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千年巫女 −前編−

ベラゴアルド短編奇譚


 白鵜は嫌いじゃない。こうして鼻先や頬にあたる冷たい雪を感じ取れるから。でも緑鳩のほうがずっとすき。だっていろんな匂いがするもの。赤燕も匂いはするけど、ちょっと暑いよね。着替えは本読みが三回来てからだから、身体が臭くなっちゃう。でもね、本当は、自分の匂いはどんなに臭くっても、嫌いじゃない。

 なんていうか、生きてるって感じられるから。

 オトネは心の中で呟きながら、架空の友人に話し掛ける。そうして、手に触れるしるべ布の感触に意識を集中させる。ごつごつした岩場は歩き難く、かじかんだ指先は危うく、掴んだ布を取り落としそうになる。

 そうなったらどうなるのだろう? 彼女は考える。あたしはそのまま置いて行かれるのだろうか?それとも、あなたが来て、どこかに運んでくれるのだろうか。声に出さずに語りかける。友だちという存在を生まれてから一度も持たない彼女は、物心ついた頃からずっと、そうして時々、架空の友人に語りかけている。

 ゴンダラは神殿を出てから一言も口を聞かない。おそらくすぐ側にいるのだろうが、彼女にそれを知る術はない。外で口を利いてはいけなかったし、両目に巻かれた布を取り去ることは、考えてさえいなかったからだ。

 いや、彼女も幼少の頃には何度もそうしようと試みた。幼少の頃に巻かれた、両目を覆う不厚い布。その布を隔てた先に広がる世界に、興味が無いはずもなかった。

 しかし実際には、顔に手を当てる事さえも許されなかった。彼女は周囲にいつでも多くの気配を感じて過ごしてきた。その気配は普段、一定の距離を保ち続け、一言も発しなかった。けれど、たとえば彼女が頭にかゆみを覚えたり、頬に虫が止まったりして、その手を顔の付近に伸ばした時だけに限り、急激に空気が揺らめき、その行為をもの凄い力で阻止するのだった。

 「ついに、カーク・ラノアへ向かう時が来ました。」ある日、ゴンダラはそう言った。彼女が推測するに、おそらく声色からかなり年寄りのその男も、物心ついたときからそこいて、彼女が巫女としての務めや行事がある度に、言葉少なに教えてくれた。

 逆に言えば、それ以外はほとんど口を開かなかった。他の者の気配と同じように、ただ側に佇み、彼女が食事をする時も、排泄をする時も、影のように押し黙っていた。

 彼の説明では、オトネが過ごした文殿のあるラボエ島から内海を西へ渡ったルボエ島、さらにその先の大陸の中心を目指した場所に、マルドゥーラ大神殿、カーク・ラノアはあるという。

 彼女には、それがどこにあるのかさえ見当もつかなかったが、小さな頃から戸惑わぬ様、何度もゴンダラから聞かされていたその経路通りに、着実に進んでいることだけは彼女にもわかった。

 あたしの運命の地。

 彼女は道すがら考える。そのためにあたしは生まれてきたんだ。

 彼女は当然、景色というものを知らない。文字の読み書きができるようになってからというもの、顔の布を取り払うことを禁じられてしまったし、それらを学ぶ時でさえ、薄暗い机だけの、窓すらない小部屋であったからだ。

 けれど、見ることを禁じられているのに、信徒たちはなぜ、読み書きをあたしに教えたのだろう?

 オトネはそれを一度だけゴンダラに訊ねたことがあった。「女神マルドゥーラ様に失礼のないように。」彼の答えはそれだけだった。その老人は彼女の質問に対してのほとんどを、その答えで返してきた。食事の作法、お辞儀の仕方、言葉遣い。それらに対する彼女が抱いた質問の全ての答えがそれだった。

 「女神マルドゥーラ様に失礼のないように。」



 旅路は過酷であったが、彼女はそれを少しも感じなかった。潮の香りや舷梯を渡る時の足許の危うさ、頬に受ける風や、時折頬で溶ける雪の粒。船首を叩く波の音、カモメの鳴き声や馬や別の動物の臭い息。山道を登る時の荒い人いきれ。鎖の音、衣擦れの音、花の匂い、鳥の声。全てが新鮮であり、彼女は塞がれた視界以外の感覚で、それを出来るだけ取り逃さないように感じ取っていた。

