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仕事と責任|技術と医療と教育の視点から

おはようございます。今日は雨なので、朝散歩ができませんでした。朝散歩ができないと憂鬱な気持ちになりますね。おなかのお肉も燃焼できない感じが不快感だなと思います。

さて、今日は仕事と責任について考えてみたいと思います。

職業倫理の存在

私はエンジニアなので、技術士という資格を取ろうと一度だけ試験を受けたことがあります。当然数学も科学系の科目も、ほぼ中学生レベルの学力なので受かりませんでした。

技術士の資格を受けるに当たって、技術士倫理という科目があることを知りましたが、これは要するに、最近よく言われるようになってきた技術的特異点(シンギュラリティ—)を引き起こさないようにするための配慮を常に持って、一人の人間として開発する内容とその技術によって社会に与える影響について責任を持たなければならないということだと思います。

技術的特異点とは、人間が技術を制御できなくなるタイミングのことです、つまり、ホラーゲームのバイオハザードのようなウイルスに支配された世界やSF映画のようなコンピューターに支配された世界などを引き起こさないように配慮しないといけないということだと理解しています。

日本の資格試験における倫理の存在

技術士試験には技術士倫理という科目があるということを先ほど書きましたが、他の試験はどうでしょうか。例えば、医師試験には医療倫理という科目があります。

技術士は技術の使い方を十分に考えて、人の幸せなどに良くない影響を与える技術を開発してはいけないということをしっかりと理解し、確認するために技術士倫理という科目があると思います。特に情報工学分野においては、コンピューターに支配された世界を、生物工学分野においては、ウイルスに支配された世界を創り出す危険性があるため、それらを未然に防ぐ必要があります。

医療倫理も同様です。医療は人間の身体を扱う学問なので、人間の身体に対する何かがあってからでは遅いということですね。

では、学校の先生はどうでしょうか。

教員採用試験には、教育倫理という科目がありません。教育とは、組織全体(日本においては日本全体)における人の持つ思想を制御するための機能のことです。人の持つ思想とは、人の精神や思考の順番や組み合わせによって定義できます

教育倫理不在の理由を考えてみると、人の精神や思考は目に見えないため、まずそれらの認識自体が非常に難しい。その上「人それぞれ」という言葉がある通り、人の考え方は多様性が保証されています。これは、人の多様性に関するすべてのバリエーションを考慮した倫理の確立は可能か?という問題があるということです。つまり、教育倫理の確立は困難を極めます。

各職業の責任

技術士が扱う「技術」は様々な分野に分かれていますが、それらの技術は、主に企業や国家が利用します。社会を変革・変容させるために活用される形が一般的かと思います。そして、企業の各担当者や代表者、国家の各担当や代表の方々は、社会の変革に対して責任を持つ必要があります。

医療技術は、人間の身体を制御するために利用されます。当然ながら、医師は、人の身体に対して与える影響に対して責任を持つ必要があります。

では、学校の先生はどうでしょうか。

学校の先生は、人の思想構築(=思考・精神構築)に対して責任を持つ必要があります。思想とは、考え方とも言い換えることができます。そして、人は考え方によって、人生が大きく変化します。

つまり、学校の先生は人の人生に対して責任を持つ必要があるということです。

教育者は学校の先生だけではない

教育倫理の不在、人の人生に対する責任の重さの2つを認識して仕事を行っている学校の先生は日本にどのくらい存在するでしょうか。

学校の先生一人一人が、担当する全員の人の人生に責任を持てない仕事をしている前提においては(現実は私にはわかりません)、それら先生に育てられた子供たちが幸せになれる確率が下がる可能性があります。ただ、人は成人すると自由と同時に責任能力を付与されることになっているため、結局学校の先生の責任にはできません。最後は自分次第という言葉の通りです。つまり、これは学校の先生だけの責任にすることはできません。

そして、1人の先生が担当する子供の数は通常かなり多いため、先生個人の時間だけでは全員に必要な教育リソースが行きわたらない可能性があります。やはりここでも時間の制約があるのですね。つまり Time is Education の法則が成立します(この前の信頼もそうでしたが、何でも Time is が付きそうですね…笑、時間って概念はすごい!)。

しかし、多くの子どもには保護者が存在しますので、保護者と学校の先生で責任を分担して、教育(考え方を教えること)を実践する必要があるのかもしれません。

まとめ

では、少し視点をずらしてみましょう。

大学などの研究機関は新しい技術や理論を実証・開発し、実証・開発活動によって実現された既成事実に対して責任を持つ。企業は研究機関が開発した理論や技術を用いて、それらを社会実装することで、人が幸せに暮らせる社会変革を実現し、その変革活動の既成事実に対して責任を持つ。国家は、これら全部をうまく調整するのが役割であり、これら全部に対して責任を持つ必要があります。

私たちが暮らす社会全体について、正しく理解をし、自分は何が得意なのか、自分には何ができるのか、自分の役割は何かを常に考え、お互いに価値の交換を行いながら、より良い未来を創造することが求められているのではないかと思います。

昨年よりパンデミックによって社会は大きく変化し、次の時代に向けてのカウントダウンが確実に進行を続けています。

自分自身を振り返ってみて、改めて感じますが、今一度、自分自身の仕事や責任について振り返ってみたいと思います。どうすれば、家族や仕事仲間など、人が幸せに暮らせる社会創造が実現できるかについて、模索を続けていきたいと思います。

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