見出し画像

【孤高のやり投げ選手—溝口和洋】ノンフィクション『一投に賭ける』



未だに破られない1989年の日本記録


2023年7月17日、ポーランドで行われた陸上競技世界最高峰の国際大会シリーズ、ダイヤモンドリーグ第8戦シレジア大会で、女子やり投の北口榛花が67.04mをマークして今季2勝目をあげた
自身のもつ記録を1.04m更新する日本新記録となった。

北口榛花には、ブタペストで開催されている世界陸上でのメダル獲得の期待もかかっている。2022年オレゴン大会での銅メダルを超えることができるか。
世界ランク1位に位置する彼女がベストの投擲をすることができれば、栄光は現実のものとして迫っている。

北口榛花が日本記録を更新したニュースを聞き、なんとなく男子やり投げの日本記録の項目にも目を向けてみた。

日本記録を持っているのは村上幸史か、ディーン元気か、そのあたりの選手だろうと思っていたが、歴代1位の項には全く知らない名前が載っていた。

1.溝口和洋 
87.60m 1989. 5. 27

それも、随分古い記録だ。
平成元年5月27日。
つまり溝口の記録は現在に至るまで34年ものあいだ更新されていないことになる。
日々トレーニングの革新が進み、記録が更新され続ける陸上競技のなかで未だ破られない溝口の記録は半ば伝説的であるとも言える。

調べてみると、この溝口和洋という男、かなり興味深い人物だ。

溝口和洋は日本トップレベルの選手であっただけでなく、そのアスリートとしての足跡、人間性や生き様についても多くの逸話を残してきた。
メディアを嫌い、世に出ることを嫌った溝口は孤高の選手として陸上競技界では知られていたという。

溝口和洋を追いつづけたジャーナリスト、上原善広が2016年に上梓したルポルタージュは、「最後の無頼派アスリート」と題されている。


溝口和洋は1989年、当時の世界記録にわずか6センチにまで迫る87m60を投げ、その後WGP(世界グランプリ)シリーズを日本人として初めて転戦し、総合2位となった。

「幻の世界記録」となった投擲は30年あまりが経過した今も破られていない。

溝口和洋は苛酷なウェイトトレーニングを課して自らの肉体を鍛え上げ、生活のすべてをやり投げに費やすという孤高の道を行った。

高校のインターハイにアフロパーマで出場し、大学時代からはリーゼントできっちり固めた頭で試合に臨み、競技会のあいだにもタバコをふかしたりするなど、溝口は記録以外でも話題に事欠かない選手だった。

1990年代初頭に陸上競技の表舞台から姿を消した溝口は大学にも企業にも所属せず、一時期はパチプロとして生計を立てている時期もあった。

スポーツ選手としての絶頂から突如としてフィールドから去った溝口の名は、陸上界における伝説となった。

そんな溝口のやり投げに身を投じたアスリート人生を、本書から辿る。

(※北口榛花は女子やり投げ決勝で、4位につけていた最終投擲で66m73を記録し、逆転の金メダル。世界ランク1位から、大本命での優勝となった。あの最終投擲の興奮は、生放送でなければ味わえなかった。深夜まで起きていて良かった!)


「全身やり投げ男」溝口和洋


紀伊半島の南端近く、和歌山県白浜町の農家に生まれた溝口は、類いまれな肩力を持っていたが、野球などのチームスポーツになじめなかったこともあって、熊野高校へ進学すると陸上部に入りやり投げを始めた。

高校時代に国体で2位に入る活躍を見せ、大学へ進学した溝口は、3学年上の日本記録保持者、吉田雅美を目標にしてトレーニングに励むことになる。

溝口は一切の常識を疑った。

彼は師匠と呼べる指導者を持たず、独自のトレーニング法を編み出した。
それはウェイトトレーニングを主体とするもので、練習時間の大半を筋力強化のためバーベルをひたすら上げることに費やした。

現在では高校生でさえウェイトトレーニングを取り入れているが、当時はまだ一般的ではなかった。
競技に必要な筋肉は、競技中の運動の中で身につけるべきだという考えが大勢を占めていたためだ。

