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村上春樹『若い読者のための短編小説案内』を改めて読む② ~小島信夫の「馬」~

この↓記事を書いてから、気づいたら1か月近く経っていた。ふう、あぶないあぶない。

初出が1996年とかなり前の書籍だが、本書で取り上げられている作家達の短編をそれぞれ読み、その上で、村上春樹氏の読み解きを楽しんでいこうと思っている。

登場する順番とは異なるが、今回は小島信夫の「馬」について書いていきたい。実はこの投稿の下書きも1か月近く前に書いていたのに、そのまま放置していたのでサルベージ。

「馬」を最初に読んだ感想は、以前書いた『抱擁家族』と設定が似ているなあということだ。主人公の妻の名前が同じだ。

おそらく春樹氏の『ノルウェイの森』にとっての短編「蛍」のように、物語の「発展の可能性を試すための場として」小島信夫はこの「馬」を書いたのではないだろうか。

ストーリーとしては、、、
突然主人に断りもなく新しい家を建てるという妻。おかしいと思いながらも働きづめに働いてそのためのお金を稼ぐ夫。その家は馬を預かって世話するための家だという。妻はかいがいしく馬の世話をし、夫は徐々にこわれていく。最後にはその馬が人間のように話し出す。そして……。

簡単にいうとそんな話なのだが、ヘンな話だなと思いながらも置いてきぼりにならないのは、主人公の男の頭の中の声、心の声が書かれているからだ。そこにはついていけるので、ヘンなことが起こってもそんなに驚かない。

さて、ここからは、まず最初に自分が読みながら思ったことを書く。その後に春樹氏の解釈について書く。自分の読みは浅くて稚拙なので、あえてここにさらす必要はないのだが、そういう「読み」をしたという履歴として(覚え書きとして)、残しておこうと思う。

「馬」を読み始めてすぐ、「なぜこの妻は家を建てることにそんなに執念を持っているのか?」ということが問いとして浮かんできた。そして、タイトルでもある「馬」は何を表しているのか?と。

この作品が書かれたのは1960年代だが(私はまだ生まれていない)、おそらく「家」というのは、その時代の人びとにとって、最も大切なアイデンティティだったのではないか。家を持つことがゴールという一つの物語を信じていたのではないか。それくらい人は「形がないと不安になる」のではないか。最近は少なくなっていると思うが、家を建てることを「自分の城を持つ」「一国一城の主」という表現で耳にすることは多かった。さらに女性は特に、「自分のコントロール下にある世界をつくる」ということに執念があるのではないか。それは「自分が主人公である人生という物語にふさわしい舞台」としての「家」を完璧にしたいという欲求からくるのではないか。そんなことを考えた。

そして、「馬」はコンプレックスを表していると思った。主人公が、男性として自信のなさや優位に立ちたいという願望を抱えながらもそれを出せないなかで、妻が積極的に「コンプレックスの象徴としての馬」を家に持ち込んでべったりする。その様子を見て主人公はどんどんおかしな方向に向かっていく。だがそれは逆に、「必要な破たん」だったのではないかという気がする。形としての「家」ではなく、実体としての「家族」になるためのイニシエーションだったのではないか、と。

上記のようなことを思いながら作品を読んだあと、本書の解説を読んだ。

春樹氏はまずこの作品を「厄介な作品」と位置付けた上で、

こういう奇妙きてれつな「変さ」を自然にすらすらと書ける人は、小島さん以外にちょっと見当たらないような気がします。
その「変さ」は、小説的な装置というよりも、小島信夫という作家個人の中に本来的に普遍的に、一種の源泉として内在しているものではあるまいか

というように述べている。そして、そこがこの作品の不思議な魅力である、と。

本書では「家」と「馬」についての問いが読者に投げかけられる。そして、著者なりの仮説や解釈が語られる。

・この作品において家はどんな意味を持っているか?
・なぜトキ子は新しい家を建てなくてはならなかったのか?

