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詩についてのとりとめもないこと

自分を指して「私は詩人です」という人のことが長らく大嫌いだった。谷川俊太郎や最果タヒなどの一般に膾炙された人などが言うなら、それは自他ともに認める詩人だろうと思っていたけれど、ネットで細々と書いているだけのような人で、実際にその人の作品など読んでみても「これで自称詩人ですか…」と失笑してしまう人ばかりに遭遇したせいかもしれない。どれだけ「詩人」なめてるんだと思っていた。

でも最近考え方がほんの少し変わって、私がそういう自称詩人の類を嘲笑っていたのは、私の問題なのかもなあと思うようになった。だって私、どうやっても自称することすらできない。「現代詩コンクール受賞したけれど…」https://note.com/flowerbone/n/n3536a5d75838 でも書いたけれど、選評として「小説や散文に生きるのではないか」と2度も言われるほど、詩作品として私には何かが決定的に足りてない。何かの一つは分かっている。私はおおよそ詩的表現というものを書けないのだ。私が書けるのは物語詩であって、普通の詩的表現を用いた詩、というものがどうやっても書けない。

だから、そんな私だから自称でも己を詩人と評する人たちのその自意識に、やっかみを持っていたのかもしれないと思うようになった。(たいていは勘違い甚だしいと今でも思っているけれど)

現実問題として私は喜怒哀楽を上手く表現できない。怒るべきところでニコニコしていたり、悲しむところで恨みに思ったり、そもそもその場で感情が沸き上がるということがあまりない。後から考えて、怒り狂ったり泣いたりということが日常茶飯事なのだ。後から考えてといったが、後からでも感情が喚起されるならまだマシで、無意識下に沈んでしまうことが大半なのだ。(だから「詩が降ってくる」という現象が起きるのだと思う)そのくせ持病もあって情緒不安定だし、なんていうか、あまりにも「詩人」から私は遠すぎるなと思う。

まあそんな諸々もあって、ここはひとつ「物語詩」ではなく本当に物語を書いてみてはどうかと思うようになった。物語といってもショートショートだけど。確かなにかの文芸雑誌で作家の阿刀田高が審査しているショートショートを募集しているものがあったはずだ。なんていう雑誌だったかは覚えていないが検索すれば出てくるだろう。

ちょうど「物語詩」として書いたものでショートショートに納まりそうなページ数のが一作ある。それを雑誌に送ってみるのも良いのではないかと思った。箸にも棒にも引っかからなかったらそれはそれ、都合よく、やはり私の書いているものは詩よねーなどとうそぶいて、これまで通り書いていればよいだろうと思う。自称ですら詩人を名乗れなくても、詩を書くのは自由だし。

そういうわけで、いつになるかわからないけれど、その物語詩として書いた「桃源郷」をショートショートに手直しして、これまたいつになるかわからないけれど、いつか近いうちに公募に投稿してみます。

けれど簡単に宗旨替えしたとは思わないでほしい。私はいつだって詩を書いているつもりで詩を書いてきたし、選評に書かれたから簡単にじゃあ挑戦してみようかと思ったわけでもない。むしろショートショートとして応募してみようなどと思ったことについて、負けた感がある。なにに?自分の資質に。