その中で、溝口はウェイトトレーニングによって、欧米の外国人選手に負けない肉体を作り上げた。

私のトレーニングは、ウェイト(ウェイト・トレーニング)が100%で、あとの走・跳のトレーニングは付け足しに過ぎない。投擲練習を入れて、大体120~140%のトレーニングを自分に課した。
この100%とは、全日本レヴェルの選手の三倍以上の質と量がある。例えば12時間ぶっとおしでトレーニングした後、二、三時間休んで、さらに12時間練習することもあった。これだけやってようやく人間は、初めて限界に達する。
ただしこれは全て、ウェイトだけの時間である。
それにプラスして、走・跳と、投げの練習が入る。これで120~140%の練習になる。つまり体力的限界を超えているわけだが、そこは精神、俗にいう「根性」でカバーする。

『一投に賭ける』39-40頁


溝口のトレーニング法は文字通り常軌を逸している。

人間というのは、肉体の限界を超えたところに、本当の限界がある、というのが溝口の考えだ。
死ぬ気でやれば人間というのは大体、何でもやれるものだ。そんな極限状態にまで、彼は自分の肉体を追い込んだ。

どう考えても無理な話だが、身長180cmの日本人が、体格に勝る欧米人にやり投げで闘おうとする以上、ここまでの鍛錬が必要なのだと溝口は語る。

溝口のベンチプレスのマックスは197.5kg。
また投擲種目の選手であるにもかかわらず、彼は100mを10秒台で走る。

彼がやり投げで見せるビッグスローは、鍛え抜かれた肉体によって支えられていた。


こうして超人的なトレーニングを敢行し、日本記録保持者ともなった溝口だったが、ことオリンピックの舞台となると活躍できなかった。

22歳の若さで臨んだ1984年のロス五輪では海外選手の圧倒的な実力を見せつけられ20位に敗退。
自己記録を伸ばしメダル獲得も期待された四年後の1988年ソウル五輪では、調整に失敗しまさかの予選落ちに沈んだ。

試合後、落ち込んでいる私に、陸連のコーチはこう言い放った。
「せっかく連れてきてやったのに、なんてザマだ」
予選落ちして自分でも悔しいところへ、この言葉に私は切れた。
「うるさいんじゃッ。べつにお前に連れて行って欲しいと言うたわけやない。お前がオレに何してくれたっていうんじゃ。ガタガタ言うなッ」
単に試合に付いてきただけで、べつに世話にもなっていないコーチに「せっかく連れてきてやったのに」などと言われる筋合いはない。
(…)
何が日本代表だ。ようは陸連の名誉の横取りではないか。
何より、結果を残せない自分に腹が立っていた。

同書34-35頁

当時やり投げに注目が集まる場所はオリンピックに限られ、選手たちにとっては特別な舞台だった。
2度のオリンピックでの敗退は、周囲の期待もあっただけにショックの大きいものだった。しかし、失望の中にあっても溝口は自らに課すトレーニングを緩めなかった。

一人称の語りが織りなす「無頼派」エピソード


引用部を見てもらえればわかるように、著者の上原善広は、本書において一人称の語りを採用している。
そのため一読すると、まるで溝口和洋本人が読者に語りかけているように感じられる。

上原善広は、初取材から18年もの年月をかけて丁寧に溝口にインタビューを重ね、この孤高のアスリートの隠された真実へと迫っていった。

そしてこの「一人称の語り」は成功していると言える。
世の中の常識から外れた溝口の生き方を削り出すには、第三者の視点を挿れず、そのままに放ってしまったほうがよい。

溝口は自身を飾り立てることなく、あったこと、感じたことをそのままに語る。
陸上競技の先輩であるやり投げ選手の吉田雅美や、短距離の第一人者である高野進に向ける言葉にも遠慮がない。そして陸上競技連盟に対しても辛辣な批判を投げかけている。

まるで往年の落合信彦の文章を読んでいるようなきらいもあるが、常人の枠に収まることのない溝口の人生には、この文体が心地よい。

文中で溝口が敬称をつけて呼んでいる人物は、熊野高校で陸上競技部顧問だった登坂健一と、ゴールドウイン社のトレーナーだった村木良博のみ。
室伏広治の父室伏重信にも、陸上競技界の年長者である高野進にも敬称はつけていない。
孤高の道を歩んだ溝口らしいが、恩を受けた者にはしっかりと敬意を払う彼の人柄もここから窺うことができる。

溝口は自身のことを赤裸々に語る。

酒もときには一晩でボトル空けるほどに飲んだが、それは自分が納得し満足した試合、練習ができた日に限られていた。
また、酒を呑んで朝方まで女といて二日酔いで日本選手権に臨んだこともあったが、それでも80m台の記録で優勝している。

