哲学対話「共感」の開催レポート
毎月第4土曜日にオンライン哲学対話を実施しています。3月は主催者の都合により第3土曜日の開催となりました。3月19日(土)に開催した際の様子をレポートします。
哲学対話の概要
哲学対話とは「普段はあらためて考えない疑問」、「すぐには答えが見つからなそうな疑問」について、みんなで語りあって思考を深めていく場です。一人ひとりが自分の経験や考えを、自分のことばで表現することを大切にします。それをお互いに聴き、問いかけ合いながらともに考える場です。
哲学対話は、近年いろいろな所で行われています。当日集まった参加者から出してもらう問いについて対話をする場合もあれば、主催者が事前にテーマや問いを決めて実施する場合もあります。
我々の場合は大きなテーマだけを事前に決めておき、当日そのテーマに関連して問いを出し合って、選ばれた問いで対話をするというやり方で行っています。
過去のテーマはこれまで「対話」、「時間」、「夢」、「言葉」、「弱さ」、「笑い」、「つながり」、「学ぶ」、「遊び」、「信じる」、「読む」、「書く」、「聴く」、「楽しさ」、「無駄」、「不安」、「記憶」、「努力」、「考える」、「協調」、「変化」、「労働」、「プレゼント」、「味わう」、「ハマる」など。26回目となる今回のテーマは「共感」で、参加者は11名でした。
チェックイン
音声確認の意味も含め、①ニックネーム、②最近共感したこと/共感できないと思ったこと、を一人ずつ話していただきました。共感にまつわる体験を通して、共感ってどういうことなんだろう?とぼんやり考えながら対話に入っていきます。
前半(フリートーク)
前半は、「共感」というテーマに関して思うことを出し合いました。以前は最初に問いを立てる時間をとっていましたが、最近はテーマについて思うことを自由に話してから問いを立て、後半にその問いについて話すというやり方で進めています。今回は、下記のような観点が出されました。
・共感は単に情報を取り入れるだけでなく、心で感じたイメージを共有すること。
・共感の反対は疎外感?
・共感の前提として、対象(相手)を認める、理解するということが必要ではないか?
・人の話を聞いているとき、内容に興味がなかったとしても、その人が楽しそうだったらその楽しさには共感できる。共感はコミュニケーションのベースでもあり、ツールでもある。
・そもそもコミュニケーションをとっていない人に共感をするということがありうるのか?
・その人のある部分では共感できるけど、ある部分では共感できないということがある。共感できるだけの深さの情報が入っていないときなどは共感までいかない。
・群衆になったとき、ある同じ体験をしていれば共感と言えるのか?それとも共感したねという確認があって初めて共感となるのか?
・正しい判断、間違った判断とは言うけど、正しい共感、間違った共感とは言わない。判断は能動的に、共感は受動的に起こるのでは?
・ついしてしまったという共感もあるけれど、能動的な共感もあるのでは?自分の枠から判断するのではなく、相手の枠から考えるといった能動的な態度で。
・共感は価値の高いものとされているが、本当にそうなのか?
・共感と同意は違っていて、異なる他者としての共感がある。
問い出し
前半のフリートークを受けて、3分程、各自で問いを考える時間を取りました。その後、以下のような問いが出されました。
1.能動的共感はどうやって広げられるのだろうか?
2.共感は本当に相手のことを考えられているのか?
3.共感とその人の個性を認めることは関係があるか?
4.共感が成立しているときに、人と人との間でどのようなことが生じているのか?
5.共通の認識と共感ってどう違うの?
6.能動的共感は必要なのか?
7.能動的共感と受動的共感があるのか?
8.同意と共感はどう違うのか?
9.能動的・積極的共感は、何を目的としているのか?
10.共感と理解との違いは何か?
問いを出したあと、いったん休憩をはさみ、休憩中に問いを眺めていただきました。
後半の対話
投票で選ばれたのは「共感が成立しているときに、人と人との間でどのようなことが生じているのか?」という問い。ここから対話をスタートしました。
・いろいろなレベルの共感があるとして、その中で共通しているものは何か?例えば「わかる」「わかりたい」「つながりたい」など、共感が起きているときにどういう状態が生じているのか?
・共通の体験がないと共感できない?想像力だけでも共感できるのでは?
・共感は気づいたらしているもの。結果としてその状態が起きている。疑似体験や想像力は重要。
・事実や情報に関することは「理解」や「認識」で、思想・好き嫌い・倫理観・美意識などの概念的なものに同意できるとか理解できることが「共感」ではないか?
・理解、同意、共感はどういう関係で、どう違う?
・理解をしようとする⇒同意できるところを探す⇒共感するというプロセスがある。
・共感は動物的な感覚。感情、情動的なもの。
・情動的な古い脳で通じ合う共感もあれば、理知的な共感もあるのではないか?
・情動的な共感も理知的な共感もつながっている。分ける必要はないんじゃないか。
・職場に適応するために、上司が言っていることをそのまま受け入れているときは、上司の感覚を自分の感覚にしている。ある意味自分を捨てることで、上司の心に一体化している。
・それは共感と言えるのか?
・不合理な現実を自分のなかで合理化するための共感と言えるのでは?
・対話をしながら、ここは同じ、ここは違うというように理解が深まっていくこと、違いを話し合えること、その状態が共感ではないか。
・違いを言える、認め合うというのは共感の手前ではないか?
・自分と相手が対等であり、実感をともなってわかった、つながったということが共感では?
2時間の対話を終えて
「共感」の状態について、それぞれが持っているイメージを共有しながら意見を重ねていったものの、最後まで少しずつすれ違っているような対話が続きました。終了後の放課後タイムでも、残ったメンバーで引き続き対話がされイメージの共有を続けたところ「共感の状態」と「共感的理解」がごっちゃになって話されているからではないか?ということが見えてきました。
なんとなくもやもやっとしてわからないというときは、抽象的な話が続いているときです。そういうときはみんなでイメージを共有できる具体例を出すことが重要になってきますが、今回は一緒に考えられるような具体例の共有がなかなかできず、そのことでも対話が少し難しくなっていたかもしれません。
ゆっくり丁寧に人の考えを聴いて理解すること、みんなで一緒に考えられるような具体例や問いかけを見つけていくこと。ファシリテーターとしてまだまだできていなかったなあと反省です。とはいえ、参加者のみなさんのおかげで集中度が高く、とても濃い時間になったと思います。
今後の開催予定
■4月3日(日)、16日(土)対話の基本① "聴く"トレーニング
※両日とも同内容です。
■4月9日(土)、16日(土)対話の基本② "問いかける"トレーニング
※両日とも同内容です。
■4月23日(土)10:00~12:00 オンライン哲学対話:テーマ「旅」