 ごつごつした岩山を抜けると、開けた野原に出たことをオトネは匂いと耳で感じ、それらに混じって、馬とは違う生臭い息づかいと気配を感じた。

 アペフ。

 彼女は心の中でそう呟く。彼女にはその巨大な気配が、リンドヴルムの石の竜、アペフだということを知っている。フラバンジ五千年の悲願。あたしはそのために生まれてきたんだ。彼女は何度となく聞かされたマルドゥーラ大神殿の様子を、頭の中に思い描いた。

 しばらく進むと、前方からあまり聞き慣れぬ鉄の擦れる音が聞こえてくる。土を蹴るひずめの音が目の前で停止し、多くの緊張を孕んだその気配に囲まれ、彼女は身を固くする。

 「次の使えるアペフはまだ動かぬのか?」

 威圧的な男の声が聞こえる。ゴンダラは何も応えない。しるべ布が引っ張られ、オトネは慌てて足を踏み出す。

 「レムグレイドがすぐそこまで迫っているというに、マルドゥーラの炎は腐ってばかりだ。」

 その声に布がたわむ。

 「お言葉ですが陛下。千年巫女の御前で、女神様を愚弄いたしますか?」ゴンダラの尖った声に、兵士達がたじろぐのが分かる。すぐに布が張りつめ、またしても彼女はそれに翻弄され、つまずきそうになる。通り過ぎる左右の人いきれから、鉄と汗に混じった奇妙な臭いが立ちこめる。

 この匂いはよく知っている。

 「これ以上、アぺフが敵国に向かわず、腐りは果てるのみならば・・、」男の声がすぐ隣に聞こえる。「・・マルドゥーラなど、余が切り捨ててやろうぞ。」

 男のその言葉で、ふたたび布がたわむ。

 オトネは、そのすぐ頬の側、馬上の男の向こう臑の嗅ぐ。彼女が過ごしてきた日々、影のように付き従う信徒、時にゴンダラの発するものと同じ匂い。

 そう。

 これは、恐れの匂い。

 「祈願さえ成就すれば・・、」ゴンダラは口を開くが、同時に、オトネが男の臑に触れるのを見ると、彼は唖然として口を噤む。威勢を張る当人も、周りの兵士たちも息を呑み、彼女の動向を見守る。

 オトネは首を伸ばし、思い切り息を吸い込む。鼻腔に入り込んだ男の匂いを堪能する。“切り捨てる”。この男はそう言った。そんな物騒な言葉を吐き出しながら、この男は他の誰よりもあたしを恐れている。

 それが彼女には可笑しくて、つい笑顔がこぼれてしまう。

 「なにをっ!・・なぜ笑うっ!」

 男の狼狽した声を聞くと、彼女はさらに笑いだす。

 鉄が擦れ合い、気配が一斉に遠離る。馬が男の混乱を察知し、大きくいななく。

 「とにかく!アペフをすぐにでも敵国に向かわせるのだ!」そう叫ぶ男の声が遠ざかり、同時に、側にいた兵隊たちも忙しく金属音を響かせて、逃げるように去って行く。

 彼女は布の内側で暗い瞳を向け、耳と鼻だけでその様子を楽しげに堪能する。

 恐怖。それこそが人を従属させる唯一の術。ゴンダラにも何度となく聞かされてきた。そしてオトネ自身もそれが真実だということを、幾度となく体験してきた。それは、付き従う影。食事を運ぶ信者たち、湯浴みの後で身体を拭く者、本読み教師の声色。彼らのすべてが自分の一挙手一投足に神経を注ぎ、気を張る気配のその奥に常に宿り、その声、その指先を小刻みに震わせていることを、彼女は知っている。



 大神殿は石の匂いしかしない。足音だけがだだ広い空間に反響し、止むことなく鳴り続いている。瞼の裏まで突き抜けてくる陽射しが眩しい。こんなにも強い光のなかに母様はいるのかしら。オトネは少しだけ不安になる。しかしそれもすぐに解消される。しるべ布がくいと引き下げられ、階段を下る合図がきたからだ。

 ところが今度はその階段の余りの長さに、彼女は不安になる。テマアルトに持ち上げられた大地の底に辿り着いてしまうかと思ったからだ。それは“ベラゴアルド創世”の序文。ベラゴアルド公用語と、フラバンジ語の両方で、本読みの教師は聞かせてくれた。

