見出し画像

古いクルマの話

これは母と祖父から聞いた戦前の自動車事情である。当時のクルマはスターターなんてものはないからエンジンのクランクを手動でぐるぐる回してエンジンをかけていた。エンジンは噴霧式のキャブレーターだから気温に応じてチョークを引く。しかしこれが難しくてチョークの引きが甘いとエンジンは始動しない。だからと言ってチョークを引きすぎてしまうといわゆる「カブって」しまってエンジンはかからない。「カブった」エンジンは燃焼室内をいったん乾かさなければいけないから、カラでクランを回してやらなくてはならない。エンジンがかかったとしてもすぐにチョークは戻せず、安定するまではアイドリングしなければならない。当時のクルマは点火タイミングをつかさどる「進角」というものを手動で調整していた。回転数に応じて「進角」を調整してやらないと圧縮中に点火したりしてエンストしてしまう。とにかく今みたいに鼻歌交じりで自動車を運転できることはなかった、と聞いている

未舗装路も多くパンクも多かった。当時のタイヤはチューブ式タイヤであるので、修理するにはタイヤからチューブを引き出してパンク個所を見つけ出してパッチを当てて、ということをやっていた(今の自転車レベル)。お客商売(営業車)でそんなトロイことは許されないから、スペアのタイヤを常に準備しておき、パンクの一報が入ると自転車の荷台にタイヤを括り付けて届けていた、とのことであった。届いたタイヤは今のように一人でも交換は無理で二人がかりであったそうである。「助手席」にはエンジン始動補助、トラブル対応要員として人が載っていたとのことで、祖父は死ぬまで「運転台と助手台」と言っていた。

当時は赤坂の溜池や麹町界隈が自動車屋さんが多くあるところであり、その辺でピカ一であったのは綿引自動車という自動車屋さんであった。興味があるのでインターネット調べてみたら麹町は手狭となって、今は埼玉県の戸田市に移転されて今でもかなりの有名なお店のようである(https://www.watabiki-jidousha.co.jp/)(https://carcareplus.jp/article/2020/07/14/4965.html)スーパーカーやスポーツカーでも昭和の終わりくらいまでは輸入されたらまずは綿引に入庫させて手を入れるというのは通人の間では常識であったようである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?