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「書く」をめぐるインタビュー③~「その人の生の言葉を届けたい」

先日、「書く」をめぐるインタビューセッションを実施した。お話を聞かせてくれたのは、「整理し」「見える化し」「伝える」ということに日々取り組まれているグラフィックレコーダーのりんどうまきさん。


インタビューを終えて

人が発する言葉の「生加減」と、それを「わかりやすく」「伝える」ということを、行きつ戻りつしたような時間だった。

「生加減」というのは、言葉を発した人の血が流れている感じ、息づいている感じ、言葉にその人自身が乗っている感じ、と受け取った。そして、「わかりやすく」するのは手段でしかなく、自分も含めて誰かの「生の言葉」を「伝える」「伝わる」ためにはどうしたらいいかということを、じっくり一緒に考えさせてもらう時間になった。

終わってみて特に印象に残ったトピックは3つ。

「頭の中でつくってから書く」ことで、文章に「作られた感じ」が出てしまうということ。
「わかりやすくする」ことでこぼれ落ちているものがあるんじゃないかということ。
「生の言葉」を活かしつつ書いて、伝えるにはどうしたらいいかということ。

まきさんが話すことをききながら、自分もまったく同じようなことを、よくぐるぐる考えているなあという気がしていた。自分の仕事を振り返ってみると、まきさんが大事にしているのと同じように「その人の鮮烈な感情が現れている部分」を伝えようとしてきた。でも私が「その人の鮮烈な感情が現れている」と思っても、それは自分の主観でしかない。その主観を信じて、装飾をせず、演出もせず、「生きた言葉」が届くように、前後を整えることに徹してきた、と自分では思っていたけれど、はたして本当にできていたのだろうか。

まきさんがセッションの最後に書いた文章の中の言葉は、そのまま私も大事にしていきたいことになった。

わかりやすくするために人に加工されるよりも、わかりにくかろうが拙かろうがその人の言葉のままが響く。

生のままの言葉の説得力と重み。
その人自信の感じと言葉との一致感。
その人が発する言葉全体としての統一感。

そういうものが、きれいに整えられたものには足りない。


セッション内容のリライト

ご本人の許可を得て、セッション内容のリライトを掲載する。

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●書こうとするときに起こること

書くときに、「いい感じ」に書こうとしてしまったり、かっこつけるというか、きれいに書こうとしてしまったりすることが多い。話しているときの方が、私らしいしわかりやすいと、よく知っている人から言われたこともある。文章だとなんか長くなるよね、と。

ただ、話すように書くといっても、誰に話すのかがわからないと結局大勢に向かって話すような感じで書くことになり、そうするととたんに「いい感じ」に書いた文章になってしまう。

「話すように書く」と言っているのは、下手にこねくりまわしていない自然な文章、勢いのある文章ということ。そういう文章を書きたい。だから、思いつくまま、話しているように書く人に憧れたりする。もちろんその人は、単にそう見えるだけで、すごく計算して書いているのかもしれないけれど。

「いい感じに書く」文章というのは、読む人の「役に立つために」とか、「わかりやすく」とかって考えてこねくりまわすことによって、最初の勢いみたいな「スッとした感じ」が落ちてしまう文章のこと。だから、いい感じにしようとすると、いい感じじゃなくなるということが起こってしまう。

書くのが好きなわりに苦手だなあ、苦手なわりには書いているなあ、なんだろうなあという感じ。


●全体像が見えてから書き始める

書くときは、頭のなかで全体像が見えてから書き始める癖がある。「オチっぽい」ことを書かなければとか、何かしらの「学び」があるようにとか思うと、つい盛ってしまうこともある。話していて目の前の人に伝えるときより、言葉も出てこないし、時間がかかる。そのわりに書いた文章には自分で納得できないことが多い。

「これを書こう」と思っても、最後のオチが決まらないなーと考えているうちに、最初に書きたかったことと「ズレている感」が出てきてしまうことも多い。「ここまで書きたい」と思っていても、前置きの文章がないと伝わらないかなあと考えてあれこれ追加しているうちに文章が長くなり、投稿を2回に分けたりすると、もう最初の勢いはなくなってしまう。

子どもの頃からそうだった。作文を書き直すのがいやで、頭の中でだいたい全体ができてから書いていた。それ以来、何を書くにしても「だいたいこれでいける」と思ってから書くようになった。あまり考えることなく勢いで書き始めれば書いちゃえるかもしれないのに、最初の「えいやっ」というのができなかったりする。自分で「大きい」と感じるようなものほど、頭の中でこねくりまわしてしまう。