トキ子が家を建てるという作業は、彼女にとっての「僕」に対するひとつの愛情表現の行為ではなかったかと僕は考えるのです。もっと突っ込んで言うなら、男女間の愛の契約という概念を、(中略)家屋というあくまで枠組み的な物体の中に、あるいはまたその物体の形成プロセスの中に転移させようとしていたのではあるまいか。(強調は引用者)


・なぜトキ子は馬を家に引き入れなくてはならなかったか?

この観点に関しては、主人公と妻の関係が立ち往生しているために、「外づけ」の装置として導入されているという仮説が立てられている。妻が夢中になって馬をかわいがり、熱心に世話をしているのは、あくまで「馬」という形をとった夫の一部だからだと。だが、夫にはそれがわからないので混乱をきたし、精神病院に入ることになる。最後の最後に妻からの「愛している」の言葉によって、二人の関係は新たな出発点に立つ、という分析をしている。

こういったことを踏まえて、<家>や<馬>について、このような考えが述べられている。

おそらく契約を明言化することによって、互いに裸で正面から向かい合うことによって、様々な傷口や自己矛盾が白日のもとに明らかになることを、彼ら二人は恐れていたのではないでしょうか。だから二人は、<家>や<馬>という別の存在に、そのような妄想的外部装置に、自分たちの感情や欲望を付託しないことには、その契約をうまく有効化することができなかったのです。(強調は引用者)

このような「向き合わなさ」は、そのまま『抱擁家族』に受け継がれていく。向き合えない家族には、<家>が必要で、<家>という装置をととのえるはずの妻・母が不在になることで、家族はもっと右往左往していくことになる。

とはいえ、これはこの作品のなかだけのことではないし、作品が書かれた1960年代のことだけではないだろう。ここで言われていることに、今現在ドキッとする人は多いはずだ。現に春樹氏もこう言っている。

彼らと同じような生活を送っている人々は、ひょっとしたらあなたのまわりにもいるかもしれません。たとえば「子供」とか「世間」とかいった妄想装置に寄り掛かって、ただ単に同じ屋根の下で顔を合わせて暮らしているというだけの夫婦なんかが……。

あいたたた、と思う人は少なくないだろう。「互いに裸で正面から向かい合うことによって、様々な傷口や自己矛盾が白日のもとに明らかになる」ことは、おそらく想像以上に怖いことだ。穏やかに日々をやり過ごすために、妄想装置に寄り掛かることが必要なときもある(と思いたい)。だが、その寄り掛かりによって、根本的な問題が解決するわけではない。どこかで「必要な破たん」はやってくるのではないか。そこで破たんして終わる家族と、そこでスタートに立てるという家族がいるのではないか。

春樹氏は最後に、この作品の主人公たちは、自己(セルフ)のまわりに強固な外壁を築くことで(外敵の侵入を防ぐための万里の長城のように)、自我(エゴ)を平穏化していると分析している。しかし外部からの力で壁がところどころ崩され、主人公は走り回ってなんとかその裂け目を補修しようとする。

その動きの滑稽さが、小島信夫のパセティックでラディカルな――そしてときにはスラップスティック的な――おかしさではあるまいかと僕は思うのです。

このカタカナづかいが、村上春樹氏の特徴だけれど、これを「悲観的で過激なドタバタ劇」と、それらしい日本語で書いてしまうと、とても「らしくなくなって」しまうので、やはりカタカナである必要があるなあと納得してしまう。

とにかく主人公のドタバタがあまりにも哀れでおかしいのだが、「馬」という作品は読んでいて深く抱擁をされているような気になってくる。『抱擁家族』という長編を読もうと思われる方は、その前にぜひ、何とも言えないこの不思議な「馬」の世界を味わってみてほしい。『アメリカン・スクール』に収められている。



<追記>
理解を深めるために、こちらの「馬」論も読んでみようと思う。
欲望する家族という悲喜劇 -小島信夫「馬」論一

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