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個性とは何か、優しい人は優しさを本当に持っているのか

キャッチーなタイトルをつけてみた。内容は、「性格」や「属性」という要素を完全にその個人の所有物として考えることができるのか、ということだ。

ある優しい友人が私に対して、「〇〇ちゃんは優しい」と言った。他の人にも言われたことがある。でも、その「優しさ」という属性はどうも私自身の中に内在されていないように思う。自慢でも謙遜でもない。どうしても自分が優しい人間だとは思えない。

ただ、矛盾したように感じるかもしれないが、私のことを優しいと言ってくれる人は決まって優しいと思う。

そんな訳だが、敢えて、ここで私は一つの仮定を立てたい。性格のような属性が個人の中に所有されるということは、(全く無いわけではないが)あまりないのではないか。

日本の倫理学を体系化した和辻哲郎は、「人間」という漢字から人間を分析した。人間とは人の間を生きる「間柄的存在」であると彼は言った。

性格というのも個人の中に内在するのではなくて、関係の中にあるのではないか。つまり、私が「優しい」人として現れることができる時というのは、その相手と私が相互に関係の中に「優しさ」を築いているときではないのか。

しかし、相互関係の中に優しさが芽生えると言ってもその優しさはゼロからどのようにして作られたのか、と疑問に思うかもしれない。どこの誰、どこの何、どこのどんな関係性から始まったのか分からない、そんな複雑で曖昧なものを背負っているものこそ個性なんじゃないだろうか。そういう個性がお互いの中にちょっと内在して居て、相互の関係に入った時に「優しさ」というものに形を変えて成立する。性格と個性は違うのかもしれない。

個性は、種のようなもので人との関係性の中で「優しさ」「誠実さ」「大雑把さ」「浅はかさ」など色々な花を咲かせる。種というのは、突然生まれるのではなくその地域、その時代、歴史を背負っている。個性もその大きな者の中の一つなんじゃないだろうか。

そして、この人の前では色々な自分を自由に表現したいと思える関係性を、ある人と築いている場合、その人との間には花束や花畑だって作れるのかもしれない。

書きながら今日は、性格と個性について考えてみた。