●書こうとしているのに書けない

今、自分のWEBサイトが作りかけになっている。自分のWEBサイトだと思うからこそ、余計書けない状態になっている。自分の絵のテイストで、WEBデザイナーさんにシンプルな好みのスタイルに仕上げてもらって、自分がすごく好きな世界観のデザインに仕上がっているのに、書けない。好みのデザインにあわない文章は書きたくないという気になってしまっている。

WEBサイトでよくあるサービス案内は、見てもらう人にわかりやすく書く必要がある。だけど、そういう文章は好みじゃない。一応書いたけど人に見られたくないという状態になっている。

それならばと、自分が好きなように書いてみても、「ちがうかも?」と思ってなかなか完成しない。好きな感じで書きたいけど、わかりやすくしなければならないし……とぐるぐるしてしまう。

自分の書きたいように書こうと思うと考え過ぎちゃうのかな。ある程度は伝わらないといけないというのがずっと頭にあるから、書きながら同時に「これでいいのかな?」というチェックがいろいろ入ってしまう。

自分がどうしても言いたいことはサッと出てくる。だけど、その言いたいことだけを言えばいいわけではなく、間を埋めるところを書いていく必要がある。その間をどう作って埋めていくかと考えていることが多く、全体の文章として公開するまでにはいかない。

さらに、以前書いたものを、時間をあけて読み返してみると、「これじゃない気がする」という感じがしてきて、余計に腰が重くなってしまう。

文章にする前に頭の中で計算を始めてしまうので、湧き上がったものをそのまま出すということがあまりできない。かといって、湧き上がったものをそのまま出そうとして、たとえばモーニングページのようなものを書いてみると、手を止めずに書かなければという「制限」が入ることによって、手っ取り早くそばにあるものの、上っ面のことを書いている気がしてしまう。本来であれば時間をとって考えるようなこと、じーっとすると出てくるかもしれない深いことではなく、パパっと出てくる表面的なところから選んで書いているような気がして、それはどうなのかなと思っている。


●わかりやすくすることの功罪

今、仕事で依頼を受けてコンテンツやチラシを作っているけど、わかりやすくするためにイラストをいれたり、まとめなおしたりをしている。その「わかりやすくすること」自体がどうなんだろうと思ってしまうことがある。

わかりにくくても、「その人の言葉」の方が伝わるんじゃないか。その人のなかから滲みでる何かというのは、「いいことを書こう」とか、「わかりやすくしよう」とすると抜け落ちていくんじゃないか、という気がしている。つまり、わかりやすくすることで、本質的でなくなるのではないか、と。

だから「わかりやすくするサービス」を広げようとすることがいいことなのかどうかと考えてしまう。わかりやすくすることの意味がある部分と、やってはいけない部分とがあるんじゃないかと。

わかりにくくても「その人の言葉」のほうが伝わるんじゃないかというのは、ずっと思っていることで、わかりやすくするために人が加工してしまうより、わかりにくくてもその人自身の言葉であるということ、その人のなかから出てきた言葉であるということが、すごく大事な気がする。

作られた感があって、言わされている感じの文章だと、どうしても表面を薄くすべっていく感じがしてしまう。それよりは、うまく話していようが、拙い感じであろうが関係なく、その人が自分で話しているんだな、書いているんだなというのは、人にはわかるはず。

その人が本当にそう思っている、というような重み、しっくり感、納得感みたいなものが、言葉に乗っていると思うから。わかりやすい方が広がりはするかもしれないけど、その人の言葉であることのほうが、人に深く響くんじゃないか、という気がする。

これは人の言葉に手を入れるときだけでなく自分から出てきた言葉でも同じで、加工していくとその乗っているものが薄れるというか、加工しているうちに「これだ」っていうのが一番乗っていた言葉をとりこぼしちゃうんじゃないかという気がしている。

だから、自分の言葉も、人から聞いた言葉も、加工しすぎないように整えられるといいなと思っている。もちろん見やすい、読みやすいほうがいいけれど、できるだけ「生の言葉」であるほうがいいというのを、すごく考えている。

仕事で人の言葉をきいているときは、ある言葉にその人らしさが滲んでいると思ったらそれを活かすように加工をするんだけど、それでもそこには自分の主観が入っているし、他の人は自分とは違うところで感じとるかもしれないし、ということも考える。どこまで加工していいのか、加工しない方がいいんじゃないかとも。

自分の言葉も、頭の中でこねくりまわしてから出てくる言葉は、そうやって加工しているのと変わんないんじゃないか、勢いが失われているんじゃないかと思ってしまって、それが、気になる……、気になるのかな……? 気にしていてもできてないから気になるのかな……。


●何のために伝えるのか?

