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7分小説 『蝉時雨が君を誘う』

 お風呂から上がって、ハブラシをくわえようとしたところで鳴ったインターホン。

「……え、どうしたの?」

ドアを開けて固まる私。

「……ども」

そこにいたのは数年前に別れた彼氏。

「久々に休みが取れたから」

それだけ言うと、はやては突っ立ったままの私を押し退けるようにして中に入る。


「いや、そういうことじゃなくて……」
「うるせぇな、疲れてんだよ、休ませろ」

付き合ってた頃とまるで変わっていない。
自分勝手で横柄で。

「……お風呂入る?」
「今日はいい。とりあえず寝かせて」

でも私の知らない世界で山ほど気を遣ってるんだろうなと考えたら、それ以上は強く言えなくて。

私のベッドでさっさと寝付いたはやてにタオルケットをかけると、リビングのソファーに移動した。


 今夜はたぶん眠れそうもない。



 ほんの少し微睡まどろんだと思ったら、外はもう明るくなっていた。

いつものくせでテレビをつけると、今も私のベッドで気持ち良さそうに寝息を立てている男が大々的に取り上げられていて、慌ててボリュームを下げる。


――シンガーソングライターのはやてさんが一昨日から仕事に無断欠席され、事務所の方とも連絡が取れない状況が続いてるとのことです。


――まあ、彼もいい大人ですしね。何か事件に巻き込まれてなければいいのですが。


――しかし、三ヶ月先までスケジュールが埋まっているそうですからね。事件でもないのに、仕事に穴を開けているのだとしたら大問題ですよ……


「……涼音すずね

突然呼ばれた名前にびくりと肩を震わせ、はやての視界に入らないようにすぐさまテレビを消す。

「……あ、起きたんだ?」
「ん」
「私はもうちょっとしたら仕事行くけど、はやてはどうする?」
「ここにいる」
「……そう」


昨夜の休みが取れたという嘘をとがめることなんて出来やしなかった。

だって私はもうはやての彼女でも何でもないのだから。



 元カレと過ごす朝はなんだか気まずくて、いつもよりずいぶん早く家を出てしまった。

駅のホームで目的の電車を待つ間、スマホでネットを閲覧する。

はやての所属する事務所のホームページには、早くもお詫びのコメントがアップされていた。

そして目撃情報を募るメールフォーム。

不思議なものでそれを見て初めてはやてのすごさを実感する。



 私と付き合い始めた頃はまだインディーズで新曲をリリースしても鳴かず飛ばず。

プロモーション活動で地方のテレビに出演が決まったときには見ることもできないのに、二人して大喜びしたものだ。

いつしかじわじわと人気に火がつき、メジャーデビューが決まって。その辺りからお互いにすれ違いが多くなって自然消滅。

それなのに、今になってに再会するなんて。

少しずつ上がり始めた外気温で額に滲んだ汗をハンドタオルで拭いながら物思いに耽る。

どこかで蝉がジージーと鳴いていた。



 ふらっと現れたはやてのことだから、不意にいなくなるんだろうと思っていたのに気がついたら一緒に暮らすようになって五日が過ぎていた。

はやて、」
「……なに」
「いつまでこの生活続ける気なの?」
「わからん」
「朝から晩まで家の中にいて退屈じゃない?」
「別に」
「ならいいけど……」

少食のはやてが増えたところで、夕飯に作る料理の数は以前と変わらない。

ぶっきらぼうで言葉少ななはやてといても、会話の量が多くなるわけでもない。


だけど、そこに気まずさはもうなくて。
無理に追い出す気もなくなった。


「夜になっても蝉がうるさいね」

深い意味もなく漏らした言葉は、はやての触れられたくない部分に触れてしまったらしい。

「……俺なんか蝉みたいなもんや」
「どうしたの? 急に」
「くっそ長い下積み積んで、やっと日の目を浴びても、ちょっとしたことで叩かれて、干されて」

仕事の話だとわかって、私は口をつぐむ。

何も知らないくせに口出しすることをはやてはきっと嫌がるだろうから。


「なあんも悪いことしてないのに。ただ自分のしたいように叫んでるだけで、うるさい、邪魔や、消えろって罵詈雑言浴びせられる」

何かに怒っているようで、自分に失望しているようにも見えて。

「もうやってらんねぇよ……」

あまりにも苦しそうに話すから、なんとかしてあげたくて、そっと手を伸ばしてはやての頬を親指の腹で撫でた。


そうしたら、少しだけ眉間の皺が弛んだ。


「何もかも嫌になって飛び出したとき、なんでか涼音すずねのこと思い出して」
「……うん」
「そしたら居ても立ってもいられなくなってた」

今にも泣き出しそうな目尻を指先で擦ると、はやてはくすぐったそうに笑った。

「ごめんな、勝手にここに居ついて」
「……ううん」
「明日には事務所の人達と話してくる」
「……うん」
「たぶんもうあっちの世界には戻らんから」
「でも、いいの? はやての夢だったのに」
「もう十分。一瞬でも夢見られたし」

そう話すはやてはどこか清々しくて、それならいっかと思い直す。

「それより今はもっと大事なもの見つけたから」
「……そう」

大事なものってなんだろう?

気になったけど、それよりもちゃんと伝えたい思いがあった。


「しんどかったときに、私のこと思い出してくれてありがとう」
「ふっは、なんだよそれ」

そこにはもうさっきまでの苦しそうなはやてはいなくて、私も安心して微笑んだ。



 翌朝、私が目覚めるより早く、はやては出かける準備を整えていた。

「もう行くの?」
「早く行かねぇと決心が揺らぎそうだから」
「……そっか」
「これおまえにやる。渋谷のコインロッカーの鍵」
「へ?」
「気が向いたら見に行って」

まだ寝惚けている私の手に鍵をぎゅっと握らせると

「じゃあな」

あっさりと立ち去った。



「……ばーか」

 遅刻覚悟で寄り道した駅で私は毒づく。

こんな手の込んだことしないで、直接渡してくれりゃいいものを。


開いたロッカーの片隅に置かれた小さな箱。
その中にはシンプルなシルバーリング。


一緒に入っていた小さく折り畳まれた紙には見覚えのある汚い字で“結婚してください”と書かれていた。

その後ろに私の知らない11桁の数字。

返事を考えるより早く、スマホにその番号を入力する自分に笑ってしまった。



数ヵ月後――

ミュージシャンのはやてさんが芸能界引退を表明されました――




(20160723)


 昔書いた作品。今となってはどんな形になろうとも大切な人が元気で笑って生きてくれたら、それだけでいいやって思いますね。

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