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「自分が生きていることの価値」は他人に教えてもらう必要がある

今日は初めてバイトの現場に出る日だ
やるぞ…

業務自体は難しくないはずなのに、けっこう緊張している

やはり、業務そのものよりも通勤時間の長さのほうが気になっている
早起き嫌すぎるな



「掛けてもいい迷惑」の話の続きをしたい
「バイトを早期に辞める」というのは迷惑だが、労働者の権利として認められている、といったものだ

掛けてもいい迷惑を遠慮してしまうケース、その最たるものが「過労死」ではないか

過労死の理由を突き詰めると、「休んで人に迷惑をかけるくらいなら死んだ方がマシだ」という本人の気持ちに行き着くことがある
この気持ちに共感できる人はけっこういるのではないか

一方、周りの人の方は「迷惑をかけてもいいから死なないでほしい」と思っていることが多いのではと思う

だとすれば、本人と周りの人の間で認知が食い違っていることになる
本人が「周囲の人は自分が迷惑をかけてもいいと思っている」と正しく認識できれば、死ぬ選択をせずに済むかもしれない

これは極端な例だが、「掛けてもいい迷惑」が申し訳なくて掛けられないことも、自分と周囲の認知の食い違いが原因な気がする



この食い違いの原因は、「主観と客観は質的に異なり、単純に比較できないから」というところにあるのではないか

たとえば自分の仕事が苦しく、休みたいとする
だが、それでは周囲の人に迷惑をかけてしまう

ここで、「自分が回復することの価値(例: 周囲に与える喜び)」と「周囲に与える迷惑」を比較して、「前者が上回るから休もう」と思えるのがベストだ
だが、前者は主観かもしれないのに対し、後者は客観だ

一般的に、主観より客観の方が正確だ
「傍目八目」とはよく言ったもので、当事者よりも周囲の人の方が、本人のことがよくわかったりする

その意味で、客観である「周りの人に与える迷惑」の方を重く見積もってしまうのではないか

迷惑をかけてでも休む決心をするには、「自分が回復することの価値」も客観として捉える必要がある
具体的には、家族や友人などの他人から「あなたが回復することには価値がある」と教えてもらう必要がある

すると、「自分が回復することの価値」と「周囲に与える迷惑」を同じ客観として比較でき、休む選択もできるようになる



実際は、苦しくなってからそれを教えてもらうのでは遅い
それまでの人生の中で、「自分が生きていることの価値」を教えてもらっている必要がある

これは、親(養育者)以外には果たせない責任ではないか
こどもの価値観の形成に最も影響を与える人にしか持てない役割だと思う



なお、自分は心の中の「親友」にそれを教わっている
(「親友」と呼んではいるが、実際は自分が学んできた心理学、アタッチメント、コミュニケーションのあり方などの総体なのだと思う)



…まとまったか?

時間もないのでここで終わろう
バイト行ってくる!



じゃまたね
読んでくれてありがとう



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