今話していることは、どうしたら伝わるのか? 伝わるをどう考えるのか? という問題のような気もしていて、広く知ってもらうために伝える場合と、深く響いて何か考えてほしいとか、商品を買ってほしいという場合とで、作り方と言葉の伝え方は違ってくる。

どちらかというと、広く伝えるよりも、深く伝わる、響くようなものを書きたい。だけど自分の書き方だと、そこにいかないんじゃないかなという気がしている。今は考えすぎなのもあるかもしれない。自分がここまで知ってほしいというところまで情報を知らせた上で、さらに深く考えさせようとしているのかもしれない。

「上っ面はいいからさ」というのが強いんだろうと思う。「上っ面感」が嫌いで、書くときに作り込んで加工をし過ぎることで、「上っ面」に近づいていく感じがする。作り込んでいくというのは、自分が言いたいことを書きたいという以上に、わかりやすい方向に作り込んでいくことが優先されてしまうからかもしれない。

加工すればもともと出てきた言葉の勢いが落ちるというのはたしかにそうだと思っているので、どちらかというと「言いたいことを書く」ことと、「わかりやすく伝えること」が、ごっちゃになっているのかな?


●らしさが滲み出るには

その人らしさがにじみ出ているフレーズを使っても、文章とかチラシにするのは一部分であって、その人が口にする、前後の文章も合わせてその人らしさなので、その人が口にした言葉、その人の手で作られたもの方が全体の統一感が出てしっくり感が増すはず。

人の視点が入ることでわかりやすく、オフィシャルなものとして整うことはあるかもしれないけど、一方で、その言葉を口にした人と、その言葉との一体感が薄れてしまう。

自分の書いた文章の場合はさらに、どこに自分らしさがにじみ出ているのかがわからないし、こねくりまわすほど最初に言いたい言葉が消えてしまう気がする。最初にこういうことを書こうと思ったフレーズごと消えてしまったり。

「なんでおまえがそういうことを言えるのか」ということを補足しないといけないんじゃないかと思って長々と書こうとするクセがあるので、そのために前後につなげた内容によって、言いたいことが薄れたり、弱まったりすることも多い。

書きたいことを思いついてメモをしておいても、あとから書くと最初に思いついたものと違うものができあがる。思いついたときに書ければ、思いついたときの感じで書けるけど、後から書くと、記事っぽくいまいちな感じになることが多い。

今は、一番大事な、深い部分まで考えられていないのかもしれない。いつも何か気になっていることを頭においたまま考えてしまう傾向があるから。

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インタビュイー(まきさん)の感想

インタビュー当日にまきさんがUPしてくれた感想はこちら。


あらためて「書く」をめぐるインタビューについて思うこと

まきさんに最初に「どうしてインタビュー受けてみようと思ったんですか?」とお聞きしたときに、「毎日書いていても、書くことについてわざわざ時間をとって考えたりしないし、人と書くことそのものについて話をすることもほぼない」というようなことを言われていて、これは最初のモニターの有さんとも共通するなあという気がした。そう言われてみれば、私自身がまさにそうだった。だからこういう取り組みを始めたんだっけ。

さらに、まきさんとお話しながら、私はこの「書く」をめぐるインタビューを通して、何をしたいんだ?ということをあらためて考えたとき、

誰かにとっての「書く」をめぐる話を聞きながら同時に、自分にとっての「書く」を探究している

といった言葉が出てきた。

「書く」ということを考えることは、やっぱりおもしろい。教えるのでも、教えてもらうのでもなく、それぞれが自分なりの「書く」の道を進みながら、たまに話をする。そういう感じが好きだなあ、そういう風にやっていきたいなあと思う時間だった。これからのインタビューがますます楽しみになってきた。


8月のインタビューモニター、引き続き募集しています。
「書く」ことに興味がある方なら、どなたでも大歓迎です。





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