なんとなく、体験らしいことを脚色しまくりで書いています。でも事実ベース
お風呂をでた。浴衣で夕涼みをしながら、氷を落としたワインをちびちび。饒舌でもなく、寡黙でもなく、普段みたいになんとはない会話が続く。非日常でくつろぐなんてハマるね。お金持ちがやりたがるわけだ。自分はお金持ちではないけれど。 「チカちゃん、そろそろ休まない?」 「礼ちゃん、ホントに休まないでしょ?」 「わかってるくせに。愚問ね」 「愚問でも聞くさ。ルビコンを超えるからね」 「この旅行に出た時にルビコンは超えたのよ。アハハ」 「アハハ、そうだ。キミの方が正しいね。休も
お風呂は露天風呂。お湯に入れば心地よい。彼女は向かい側にこっちを向いて入っていた。かけ湯をして体を洗って湯船に入る。彼女のむかいだ。 「チカちゃん、お風呂気持ちいいね」 「礼ちゃん、温度丁度いいよ。リラックスできそう。ワイン回り始めたけど」 「ほんのり赤くなってるわね」 「あまり君は赤くならないね。体質かな」 「そうかもしれない。でもあまりたくさん飲まなかったのよ。そっち行くから」 「オケ。ウェールカム!」 ふたりならんで湯船に入る。肩に手を回してみた。嫌がらな
夕食タイムがやってきた。お部屋ではなく個室に出向いて食べるのだ。二人で浴衣姿でリラックスして個室で創作懐石をいただく。あまり堅苦しく解析ではなく、なかなかユニークなつくりのお料理も多い。眺めて、味わって、とてもおいしかった。お酒はあらかじめ今日買ったワインを冷やしてもらっていたので美味しくいただけた。 食事も終わり、部屋に引き上げる。ほろ酔い気分が心地よい。 「一休みしてお風呂入ろう」 「そうね、今はいると一気に回っちゃうよね」 「お部屋のお風呂はありがたいね。とても
夕方、日もだいぶ傾いてきた。涼風もたち、いったん、部屋に戻ることにした。部屋は和室でかけ流しの温泉がついている。竹林と竹編みの壁で外界と隣の部屋を仕切っている。うっそうとしているわけではなく、上空が開けているから明るい。もちろん、2階はない。 「いい部屋のセレクトだね、礼ちゃんナイス!」 「チカちゃんなら気に入ってくれると思っていたの。よかったー」 「会社さぼって、よいね。罪悪感を覚えないくらい突き抜けてよいよ」 彼女は笑った。とてもリラックスしたいい顔だった。 「
母から聞いた昭和の話
最近の傾向ではない。昭和も中ごろ位は女性でも結構な喫煙率であったがこれにはワケがあった。死んだ母方の祖母はそれは見事なたばこのくゆらせ方をしていた。その筋とかお水の商売をしていたわけではない。 母から聞いた話ではこれは戦争中の「配給」「食糧事情」と大きな関係があったそうである。 戦争中は食糧統制が行われており、基本的には配給で食べるものは手に入れていた。現物が支給されるわけではない。配給切符(チケット)がないと食料品が買えないのである。しかしよくしたもので身内に軍人、特に
これは母と祖父から聞いた戦前の自動車事情である。当時のクルマはスターターなんてものはないからエンジンのクランクを手動でぐるぐる回してエンジンをかけていた。エンジンは噴霧式のキャブレーターだから気温に応じてチョークを引く。しかしこれが難しくてチョークの引きが甘いとエンジンは始動しない。だからと言ってチョークを引きすぎてしまうといわゆる「カブって」しまってエンジンはかからない。「カブった」エンジンは燃焼室内をいったん乾かさなければいけないから、カラでクランを回してやらなくてはなら
上野御徒町、松坂屋の裏あたりに古いとんかつ屋さんで「蓬莱屋」さんというおみせがある。ここはいつから続いているかはよくわからない老舗である。 昭和の三十年代後半の話を母から聞いた。 母と祖母はよく買い物に出かけていた。渋谷なら東急、日本橋なら三越か白木屋、銀座なら松屋、上野なら松坂屋、それぞれにひいきのお店があったようなのだ。 上野松坂屋の帰りにランチを食べることになった。たまには贅沢してとんかつでも奮発するか、と蓬莱屋さんに行って、とんかつを堪能したそうである。(私も年
これは昭和14年か15年くらいの話であると思う。 湘南に海水浴に行くのは戦前からのことで浜茶屋を使うのも当たり前である。母が幼かったころにはフォードが3台あって、自家用車としてもよく使われていたらしい。 夏のある日、母一家は祖父の運転で祖母、母、叔母で絵に島に海水浴に行った。当時、自家用車で海水浴行くなんて、今でいえば自家用のヘリコプターでゴルフに行く、くらいに思われていたそうである。 家族そろって、浜茶屋で涼みながら海水浴を一日エンジョイした母一家が浜茶屋を後にすると