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哲学対話「寛容」の開催レポート

毎月第4土曜日にオンライン哲学対話を実施しています。6月24日(土)に開催した際の様子をレポートします。

哲学対話の概要

哲学対話とは「普段はあらためて考えない疑問」、「すぐには答えが見つからなそうな疑問」について、みんなで語りあって思考を深めていく場です。52回目となる今回のテーマは「寛容」でした。

これまでのテーマ
「対話」、「時間」、「夢」、「言葉」、「弱さ」、「笑い」、「つながり」、「学ぶ」、「遊び」、「信じる」、「読む」、「書く」、「聴く」、「楽しさ」、「無駄」、「不安」、「記憶」、「努力」、「考える」、「協調」、「変化」、「労働」、「プレゼント」、「味わう」、「ハマる」、「共感」、「旅」、「役に立つ」、「自尊感情」、「ほめる」、「本音と建前」、「違和感」、「配慮と遠慮」、「成長」、「鈍感」、「ユーモア」、「沈黙」、「選択」、「もやもや」、「差別と区別」、「感情」、「先延ばし」、「したたか」、「嘘」、「後悔」、「常識」、「距離感」、「思い込み」、「先延ばし(2回目)」、「流される」

※以下、当日出た意見を、個人が特定されない範囲で紹介します。個人の具体的な体験などは省略した他、進行役の解釈・編集が入っていますのでご了承ください。またメモを見返して意味がよくわからない部分は省略しています。

チェックイン

音声確認の意味も含め、①ニックネーム、②今の気分、を一人ずつ話していただきました。

フリートーク

前半の30分くらいはまず、テーマ「寛容」に関して思い浮かぶことを自由にお話していただきました。下記のような観点が出されました。

●寛容しているとき、心の中で何が起きているのか?
・不快なことを飲み込んでいるのか、無関心でどうでもいいと思っているのか、鈍感で気づいていないだけなのか。

●寛容力があるとしたら、どうやって身につけるのか?

●他者に対してだけでなく、自分に対しての寛容もあるのではないか?

●見て見ぬふりをする、あえてスルーすることが寛容なのではないか?

●寛容と受容の違いは?
⇒寛容は自分にとって不利益なことを許す。受容は不利益とは関係ない。寛容と許すことは密接に結びついている。
⇒受容はそっくりそのまま受け入れる。寛容は許すことにこだわる。

●ここまで許せる、ここからは許せないという「ものさし」は、どんな基準で決まるのか?

●寛容であるために何が必要なのか?寛容と優しさは何がちがうのか?別のものなのか、寛容の中に優しさがあるのか?

●寛容が許すことだとしたら、許すというところに上下関係が発生する場合がある?

問い出し&問い決め

フリートークの内容を踏まえて、後半深めていく問いを出し合いました。
似ている問いを合体させ、5つの問いの中から投票で選びました。

1 許す心が、寛容に結び付くのか?

2 寛容な社会はどうすれば作れるか?
(よりよい社会(?)にしていくための寛容さとは?)

3 自分が寛容であることは、他人にも寛容であってほしいことの裏返しなのか?

4 譲れない人同士でも寛容になれるか?
(価値観、利害関係によって異なるのではないでしょうか、結局、多様性を認めることになる。でも、譲れないことってありますよね。)
(あらゆることを許すことが寛容といえるか?)
(『寛容』さ(寛容力?)はどのようにしたら身につくのか(養われるのか)?)

5 他人に興味がない人や、単に鈍感な人も寛容と言えるのか?
(鈍感なことは寛容といえるのだろうか?)