ときに批判されたタバコについても言及がある。
タバコは練習中には吸わないが、試合前にリラックスするためには不可欠なのだという。タバコは健康に悪いというが、「どう考えてもやり投げの方が身体に悪い」という溝口の言には笑ってしまう。確かにその通りだろう。

幻の世界記録 サンノゼで見せたビッグスロー


ソウル五輪での挫折から年が明けた1989年シーズン。溝口は27歳になっていた。
やり投げ選手の寿命は短く、その上過度な負荷をかけている溝口の肉体は、いつ壊れてもおかしくなかった。

「たった一年、いや一瞬でもいい。世界のトップに立たなければならない」

決意のもと、このシーズン、溝口は自らのプライドを賭けて、記録を狙っていくことにした。

フォームを変え、助走のやり方も変えた。

するとこの試みは功を奏し、雨でコンディションの悪い中、四月の競技会で自己記録を1メートル以上も更新し、新たな日本記録を出した。
目標としていた世界記録保持者のヤン・ゼレズニーの背中が見えるところまで迫っていた。

確かな手ごたえを掴んだ溝口は、世界を周るワールドグランプリシリーズへの参戦を決行する。まだこの賞金レースに参加した日本人選手はいなかったが、世界記録を目指す溝口は、トップレベルの競技会で勝負することを望んだ。

GPシリーズ第一戦の舞台は、アメリカ西海岸、サンノゼ。
カリフォルニアの気候は日本と違いカラっと乾いている。五月らしい爽やかな風の吹く快晴のコンディションだった。

二投目で84mを越える記録を出した溝口は、コンディションの良さを感じていた。
このまま、「本当の一瞬」を掴むことができるか。

そして運命の四投目。
その瞬間は訪れた。

ガンッという衝撃が身体に走った。
左足による、完全なブロック。
猛スピードで真正面から電柱にぶつかり、一瞬にして止まった事故車のように、助走とクロスから右足によって全力で蹴りだしたパワーを、左足一本で一瞬にして止める。
左手も固定して、左半身までも一瞬で止めてしまう。
強烈な衝撃は左足から体幹を通り、右肩へと伝わっていく。
その衝撃ですでに飛び出そうとしているやりを、ベンチプレス197.5㎏を挙げる腕力でさらに前上方へと押し出してやる。
目の横に付けていたやり先はこのとき、初めて上空を向いて離れていく。
右肩と右肘は、あまりにも急激な衝撃に破壊されるのを恐れて悲鳴をあげるが、別につぶれたって構うことはない。
全ての力を込めて、やりを上空へと投げる。
バンッ、という音にもならない音をたてて、やりは空中へと投げ出された。
全てのタイミングが合った。

同書7-8頁

87m68。

「NEW WORLD RECORD!」と場内アナウンスの声がスタジアムに大きくとどろいた。
まぎれもない世界新記録。
溝口はついに、究極の「一瞬」を捉えたのだと確信する。

しかしこの直後、グラウンドでは異例となる再計測が行われ、最終発表は87m60となった。
世界記録更新かと思われた一投は、一転して世界第二位の記録となった。
帯同していたトレーナーの村木は抗議の声を上げたが、溝口はそれを制した。

その瞬間、もう溝口は前を向いていた。

溝口に言わせれば、記録には二つしかない。
世界記録と、自己ベストと。
世界記録は競技者の誰もが目指すもの、自己ベストは競技者本人に関わりのあるものだ。
日本記録など、世界では気にしているものなどだれもいない。

最高のやり投げのパフォーマンスをすること。
それだけしか、溝口の頭にはなかった。

第一戦のサンノゼから、ワールドGPシリーズの舞台はヨーロッパへと移る。
ストックホルムからエジンバラ、ロンドンと各地を転戦し、陸上競技の人気の高いヨーロッパで満員の観衆の前でビッグスローを幾度も披露した溝口は、最終戦でイギリスのバックリーにかわされたものの、総合2位という日本の投擲選手として前人未到の快挙を成し遂げることになった。

致命的な負傷から、引退 室伏広治への指導


1989年シーズンを終えた冬、溝口は世界記録の更新を目指して新たなフォーム改造に取り組む。彼は世界で他に例を見ない、頭の反動をエネルギーに転換する技術を開発しようとした。しかし、それは肉体の限界を超えるものだった。
ついに、溝口の身体は壊れる。

