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言うてな

 スマホのメモを整理していると、いつ書いたのかわからない映画の感想文が出てきた。メモの容量を減らさないといけないので、変なタイミングですがせっかくなのでここに残しておこうと思います。




1.「社会に出るってことは、お風呂に入るってことなの。」

広告代理店でバリバリ働く絹の両親・早智子(戸田恵子)と芳明(岩松了)が、就職もせずフリーターのまま同棲生活を続ける絹(有村架純)と麦(菅田将暉)に言い放ったこの一言。

いかにも”広告代理店感”溢れる絹の両親と、共感はできないけど話を合わせる麦と相変わらずな両親に冷めた目線を向ける絹。一緒に食卓を囲んでいるとは思えない空気の分断の対比、それがなんともシュールで。

世の中の大半の人は「社会に一度出てみたところで”入ってよかった〜”とは思わないだろ」と感じるであろうなかで、「入ってみると”あ〜入ってよかったな〜”って思うの」と熱弁する早智子の姿は傑作だと思った。それにしても、こんな例えを思いつく坂元裕二はやはり天才である。




2.「カラオケやに見えない工夫をしたカラオケやでカラオケするIT業界人はたいていヤンキーに見えない工夫をしたヤンキーで、”結局、やるかやらないかなのよ”、この言葉がなにより好き。」

絹が人数合わせで呼ばれた西麻布で、合コンなのか異業種交流会なのか”よくわからない飲み会”が開催されていた。この台詞は、会場にたどり着いた瞬間の絹の心情。

普段IT界隈に生息はしていないが、友達から似た話を聞いたことのある僕は思わず吹き出してしまった。

”よくわからない飲み会”の情景がものの見事に頭の中に広がるこの一言、素晴らしい。




3.「ほぼうちの本棚じゃん」

明大前から自宅までの終電を逃し、運命的な出会いを果たした麦と絹。 とは言っても、二人きりだったら"花束みたいな恋"は生まれていなかったかもしれない。同じく終電を逃した男(小久保寿人)と女(瀧内公美)に声をかけられ、4人でカフェバーで時間を潰すことになる。

映画好きと言いつつ「好きな映画はショーシャンクの空に」とか言っちゃう男と「去年観た中で一番よかったのは実写版 魔女の宅急便」とか返しちゃう女。サブカル好きな麦と絹とはまるで正反対。

早々に解散し意味ありげな雰囲気でタクシーに乗り込む男女を脇目に、何事もなく終わると思いきやカフェバーに居合わせた押井守の話で盛り上がり、居酒屋、ひと悶着あってからのカラオケやさんに見えるカラオケやさん、缶ビールを飲みながら散歩している内に大雨に振られ、麦の部屋に駆け込む二人。

部屋に入るなり絹が言った、この一言。麦と絹の嗜好性が98%一致していることを如実に表現している。

好きな台詞ではあるけども、僕だったらちょっと嫌だなとも思ったりする。なぜなら、多くの時間を過ごす人と”ほぼ”インプットするモノが同じだったら、つまらないから。好きな領域は同じでありつつ、自分が知らない世界に導いてくれるような人と一緒にいられたら、もっともっと”好き”を深堀りできそうだから。

…みたいな自論は置いておいて、共感できるかできないかはどうであれ、運命的な出会いということがわかるこの一言に痺れる。




4.「こういうコミュニケーションは頻繁にしたい方です。」

3回目のデートの後、タイミングを逃しながらもようやく彼氏彼女の関係性になった麦と絹。帰り道、お互いの苦手なタイプを(まだ)敬語で話しながらそれぞれの自宅に向かって分かれようとする二人。もどかしいなぁと思いきや、押しボタン式に気付かない赤信号で、手を絡め、キスをした後に絹がつぶやいたこの一言。

……有村架純は全ての男子を殺す気なのかな?

“こういうコミュニケーション”って、恋愛関係である二人にとってすごく大事な部分なのに、日本人特有の恥ずかしさが勝ってしまい、どうしてもすり合わせが難しいところだと思う。付き合いはじめた直後に自身の価値観を伝えられる絹は強い。

直接的ではなく、間接的な言い方でふんわりと表現するあたり、坂元裕二様様だと思う。




5.「女の子に花の名前を教わると、男の子はその花を見るたびに一生その子のことを思い出しちゃうんだって。」

旅行先で撮った写真を見返しながら、「この花ってさ、よく見るけどなんて言う花なの?」と絹に問いかける麦。答えようとした絹が言ったのがこの一言である。
まるで自分の言葉かのように発した台詞は、絹が愛読していた『恋愛生存率』というブログを書いていたメイさんが言っていたことらしい。

よく考えると、『花束みたいな恋をした』とニアリーイコールな一言だと思えてくる。恋愛全盛期で”終わり”について考える余地もない二人のはずなのに、絹はなぜこの言葉を伝えたのだろうか。絹が麦の隣にいない未来で、その花を見るたびに絹のことを思い出さないようにしてほしいだなんて1ミリも思うわけがないのに。

そして、この周辺のシーンは、『花束みたいな恋をした』の真意を喚起させるナレーションがやたらと多いことにお気付きだろうか。

“そのメイさんが書くブログのテーマはいつも同じで、「始まりは、終わりの始まり。出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティのようにいつか終わる。だから恋する者たちは、好きなものを持ち寄ってテーブルをはさみ、おしゃべりをし、その切なさを楽しむしかないのだ。”

もちろん、ナレーションの主は絹である。最終的に別れることを促進するのは絹だ。…これ以上あまり深いことは考えたくないと思う。




6.「一人の寂しさより二人の寂しさのほうがよっぽど寂しいって言うし」

“現状維持”をするために就職をした麦と絹だったが、その就職という環境の変化から”現状維持”ができなくなる負のループから抜け出せなくなった。 そんな空気を察した絹の転職先の上司・加持(オダギリジョー)から言われたこの一言。

一人でいるときに寂しく感じるのはそれなりによくあることだ。でも、二人一緒にいるときに寂しいと思う相手なんて早く別れた方がいい、ろくなものではない。一緒にいるのに、いないことにされているのと一緒だ。

それなのに、当事者はその事実になかなか気付けなかったりする。だから、他人が恐れずに伝えてあげる必要があると思う。オダギリジョーに言われたらそれはもう、誰でもハッと目が覚めるはずだ。




結局、「花束みたいな恋をした」って、どういう意味なのだろう?

劇中にこれでもかというほど登場するたくさんの名言を思い出しながら色々と考えた結果、僕はハッとした。

『花束みたいな恋をした』ってタイトルそのものが、何よりもの名言なのではないか。

過去形で終わっているということは、もうすでに花束ではない。

ちまちまと水やりをしたり、日が当たる窓際に置いてみたり、「ただいま、今日も疲れたね」などと話しかけてみたりする。コツコツとコミュニケーションを重ねて小さな蕾が満開になったと思ったら、またたく間に枯れて、最後に色褪せたドライフラワーになる様が花の一生だ。

思い返してみると、こんな恋愛に心当たりがあるのでは?

消えてなくなってくれたら忘れられるかもしれないのに、花束は綺麗な思い出だけが残るドライフラワーとして残っちゃうんだからやっかいなのだと思う。

いま、花束みたいな恋をしている人がいたら、何も言わないから”今”を思う存分に楽しんでほしい。

すでに、花束みたいな恋をしてしまった人は、その経験を胸に前に進んでほしい。勿忘草の花言葉・「私を忘れないで」って心の中で思うくらいはきっと許されるのだから。





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