決選投票で選ばれたのは「寛容な社会はどうすれば作れるか?」という問い。ここでいったん休憩をはさみました。

対話「寛容な社会はどうすれば作れるか?」

後半は選ばれた問いを入り口に対話をスタートしました。
まず問いを出していただいた方に、どうしてその問いについて考えたいと思ったのかを共有していただくところから。

●そもそも我々は無人島で一人で生きているわけではなく、社会の中に生きているのだから、お互いに寛容になる必要がある。じゃあ、そういう社会をどのように作って行けるのかについて話したい。

●そもそもなぜ寛容であるべきなのか?寛容でないといけないのか?と思ったが、逆に寛容じゃない世界を考えると怖い。社会がよい方向に向かっていくためには寛容が必要。
⇒寛容でなければ戦争がおき続ける。

●寛容な社会ってどういうイメージ?
⇒社会的なルールにのっとった上で、個人が自由であること。
⇒例えば以前の職場で、外国の技能実習生が一緒に働いているのにそこに触れようとしないという風潮があった。寛容なふりをしている感じ。
⇒例えばレストランでハラル対応の食事があるのが第一段階。それぞれの価値観や文化を認めたものがある。ただ、別々に食事をすればいいということではなく、その上で同じテーブルにつき、対話や相互理解を一緒にできることが次の段階ではないか。
⇒例えば、戦時中は不寛容だったかもしれない。一方で、現在住んでいるマンションは他の人にあまりつっこまないという意味で寛容的だと思う。

●対手の立場に立つ必要がある。対話だけではなく、ディベートのように自分の考えとは異なる立場に立って考え、発言することを繰り返すこと、自分とは逆の意見を持つ役を経験してみることが重要なんじゃないか。

●意識して寛容になろうとするのではなく、自動で寛容になってしまうとき、それは鈍感や無関心ということなのか?

●無関心は一見寛容に見えるという「偽」の寛容ではないか。「真」の寛容は、相手を認識し、許し、咎めない。聞き入れ、差別せず、自分を引き比べて相手を理解する。尊重する。そういう姿勢は、無関心からは出てこない。寛容な社会にはそういった姿勢が必要。

●無関心の対象は人?行為?
⇒マンションの例でいうと、対象は別の家族。必要以上に干渉しないということ。
⇒人と行為をわけるのは難しい。例えば不倫に不寛容な人は、不倫をした人をその行為と切り分けにくい。どうしても人と行為が重なってくるんじゃないか。
⇒例えば電車で助けを求めている人がいたら、その人への関心というよりはその事態への関心を持っていると言える。
⇒その例は、優しさであって寛容ではないのではないか?

●寛容はパラドックス。なんでもかんでも寛容することがいいわけではなく、寛容であることを破壊しようとする行為があるならば、その行為には不寛容にならなければいけないと思う。寛容さを守るには、ある程度の不寛容が必要。

●戦時中は不寛容という話があったが、人はみな生まれながらにして寛容であって、何かそれを乱すことが起こると有事と思ってしまい、寛容を発揮できないのではないか?

●そもそも人は寛容さを持っているからこそ、不寛容な自分を感じたときに葛藤を感じてしまうんじゃないか。

●有事のときに寛容であることは難しいとしたら、有事じゃない時に逆の立場になって考えてみる、対話をするということが大切なのではないか。人は自分の権利も守りたいし、他者の行動が理解できる場合もある。そのラインをどう取り決めるかを考えることが大切。

2時間の対話を終えて

対話の時間が足りなかったようで、放課後に入っても、本編で言い切れなかった発言が続きました。「寛容」という言葉が包含することは、とても2時間では話しきれないなという実感が残りましたが、一方でこのように10人以上の方と一緒に共に立ち止まって考えることができてよかったです。

本編で出てきた、「自分の考えとは違う立場に立ってみる」という方法について、アーノルド・ミンデルが行っているワールドワークや、心理療法であるサイコドラマ、エンプティチェアなども有効かもしれません。違う立場に立ってみることの有効性を確かめるために、今度ディベートを開催して哲学対話と比べてみようというアイデアも出ました。

今後の開催予定

最新の開催情報は下記Peatixページに掲載しています。

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