 彼女は、声に出さずにそれ暗唱しながら歩く。大地を割ったパズウク。セオが世界を焼き尽くしに来る前に、それをひとつにするのがフラバンジ帝国の務めだという。

 世界。あたしにとってはどうでもいい。どうせ見ることも、ひとりで歩くこともできないのだから。あたしはただ、これから母様に仕え、リンドヴルムを操るための儀式に移る。それがあたしたち千年巫女の務め。それがあたしの生きる意味。世界も、フラバンジ帝国もどうでもいい。

 ・・けど。それをしないと、どうなるのだろう? 別の誰かが務めを果たすのだろうか? あたしは千年前の巫女、マイーナのことなんて知らない。もちろん、ラクシャもオンハもパリシャも知るわけもない。あたしが最後の巫女だとしても、あたしが務めを果たせなくても、彼女たちに申し訳ないとは少しも思わない。

 オトネは長い下り階段でそんなことを考える。すると、頭上から叫び声が聞こえる。しるべ布がたわみ、彼女は立ち止まる。石に響く足音が反響し、近づいてくる。声がさらに近づき、取り囲む信者たちも騒ぎはじめる。ゴンダラが何かを叫び、肩を強く抱き寄せられる。

 その瞬間、荒い息遣いが聞こえ、温かい液体が顔にかかる。

 「・・リンドヴルムを解放しろ!」彼女の目の前で男の声がそう言う。そうして布が裂ける音がして、また温かいものが身体中にかかる。ぬるぬるとした手触りと、鉄の匂い。いや、これは血の臭いだ。彼女はそう感じるが微動だにしない。

 やがて男の声が喚きながら遠離る。「マルドゥーラこそが民を貶める元凶だ!」息も絶え絶えに叫び続ける。「・・竜を解放しろ・・、竜を、七つの空へ返せ、」そこでゴンダラに耳を塞がれる。別の信徒が顔の血を拭ってくれる。

 「フラバンジが滅びるぞ・・、」水気を帯び、こぽこぽと、うがいをするような声が反響したのを最後に、辺りは静まりかえる。

 「狂信者め。」ゴンダラが吐き捨てるように言うと、また進みはじめる。取り囲む信徒がひそひそと言葉を発する。「兵隊たちはなにを?」「日をあたらめましょう。」「これは不吉な兆候です。」そう言い合うが、ゴンダラの一喝で、皆は黙り込む。

 それからは何事もなかったかのような時間が流れる。階段は途切れ、今度は真っ直ぐ長い通路が続く。隊列が止まった頃には、頬にあたる空気の淀みからその先が行き止まりだということがわかる。

 「この先がカーク・ラノアとなります。」ゴンダラが言う。

 カーク・ラノア。オトネは心の中で反芻する。フラバンジ語で『女神の窟』。あたしの最期の拠り所。何度も聞かされたそこでの習わしを思い出す。そこは、千年巫女でしか立ち入ることが出来ない聖地。

 「さあ、オトネ様。」

 ゴンダラに促され前へ出る。目の前で重い何かが動く軋んだ音がし、地面が震える。信徒の気配が近づき、彼女の後頭部に触る。目隠し布が頬をすべる感覚に、彼女は取り乱す。

 「待って!」

 しかし信徒たちはそれを止める素振りを見せない。今まで皮膚の一部のようだった目隠しが取り払われ、冷たい空気が肌や瞼に触れることすらも、オトネは恐怖に感じる。



 「朱鷺のキンギンカの密の味。」

 恐怖を拭うために、オトネはわざと声に出して歩く。「緑鳩のワタリギンコの鳴き声。」両手でいくら探ってもしるべ布は掴めない。両腕を振り回してもどこにもぶつからない。周りに気配は感じられず、完全な孤独を初めて体験する。

 架空の友人だけが心の支えとなる。心細いしるべのない路で、彼女は友人に自分の好きなものを語り続ける。

 右手にひんやりとした手触りを見つける。壁を伝い、何とか前へ進む。何度も頬を触り、目隠しが無いことを確認するが、未だに瞼を開ける勇気は湧かない。

 「黄燕のハクジソウの匂い・・。」そこで壁が途切れ、前方に開ける空間があることが感覚でわかる。

 両手を胸元に握り、不安げに脚を前へと進ませる。「金鷹のカンムリオオバの羽音・・、」声が震える。目の前に誰かの息遣いが聞こえる。「紫千鳥のボアボアの鳴き声。赤燕の・・、銀雁の、アタリガラスの・・、」

