宇宙人など触媒にすぎない
自信とはなんだろう。
私は自信があるのだろうか。
そうは思っていない。素敵な人たちの中にいると萎縮してしまうし、授業で発言する時もオドオドしてしまう。
何かで悩むことはあるか。
あるといったらある。しかし、冷静に考えたらくだらないことばかりだ。隕石が落ちてきたらどうしよう。宇宙人が攻めてきたらどうしよう。人類が滅亡するなんて記事を読んだら、もう大変。しばらくは怯えて過ごすし、記事の内容を忘れた後でさえ、数ヶ月は理由のない不安に侵されることになる。
本当にとうしようもない。隕石が自分に落ちてくる可能性は、宝くじが当たる確率より低いらしいし、宇宙人だって、いたとしても攻めてくるとは限らない。ETみたいに仲良くなれるかも。人類滅亡など、それこそありえない。今まで数えきれないほど出てきた人類滅亡説は、すべて外れた。
こんなくだらないことを怖がり悩む私だが、自分の人生に悩むことはめったにない。もちろん、この先どうするかを熟考することはあるが、基本的に楽観主義だ。
自分が関わっていることなのだから、自分の力でなんとかすることができる、と信じているのかもしれない。これは、相当自分に自信があるということではないか。
自信のあるなし。社交的か内向的か。素直か頑固か。このように、人間はスッパリ割り切れるものではないと感じている。誰だって相反する一面を持っているのではないか。賑やかに騒いでいる人を見たら、「脳天気な人だな」と思うだろう。でも、そんな彼にだってきっと、どこかにシリアスな一面があるに違いない。
私は究極のポジティブ人間だと言われる。大学受験や就職活動の最中、傍から見たら崖っぷちの状況でも毎日笑って過ごし、思い悩むことはなかった。日常の中で、将来への不安を抱くこともほとんどない。
しかし、私は本当にポジティブなのだろうか。隕石、宇宙人、不吉な予言。これらに代表される不確かなものに、散々悩まされてきた。当然、こういったものを自分の世界に入れないように細心の注意を払っている。本屋のスピリチュアルコーナーは顔をそむけて素通りし、インターネットで不穏な記事にたどり着いたら、息もつかずにプラウザバックだ。自分のポジティブを守るために、ネガティブを意図的に排除しているとも言える。正確に言うと、隕石や宇宙人そのものが私を怖がらせているわけではないのかもしれない。私の心の奥底にあるネガティブが、それらに触れることによって呼び起こされてしまう、つまり触媒的な役割を果たしているのだろう。だから、触媒に触れないようにしているだけ。臭いものには蓋をする、という言葉のとおりのことをしているのだ。
いつかきっと、そのネガティブと向き合う時が来るのだろう。二面性を持たない人などいない。誰もが心の奥底に見たくないものを閉じ込めて生きている。そんな事情を察してあげられるような、お互いさまだよねって笑って受け止めてあげられるような、そんな人になりたい。