十数本目の投げに入ったときだった。100m10秒台の速さでクロスに入り、筋肉で固めた右足を思い切り蹴ってガンとフィニッシュに入ったとき、「バキッ」と右肩が鳴った。頭に響くほどの音だった。
その瞬間、私は「ああ、もう終わった」と思った。

189頁

溝口はこのとき世界のトップを目指すアスリートとしての終わりを悟る。だが、それでも競技を辞めるという選択はしなかった。

出場試合を極端に絞り、インタビューも全て断っていたため、溝口は「消えた選手」と周囲に思われていたが、自己の鍛錬は怠ることなく続けていた。

故障を抱えた肉体を見つめ直すことで、彼は自身のトレーニングを客観的に分析し、他の競技者に伝えられるものにするべく探究を進めた。
その証として平凡な記録ではあるが、1994年から1996年にかけて溝口は二度目の日本選手権三連覇を達成している

そしてこの頃、溝口和洋はハンマー投げの室伏重信から依頼を受けて当時中京大学の大学生だった室伏広治への指導を行っている。

この挿話は、室伏広治の著書から引こう。

室伏広治によれば、この時期彼は椎間板ヘルニアの罹患などもあって壁にぶち当たり、高校時代の記録にさえ及ばず、日本選手権では3位に甘んじるなど不調の最中にあった。
競技生活の中で唯一このとき、ハンマー投をやめようという思いもチラついたという。

そんなとき、やり投で世界ランク1位となったこともある社会人の溝口和洋さんに出会う。
溝口さんは練習の鬼だった。自分も厳しい練習をこなしているほうだと思っていたが、溝口さんは、誇張でもなんでもなく、私の10倍以上の練習内容をこなしていた。
そこで教えられたのは「限界を作っているようでは世界では戦えない。限界を超える練習をこなしてこそ、世界と戦える」ということだった。

室伏広治『超える力』141頁


ストイックなことで知られる室伏広治が自身の「10倍以上の練習内容」というのだから、いかに溝口のトレーニングが異様なものだったのかがわかる。

そして溝口の指導は、室伏広治を確かに変えた。

室伏広治はその後2001年世界陸上エドモントン大会で銀メダルを獲得し、2003年に84m86の自己ベスト(現在までの日本記録)を更新した。
アテネオリンピックで金メダル、ロンドンオリンピックで銅メダルと、その後の活躍は誰もが知るところである。

室伏は溝口のことを「恩人」だと語る。
彼は溝口によって限界に挑むことの尊さ、限界を超えるための練習をこなす楽しさを教わり、世界で勝負できるアスリートへと飛躍していった。


溝口和洋の現在


1996年、34歳で現役を引退した溝口は所属企業を離れ、中京大学で選手たちの指導にあたった。
なんと大学での指導を無償で行っていた溝口は、パチプロとして生計を立てていたという。

オリンピアンである溝口がパチスロで食っていることに対し、陸上界から陰口を叩く者もいたが、彼は意に介さなかった。

それから2000年代に入り、溝口は完全に陸上界から離れた。

溝口和洋はいま、どこで何をしているのか。

2018年放送の日本テレビ系『消えた天才』では、和歌山でトルコキキョウを栽培する溝口の近影を見ることができる。
(レポーターとして現地を訪れたのは元やり投げ選手だった照英。これは良いキャスティングだった)

45歳のときに地元の和歌山・白浜町へ戻り家業の農家を継いだ溝口は、将来性を見込んでトルコキキョウの栽培を始めた。
父親からは反対されたトルコキキョウの栽培だったが、徐々に軌道に乗り、今では紀南産のトルコキキョウの名は全国に知られるようになった。

常に「現実主義者」として、農業経営の本質を考え抜いた上でトルコキキョウに行き着いたというが、溝口は自ら育てる花を美しいと語る。

生涯の伴侶を得て、日々農業に汗を流す溝口の姿は幸せそのものだ。

冠婚葬祭で貴ばれるトルコキキョウの花

ここまで大筋を辿ってきたが、言及したように本書の魅力は溝口の「一人称」文体にある。
やり投げ選手溝口和洋の壮絶な半生と合わせて、この文体のもつ小気味の良い魅力をぜひとも感じ取ってみてほしい。

この記事が参加している募集

#わたしの本棚

17,955件

#ノンフィクションが好き

1,394件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?