手側の視点で、ものづくりをどうやっているかということを予想してしまう。感覚的な要素よりも、こういうことだよねと見立てたり見抜いたりする。本当は純粋におもしろい、つまらない、かなしいという感覚的な要素でその場に属するというのが当事者性。

分析をするまで高度なことをしているわけではないけど、当てに行っているところがある。占いとまではいかないけど、当てにいくと当たる確度が高い。仕事にも活かされてはいるんだけど、ちょっとギャンブルでもやっているような感じかな。

書くことがおろそかになっているということについては、表現はしたいけど、何を表現したいのか。無理に書くのはあわせているだけだし、見られているから書くとかは、なんかちがう感じがする。何を書いていいかはやっぱり迷っている。迷走している感じ。

書くにかぎらず、人に自己PRするとか、セミナーとか研修をやるときの、最初、入り口が苦手。手放すほうが圧倒的にラクというか、枠組みや目的のなかで、目の前の相手が自由に話しているという状況をつくれればもう自由なんだけど、最初の入り口は自分に無理がかかっている感じがある。15年くらいやっているけど、ずっと。

人によっては自分が話したいという人、自分をアピールしたい人もいるだろうけど、自分を見てもらうのではなく、参加者同士を見るという状況を、いかに早く、巧妙につくるかをやっていて、常に目的に応じた流れになるようにというのを考えている。

自分が注目されるよりも、他者とか、本来目的としていること、コンテンツに注目してもらうことを、そもそも大事にしてきた。

書くということでいうと、書くことが自分のアピールになるような感じがするので、それも抵抗になっている。そうじゃない、もっと巧妙なというか、本来自分が表現したいこと、見たいこと、かかわりたいことをできる表現のしかたがあれば、そのしかたが一番いいかなあとは思っている。


ここまでを読み返してみると、ちゃんとしている自分のほうが圧倒的に優位になっているような気がする。意識的には自由でいいよと思うから、過剰なブレーキ、武装過剰な感じかもしれない。

あと、「書くをめぐる」という表現が秀逸というか、書くをきっかけに内省というよりは、焦点は書くにあたっているけど、背景にあるものを大事にしているという表現のしかたそのものが、自分の解決策、アクションプランに近い気がしているので、こういう示し方、見せ方が大事かなと改めて思った。

自分から課題を発信することがなくて、来たものに対しては、大抵の場合処することができるけど、相手が打ってこないとできない。闘う必要がなければ闘わなくていいし、打ち込んでこないと打ち返さないところがある。表現することは、自分から打ち出すと捉えていて、「自分を見て」となるような感じがしている。

そうすると、萎縮する感じ、押さえている感じ、出すものがいっぱいあるのを全部閉じる、オフにする感じ、いろんなセンサーを閉じちゃう感じがあって、選んで出してしまう。余計なこと言わないように、武器を隠すようになる。

今の自分はうまく回っていると言ったけど、うまいかどうかはちょっとわかんない。何を持ってうまいか、自分にとって幸福な状態なのかはわからない。だからこの表現どうかなというのはある。

違和感を感じたときの話も、ハードルが高く関わろうとしているなと思っていて、いろんなことを試して、その場に貢献したいし、双方にとってプラスの状態になるには?と思ってのぞんでいる。

自分自身の仕事に支障がありそうなことに関して質問を送ったものの、「認識は同じです」としか返ってこない。質問に答えていないし、当事者が出てこないし、やりとりをしている限りでは、コミュニケーションレベルが高くないと思ってしまった。

そこで、それを正す行為が必要なのかどうか迷っている。自分が関わるときに、場に価値を提供できるように貢献しようと思ったときに、相手側もその期待に応えるようにアプローチをしてくれるだろうから、そういう場としていい価値をつくり出せないかなと思っていたので。

自分が見立てていることや大事にしていることを、どう出したり出さなかったりしたらいいのか、迷っているというか、迷走している感じ。


―― 相手に伝える前に、自分で書きだすということは?

