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読むの履歴書と、これからの読む

noteユーザーの方は、おそらく書くことと同じくらい、もしくはそれ以上に、読むことが好きな人も多いのではないかと思います。

私自身も、小さな頃からいつも本がそばにあり、夜は本棚を見つめながら眠り、図書館や本屋など本がたくさん並ぶ場所に行くのが大好きでした。本が並んでいるのを見るだけでも、本のタイトルを見ているだけでも楽しかった。

高橋源一郎さんが、学生運動か何かで留置所に入ったときに、読む文字が何もなくて、特別にお願いをして何かの空き容器をもらって、ずっとその「原材料表記」を読んでいたというようなことを何かに書かれていましたが、「すごくわかる!」と思いました。文字を読まないと落ち着かないんですよね。

そんな風に私も、子どもの頃から常に、目に入る文字という文字はすべて読んでいました。今でも車や電車に乗っていて目に入る文字はいったんは読みます。頭の中で、ですが。映画字幕もまったく苦になりません。

とはいえ、同じ「読む」と言っても、本を舐めるように読むような読み方から、電車の中づり広告をチラッと読むようなものまで、そこにはいろいろな質の違いがありそうです。そこで、今日はちょっと自分の「読む」を振り返ってみたいと思います。


WHAT:どんな本を読んできたか

人生前半は、おもしろいと思った作家さんの作品を、かたっぱしから網羅するような読み方でした。

<保育園~高校まで>
保育園、幼稚園時代は、イソップ・グリム・アンデルセン童話全集と様々な図鑑を。これは親から与えられたもので、自分で選んだわけではないけれど、毎日開いて読んでいました。

小学校時代は、特にハマったのが少年少女向けの江戸川乱歩やコナン・ドイルの作品シリーズ。夏休みなどは、図書館で3冊借りてきて、その日に3冊とも読んでしまい、また次の日に図書館に返しに行って借りてくるというようなこともありました。

高学年になって、新井素子や赤川次郎を読むようになりました。特に赤川次郎は作品数が多いですから(当時でも300冊以上はあったんじゃないか)、ちょっとやそっとじゃ読み終わりません。図書館に行っては読んだことのない赤川作品があったら借りて読むということを繰り返していました。

中学校時代は、引き続き赤川次郎を読みつつ、ほとんど読み終わったので西村京太郎に進みます。トレインミステリーですね。こちらもとんでもない作品数で、読んでいるうちにデジャブか?と思うようなことも何度かありました。

高校では、『ノルウェイの森』が空前のベストセラーになっていた時期で、そこで村上春樹にはまり、その流れで太宰治、ドストエフスキーに進みました。今考えると、本当に味わって読んでいるかというと疑わしく、そういう作品を読んでいる自分に酔っていた節があります。まあ、その辺の普通の高校生ですからしょうがない気もしますが。

<大学生~20代>
大学のときは、なぜか藤沢周平を一時期読み、またミステリー系に戻りました。内田康夫、山村美紗。どちらも多作の作家さんですから、なかなかコンプリートはできません。さらに当時、ミステリ作家の百花繚乱の時期でした。東野圭吾さんが有名になるよりも、ちょっと前の頃。

当時よく読んでいたのは、我孫子武丸、綾辻行人、有栖川有栖、井上夢人、岡嶋二人、折原一さんなど。あいうえおのペンネームが多いのは、本屋に置かれるときにあいうえお順だから、目立ちやすいとどなたかが言っていたような……。

あとは宮部みゆきさんもこのころ読んで衝撃を受けました。『レベル7』を読んでびっくりし、なんだろう、沼地に足を取られたような、この引力はすごいなあと思って、次から次へと作品を手に取りました。

その後、さらにずっぽりとハマったのは、伊坂幸太郎さんと森博嗣さんで、お二人の本は新刊が出るたびにひたすら読んでいました。

その他、海外のアガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、スティーブン・キング、パトリシア・コーンウェルなども結構読みました。

このあたりまでは、買ったり借りたりしてはただただ読むという、娯楽のような、「消費する」読み方でした。今考えると、なんだかちょっと(かなり)もったいない。たいして味わってもいないし、内容なんて全然覚えていないし。

ただ少なくとも、大量の文字を読むということと、ある種の物語の型に触れ続けるということは30年近くやっていたことにはなります。誰からも何も言われないのに、しかも何かの役に立ちそうもないのに、何千冊と推理小説を読むというのは、ただただ好きじゃないとできませんものね。

<30代~ 現在まで>
29歳で次男が生まれたのですが、その前後くらいから、ちょうど土星回帰の時期だったのもあり、猛烈に「このままじゃやばい!」と思い路線変更をしました。自分で意図してというより、そうさせられたような感じで。次男の出産で入院していたときでさえ、英語の勉強をしているくらいだったので猛烈な焦りがあったのだと思います。

そのあたりから、英語学習、自己啓発書、ビジネス書、カウンセリング、心理療法、スピリチュアル(無意識)、対話、ファシリテーション、経営理念、人材育成、組織開発関連のあれこれにひたすら手を出し続けて、さらに本だけでなくセミナージプシーのようなことを続けて、「小説を読んでいる時間なんてない!」と鼻息荒く、ふんふんと過ごしてきました。この間の唯一の例外として、村上春樹だけは高校のときから読み続けていました。