 「・・今宵は、月も出ていない。」目の前でそんな声がする。

 オトネは声を出せない。

 「さあ、オトネ。目を開けなさい。」

 そうして大きな気配が近づいてくる。その冷たい指先が彼女の頬に触れる。

 「目を開けるのです。」

 声に促され、彼女は恐る恐る瞼を開く。

 「あれ?」しかし、目の前には何も見えない。彼女にはそれがどういうことなのかが分からない。視界の先にも暗闇があることを、彼女は想像すらもしていない。

 「それで良いのですオトネ。慣れてくれば、次第に、闇を見分けられるでしょう。」耳障りの良い優しい声色。「光は、あなたには刺激が強すぎます。」

 「母様。」すがるように呟き、手を伸ばすが、指先に滑らかな布が触れ、すぐに逃げていく。

 「母と呼んでくれるのですね。」

 暗闇でも微笑んでいるのがオトネには分かる。このひとがフラバンジの絶対神。重き淑女、軽き母。女神マルドゥーラ様。あたしの母様。彼女はその姿をひと目見ようとじっと眼を凝らす。広い暗闇のなかで一際黒い影が揺らぐのが見える。

 「妾とお前。少しづつ、世界を二人のものにしていきましょうね。」声は近付いたり遠ざかったり、まるで空中を泳いでいるかのように聞こえる。

 「けれど、近頃はちと外が煩い。」マルドゥーラが物憂げに言う。

 そうして急に目の前に迫るのが影の濃さでわかる。素早く、勢いよく近づいてきたわりには、女神は優しくオトネに触れる。そうして左手を取り、そっと小指に口づける。

 「痛っ!」一瞬だけ小指に熱いものが走る。手を引っ込めると痛みはもう消えている。それからいつの間に、右手には何か丸いものが握られている。それは柔らかく、指で触ると少しへこむような感触がする。

 「母様?」少しだけ目が慣れてくる。オトネは、マルドゥーラの微笑の、白い歯を見る。

 「それを外の者に渡すが良い。」明日また来なさい。女神は歌うようにそう言うと、闇の中へ溶けていく。


 目が慣れると、カーク・ラノアの中は、真っ直ぐだと思っていた通路が複雑に入り組んでいたことがわかる。そこは今でも暗闇でしかないのだが、闇にも様々な種類があることをオトネは知る。

 むしろどうして目を瞑ったままに、母様のもとへ辿り着けたのだろう?あまりの通路の複雑さに彼女は不思議に思う。何度か路を間違えて、何とか元の大扉の前に戻る。扉を叩いてしばらく待つと、重い鋼鉄が開かれていく。

 その先も闇に包まれてはいるが、皆が額を床に付け、ひざまづいていることを知っている。あたしが来たから、皆は灯火を消している。あたしが目を開けているから、皆は喋れもしなければ、見る事もできないんだ。

 オトネはその様子を観察する。先頭で丸くなっている背中がゴンダラであることは間違いなさそうだ。他の信徒たちは普段からほとんど口を利かず、気配だけの存在なので誰が誰だかわからない。

 しばらくそうして、うずくまる彼らを眺めていたが、皆、石のようにまるで動かず、退屈になってきたので、彼女はゴンダラの前で瞳を閉じ、声を発する。

 「巫女が命ずる。皆、面を上げよ。」すると布が擦れる音がして、気配が彼女を囲み、瞳が再び隠される。

 「初の務め。ご苦労様です。」ゴンダラが口を開く。「して、女神様は何と?」オトネは何も答えず、代わりにマルドゥーラに渡された玉を差し出す。

 「おお!これこそが“軽き肉”!」ゴンダラが今まで聞いたことのないような大声を出す。

 「これで、これさえあればアぺフを操れる!これであの小煩い皇帝も文句はあるまい。」

 いつでも儀礼を重んじるその老人は、今度ばかりは高揚を隠そうともせず、なにやら呟きながら、気もそぞろに礼を言う。

 そうして、そそくさと走り去っていく衣擦れの音を、オトネは黙って聞いている。


−後編へ続く−


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