日記もつけているし、モーニングノートをつくって書いている。今の類の話も、整理はできてないけど書いてある。

―― 書いたことによる変化みたいなものはありますか?

考えていることの文字化と、相手に伝えることの文字化は分かれている。相手に伝わっていることはそのごく一部でしかない。内容はほとんど伝わっていなくて、ノートに書かれているだけの状態。

ノートの書く量にもすごい波があって、最近は手が止まることが多い。内省がかかりにくいのか、言葉が浮かびにくいのか、波がある。今のテーマのことだけでいうと、時間をおくと冷静に見るようになって、打ち手が増えていくとは思うけれど、それがいいことなのか悪いことなのかよくわからない。


―― 打ってきたものに打ち返すことと、自分から発信することという違いがあるような気がしますが?

どちらも課題解決ではある。自分のなかの機微にふれているわけだから。正さなきゃいけない、打ち克たないといけない、状況を変えないといけない。自分の内から出ているものはあるということではつながっているんじゃないか。

もっと経験とかスキルとかなくて、素直にやっていれば問題ないのかもしれないけど、自分の持っているものが反応しているのか、反応することが邪魔しているのか。

昔だったらもっと徹底的に打ち負かそうとする。今はあんまりそこまでは考えない。なんとなく自分のコミットメントがないから、打ち負かそうとか、勝ち負けにこだわろうとかがそんなにないのかも。

やっぱり、自分の迷いとか不安がそういうところに表れている。すぱっと言っていない。白黒つけるところはつけていい気がするけど、自分自身がグレーの対応になっている。自分の迷いがそうさせている気がする。表現でも、行動でも、同じなのかな。

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いただいた感想

セッション終了後、こんな感想をいただきました。

たまたま目にした大前さんの「書くをめぐる」というセッションのタイトルにピンときていました。このタイトルは本当に秀逸だなぁと。最初は、セッションを受けるつもりはなかったのですが、他の方が受けた感想を聞いて、自分が感じていた感覚通りだと思い、思わずお願いしました。実際に受けた感想として、不思議な感覚ですね。自分の中で何かモヤッとしていた自分自身の実態が、インタビューを受けることでどんどん鮮明になり、自分の引っかかりってそういうことだったのか、とかなり腹落ちしました。自分が一番わかっていないこと、整理できていないことは、一番身近にいる自分自身のことであるとあらためて認識し、良い意味で内面が多重人格であること(どの人格も大切な人格)を再発見!再整理できた気がします。そして、最初の直感通り、書くをめぐる、という表現や考え方そのものが私にとって有益なアクションプランであると思っています。貴重な機会を本当にありがとうございました。

西邑さんの思索の道を一緒にめぐらせていただき、ありがとうございました!


あらためて「書く」をめぐるインタビューについて思うこと

だいたいいつもセッションの最初に、「何がきっかけでこのセッションを受けてみようと思われたのですか」とお聞きするのだけれど、西邑さんは「書くをめぐる」というキーワードにピンと来たので、と言ってくださった。

私自身、夏にこのセッションを始めようと思ったときは、まだはっきりとはセッションの目的をしぼりきれておらず(今もだけれど)、そういう自分の状態も含んだ「めぐる」というワーディングだった。

西邑さんのお話を伺っていると「めぐる」という言葉の意味に、「ふくみ」と「ふくらみ」が出てきたような気がした。奥行きや広がり、深みというのか。巡礼のように、「書く」を杖にしてあちこちを回っていると、「自分」という存在が浮かび上がってくる。そして自分の願いがたしかになってくる。抽象的だが、そんなことをたしかに思う時間となった。

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「書く」をめぐるインタビューセッションのモニター募集は締め切りました。来年1月から、新料金で再開予定です。

年内に体験したいという方がもしいらっしゃいましたら(セッションの詳細はこちら)、スケジュールがあえば実施可能ですので、こちらのお問い合わせフォームよりお知らせください。

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