数年前、大学院の勉強で疲れてしまい、息抜きにとまた小説を読み始めました。ブランクがあるから本屋の小説の棚に行っても知らない作家さんの多いこと多いこと。びっくりしました。そんな中で、何冊も買って読んだのは、中村文則、白石一文、桜木志乃さん。小さい頃からの「かたっぱしから好きな作家さんの本を網羅する読み方」はまだ根強く残っていて、全作品はまだ読めていませんがおおよそ半分くらいは。

それ以外にも1~2冊だけ読んだという作家さんを入れたらすごい数になると思いますが、ジャンルも、もう雑食動物のようで、どこかで誰かが勧めていた本、話題になった本、文学作品で有名なもの、宗教や哲学関係の本、文章や言葉に関する本など、自分でも把握できないくらいに手を出しまくっているという、カオス状態なう、です。

そうやって、狭く深くというよりは、広く浅く大量に、という感じで手を出してきました。


HOW:どんな読み方をしてきた/いるか

推理小説や小説は、ただただ頭から読む。以上、です。

ビジネス書を読むようになってから、本の読み方についての本も何冊か読むようになって、他の人の読み方なども気になって、あれこれ試してみたりしましたが、結局、気になった箇所に赤線を引く、本の耳を折るという読み方に今は落ち着いています。Kindleも基本同じ。気になったところにハイライトをしておく。以前は線を引く意味によって色分けをしていましたが、それも面倒で今は一色です。とにかく印を残しておけばあとでそこを見返したときに気になった理由も一緒に思い出せるからということで。

あと10年以上前かな、フォトリーディングの講座を、再受講制度を利用して3回受けています。今は意識しては使っていませんが、似たようなことはやっています。特に難しそうな本を読むときには、最初にパラパラと全部のページに目を通しておくと、脳が既視感を持ってくれるのではないかという気がします。心理的抵抗が減る感じがあります。半ば祈りのようなものですが。

以前はスピードや量を重視していました。今は理解を重視してゆっくり読むことが多いです。わからないと何度も戻ります。「つまりこういうこと?」と考えながら読みます。「読む質」の転換期に来ているのだなあと思います。あまりにも難しいときはひとまず通して読んでから、2回目にじっくり読むようにしています。

それでも、同じ本を読みなおすのが苦手なので、同じテーマについて書かれている別の人の本を読んで、違う方向から解釈するようにもしていました。それは今も残っていて、例えば「文体」について知りたいと思ったら、少なくとも5人以上の文体の本を読もう、みたいな感じです。ひとつのテーマにつき5冊以上というのは、いつも意識しています。

今、ほとんどできていないのは、「著者の言っているのはこういうことだな」ということを「自分なりの言葉でアウトプットする」ということです。そこはほんとに弱くて、筋トレして鍛えていきたい部分です。マッチョにというよりは柔軟でしなやかな筋肉に。

ここまで書いた読み方というのが全然通用しない本というのもたくさんあります。哲学とか、文学論とか、評論とか、一読じゃ文意がまったくつかめなかったり、何度読み直しても何を言わんとしているのかわからなかったり、そもそも知らない日本語が出てきたり、と太刀打ちできなくて降参した本がたくさんあります。

そういうのはやっぱり自力では読めないので、最初に同じ領域の入門書を読んでから挑戦するようにしていますが、ここはまだ全然靄の中というか、今後どうしていったらいいかと思っているところです。

そんなとき ばるさんのあるnoteの記事を見てひっくりかえりそうになりました。

精読/写経しつつ1日平均2pずつ読んで、上巻が終わるのに8ヶ月ほどかかった。概説書や入門書の類は特に読まずに、いきなり原著に当たったのだけど、これまで読んだ本の中で一番じっくり読んだ本になった。

ここまでじっくり読み込むようなことって、私は今までやったことがない。こんな風に、身体で読んでいくようなことこそが、本当は大事だなあと痛烈に思っているところです。


WHY:そもそもどうして読むのか

あまりごちゃごちゃ言わずに、一言でいうと「楽しいから」です。

振り返ってみると、子どもの頃は純粋に楽しかったはずの読書が、30代に入ってから、いつのまにか足りない自分を埋めるための「読まなければならない」義務のようなものになっていった側面があります。もしくはある種の脅迫観念に取りつかれていたのかもしれません。

それもこれも、外的評価でもって自分を見ていたから。巧妙に社会や他者の基準を内在化して、自分で読みたくて本を選んでいるつもりになって、実は外の価値観で選ばされていた、という。

今はまた、純粋な「興味」から本を手にとるように意識していて、「ねばならない」から少しずつ距離をとれるようになってきています。もちろんいまだに完全に自由とはいえませんが、少しずつ本来の読む楽しみを取り戻しつつあるような気がしています。

子どもの頃の読書体験、読書の時間の質に近づいていくことができれば、純粋なよろこびや楽しさをまた味わえるのではないかと。そして結局そのことが、本来の自分が生きたい人生への近道なのではないか、と。まだまだばくっとしていますが、そんな風に思ってます。

今日はちょっと(だいぶ?)掘り下げが足りない気がしますが、「読む」についての素材出しというか、おさらい、ということで。ここからまた「読む」を日々実践しつつ、「読む」について、深く掘り下げて考えていきたいと思います。

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